84. 救済不能
LXXXIV
L’IRREMÉDIABLE
憂鬱詩群 脚韻ABBA
この題名はおそらく、54. 修復不能 L’IRRÉPARABLE と対になるものであろう。
2部形式だが、後半は短く、返歌に近い。
I
とある「思想」「形態」「存在」が
青い空から剥がれ落ち
泥と鉛の「三途の川」に
「天」の視線も届かぬ場。
Une Idée, une Forme, un Être
Parti de l’azur et tombé
Dans un Styx bourbeux et plombé
Où nul œil du Ciel ne pénètre ;
「天使」の一人、無謀な旅人、
異形の愛に誘惑されて
巨大な悪夢の底に居て
もがく様はまるで泳ぐ人、
Un Ange, imprudent voyageur
Qu’a tenté l’amour du difforme,
Au fond d’un cauchemar énorme
Se débattant comme un nageur,
悪戦苦闘、葬送の苦しみ!
巨大な渦に逆らって
狂ったように歌って
暗闇の中に、くるくる回り。
Et luttant, angoisses funèbres !
Contre un gigantesque remous
Qui va chantant comme les fous
Et pirouettant dans les ténèbres ;
魔法にかかった惨めな男
虚しく手探り繰り返して、
蛇の穴から逃げようとして、
探し求める、光と鍵を
Un malheureux ensorcelé
Dans ses tâtonnements futiles,
Pour fuir d’un lieu plein de reptiles,
Cherchant la lumière et la clé ;
咎人くだるに、灯りもない、
深淵の縁、匂い漂う
湿気が深さを物語る、
永遠の階段、手すりもない、
Un damné descendant sans lampe,
Au bord d’un gouffre dont l’odeur
Trahit l’humide profondeur,
D’éternels escaliers sans rampe,
ヌルヌル怪物待ち構える
その大きな燐の目のせいで
夜をいっそう暗くして
奴等が際立つようになる
Où veillent des monstres visqueux
Dont les larges yeux de phosphore
Font une nuit plus noire encore
Et ne rendent visible qu’eux ;
船一艘、極地に囚われた
水晶の罠にかかったように
どんな命取りの海峡を通り
この牢獄に落ちたやら
Un navire pris dans le pôle,
Comme en un piége de cristal,
Cherchant par quel détroit fatal
Il est tombé dans cette geôle ;
……歴然たる紋所に、額入りの絵
救済不能な行く末の、
その示す所は悪魔の
技、万事抜かりなく成し遂げられ!
— Emblèmes nets, tableau parfait
D’une fortune irremédiable,
Qui donne à penser que le Diable
Fait toujours bien tout ce qu’il fait !
II
顔合わせれば、黒くも澄んだ
心を映す鏡ともなろう!
「真実」の井戸、澄みきった黒、
震えるところだ、青白い星が
Tête-à-tête sombre et limpide
Qu’un cœur devenu son miroir !
Puits de Vérité, clair et noir,
Où tremble une étoile livide,
皮肉な灯台、地獄にある、
恵みの松明、悪魔の
救済と栄光、独特の
……それは自覚、「悪」の中にある
Un phare ironique, infernal,
Flambeau des grâces sataniques,
Soulagement et gloire uniques,
— La conscience dans le Mal
訳注
Styx: 地獄の川。#15「ドン・ジュアンの地獄落ち」では(押韻の為か)アケローンとする
gigantesque remous: ポオ「メエルシュトレエム Maelström」であろう。この作品のフランス語訳を、ボードレールは1855年『ル・ペイイ』誌に3回に分けて連載し、1856年にミシェル・レヴィ書店から出した『異常な物語集』に収録した。
plein de reptiles: ヨーロッパの伝説や御伽噺に於て囚人を拷問あるいは処刑する、「古事記」に於て大穴牟遲神を須佐能男命が蛇室へ放り込んだという一節を思わせる、snake pit (蛇の穴)があったというのだが、実在したか疑わしい。
ビル・ロビンソンやカール・ゴッチなどを輩出したレスリングのビリー・ライレー・ジム(Billy Riley's gym)の通称 The Snake Pit は、ここから来たものである。尤も、Mary Jane Ward による同名の半自伝小説(1946)が、同名で映画化され(1948)オスカー賞を受賞したその年に開設されたから、その影響の方が大きかったかもしれない。
D’éternels escaliers: ダンテ「神曲」地獄篇の印象であるが、具体的にどの箇所か判らなかった。これに限らず、この節と次節は「地獄篇」的描写で占められている
piége de cristal: イギリス海軍士官にして探検家のウィリアム・エドワード・パリー(Sir William Edward Parry, 1790 - 1855)は、大西洋側のバフィン湾から太平洋側のボーフォート海へ抜ける「北西航路」を求めて、北極圏の探索をしている。
1819〜1820年のパリー水路探検では、1819年夏に出口近くまで到達したものの(そこは北極海の一部であるため)氷に阻まれ引き返し、9月26日からメルヴィル島南岸で越冬し、帰国したのは1820年10月。探検の記録である『北西航路発見の航海日誌』は1821年に出版され、出版者のジョン・マレーが1,000 ギニーを支払った。この探検に触発されて、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒは『氷海』を描いた(1823 - 24)。しかし難破船など、過酷な自然と過激な構成のため、1840年に画家が亡くなるまで売れなかったという。来歴を見る限り、ドイツから出たことがないようなのだが、ボードレールはこれを何らかの形で見て、ダンテの地獄に重ねたとしか思えない。
1827年、パリーは北緯82度45分に到達し、この高度はその後49年間、最高緯度として記録された。彼はこの旅の記録を『北極点到達の試みの物語』と題して出版した。極点には到達出来ていないが、前行の le pôle も、これを意識したものであろう。
détroit fatal: 「致命的な海峡」とは、三途の川を上記のパリー水路に重ねた印象であろう
tableau: 「絵画」のうち、語源的には、動かせない「壁画」に対し、移設可能な「板絵」を指す。ゆえに「額装し作品として完成された」絵画といった意味合いになる。
Diable: 一般的なフランス人の「悪魔」。一般的なフランス人の démon は「精霊」に近く、「悪魔」の意味では宗教用語
Puits de Vérité: この通りの題名を持つ絵は見つからないので、エドゥアール・ドゥバ=ポンサン(Edouard Bernard Debat-Ponsan 1847 - 1913)によるLa Vérité sortant du Puits(『井戸から出る「真実」』1898)を掲げる。ドレフュス事件に際し、被告弁護のために制作したもので、「真実」が明るみに出ようとしているのを、貴族や聖職者が隠そうとする図。制作年代からしてもボードレールが見た筈はなく、詩人の元ネタは今のところ不明。
なお画題の方が元になった諺で、デモクリトスの故事が誤伝したらしい。
une étoile livide: どの星か不明。取り敢えず、最も明るい青白い星であるシリウスを想定




