第4話:ゴミ箱の中にある宝の山
「信じられない……。アイリス様、本当にあそこに踏み込むおつもりですか?」
カイルは剣の柄を握りしめたまま、自身の目の前に広がる光景に身震いした。
領都から北へわずか五キロメートル。
そこには、大地の裂け目というよりは、世界そのものが口を開けたかのような巨大な穴――「ザ・アビス」の入り口があった。
穴の底からは、どろりと重い、紫色の光を帯びた霧が絶えず湧き出している。
それが冷やされ、粒子となって地上に降り注ぐのが、あの「魔導スラッジ(灰)」の正体だ。
周囲の岩肌は、マナの過剰摂取により異常発達した苔や、結晶化した鉱石が不気味に脈動しており、生物を拒絶するような威圧感を放っていた。
「当然でしょう。プロジェクトの現場調査を行わずに、どうやって事業計画が立てられるというの?」
アイリスは、裾をまくり上げ、自作の「防御マスク(布にハーブとスラッジの濾過材を仕込んだもの)」を装着していた。
彼女の背には、カイルが集めてきた十人の屈強な(そして、アイリスに夕食で釣られた)男たちが控えている。
彼らは「呪いの大穴」に近づくことへの恐怖で顔を引き攣らせていたが、アイリスの背中があまりに堂々としているため、逃げ出すこともできずにいた。
「いい? 皆さん。この穴は『死の宣告』などではないわ。最高純度のマナが、重力の法則に従って液状化し、そこから溢れ出しているだけの『資源の噴出孔』よ」
アイリスは穴の縁にしゃがみ込み、持ち込んだピンセットで、岩肌にこびりついた「スラッジの原液」を採取する。
「……ふむ。想定よりも粘度が高いわね。これは、マナの活性が高すぎるせいで、分子レベルでの自己凝集が起きている証拠だわ。でも、これだけ活性が高いなら――」
アイリスは目を細め、隣に立つカイルを見上げた。
「カイル様。あなたの聖剣――確か、光属性のマナを増幅する機能がありましたね?」
「ええ。王家より賜ったこの『光耀の剣』は、対魔物用として最高峰の――」
「素晴らしい。その剣を『攪拌棒』として使いたいわ。その先端をこの霧の中に突っ込んで、一定周期で波長を乱してちょうだい」
「……はい?」
カイルの思考が一瞬、停止した。
王家代々の宝、英雄の証たる聖剣を、何だかよく分からない紫色の霧をかき混ぜる「棒」にしろと言うのか。
「アイリス様。これは儀礼的にも、そして魔力的にも、あまりに——」
「効率の話をしています。今すぐそれをやってくれれば、私はこの霧の結晶化係数を一〇分の一秒単位で計測できる。拒否するなら、あなたが代わりに素手で霧をかき混ぜて。マナ中毒で全身が結晶化するリスクは、私が統計的に三〇パーセント程度と予測してあげるから」
「……分かりました。やればいいのでしょう、やれば!」
カイルは半ば叫ぶようにして剣を抜き、紫の霧へと突き立てた。
聖なる光が霧を切り裂き、激しいスパークが発生する。
だが、アイリスはその火花を逃さず、持参したクリスタルの試験管で次々とデータを記録していく。
「完璧だわ! 見てカイル様、この励起反応! このスラッジは、光属性の干渉を受けると安定した『蓄電性粘土』に変化するわ。これがあれば、電池なんて原始的なものではなく、この領地全体を支える『魔力回路』そのものを作れる!」
アイリスの興奮は最高潮に達していた。
彼女の脳内では、すでにこの巨大な穴を「心臓」とし、領地全体へと血管のように魔力のパイプラインが伸びていく図が完成していた。
――その時。
穴の底、紫の霧が激しく渦巻いた。
ズル、ズルり。
重い、何かが這いずる音が響く。
「……ひぃっ! 『大穴の守護者』だ! 逃げろ!」
後方の領民たちが悲鳴を上げた。
霧の中から現れたのは、全身が黒い水晶で覆われたような、巨大な蜘蛛型の魔物だった。
それはスラッジを喰らい、その膨大なエネルギーを体内に蓄えた、自然界のバグのような存在だ。
八つの複眼が、侵入者であるアイリスたちを冷酷に捉える。
「アイリス様、下がってください! ここは私が――」
カイルが剣を構え直そうとした。
だが――。
「動かないで、カイル様!」
アイリスの声が、カイルの動きを制した。
彼女は逃げるどころか、一歩前に進んでいた。
その手に持っていたのは、先ほど採取した「スラッジの原液」が入った試験管と、一本の細い銅線。
「いい? あの魔物はスラッジを主食にしている。つまり、奴の体内のマナ循環は、あの穴の霧と『同調』しているという事よ」
「何を言っているのですか!? 早く避難を!」
「三秒、待って」
アイリスは冷静に、試験管の中のスラッジに銅線を差し込み、それを地面の特定の「結晶ライン」に接触させた。
「――アース完了。共振、開始」
ピリ、という小さな音がした。
次の瞬間。
アビス・クロウラーの動きが、ピタリと止まった。
魔物の体内にある膨大なマナが、アイリスが作った「回路」を通じて、一気に地面へと『放電』され始めたのだ。
ギィィィィィィィィッ!!
魔物は苦鳴を上げ、全身から紫色の火花を散らしながら、その場に崩れ落ちた。
死んだわけではない。ただ、体内のエネルギーをアイリスに強制的に「吸い上げられた」ことで、一時的なシャットダウン状態に陥ったのだ。
「……信じられない。聖武具も使わず、ただの試験管一本で、あのランクS級の魔物を……」
カイルや領民たちが、腰を抜かしたままアイリスを見上げた。
アイリスは、動かなくなった魔物の足にそっと触れ、記録を続けた。
「ふむ。この足の殻、かなり優れた『絶縁体』だわ。後の発電炉の被覆材として使えそうね。カイル様、これを適切に回収してちょうだい。それと、今の放電で付近のスラッジが『焼結』したわ。これは陶器や建材の原料として最高級品よ」
アイリスは立ち上がり、砂埃を払った。
「言ったでしょう? ここはゴミ箱じゃない。すべての絶望が、私の理論を通せば『最高の部品』に変わる。さて皆さん、腰を抜かしている暇があるなら、この建材のサンプルを運んで。一時間以内に戻れば、予定通り『第1号精錬炉』の設計に入れるわ」
彼女は、まるで市場で買い物を済ませたかのような軽やかさで、再び領都へと歩き出した。
その後ろ姿を見つめるカイルは、ある確信を抱いていた。
(この人は、この領地を救うために来たんじゃない。……この領地の『絶望のルール』を、自分の効率のために書き換えに来たんだ)
それは、聖女の奇跡よりも、あるいは勇者の剣よりも、ずっと強固で、救いのないほどに完璧な「現実」だった。
アイリス・フォン・エメラルド。
彼女の「効率」という名の侵略が、ついに本格的な一歩を刻んだ。
ゴミ箱の中に眠っていた宝の山は、今、その蓋が開かれようとしていた。
第4話、お読みいただきありがとうございました!
魔物を「倒すべき敵」ではなく「有用な素材(または変数)」として扱うアイリスの真骨頂回でした。
カイルの聖剣が「かき混ぜ棒」にされるシーンは、書いていてカイルへの同情を禁じ得ませんでした……。
次回、いよいよ精錬炉の建設へ。
しかし、彼女の前に立ちはだかるのは魔物ではなく、この地で絶望を糧にしてきた「人間」たちでした。
「論理(物理)」による効率的な領地支配が始まります。
お楽しみに!




