114. 譬え話 ALLÉGORIE
2版CXIV、3版CXXXIX
対句
標題が示す「寓意」は、欧米では古くから馴染みの表現である。文学的には、古くは「イソップ物語」のような、また「マザー・グース」のような、誰でも知っている訓話の類。聖書でもエピソードの大半は「寓意」であり、救い主と呼ばれたイエスに向かって弟子が意図を尋ねるほどには繁用された。
マタイによる福音書13章
3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。9 耳のある者は聞くがよい」。
10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。13 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。14 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。15 この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。16 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。17 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
このような表現慣習のゆえに、絵画に於ても描かれる主題の多くは神話であり寓意であった。裸体に対する厳しい禁忌が存在した一方で、裸体を描く絵画が少なからず存在するのも、実在のモデルを描いたのではなく、寓意の表現とされた為である。但し本作は、何の「寓意」なのか明らかになっていない。「売春」「娼婦」「女性」などと提案されてきたのは明らかに一面的過ぎるので、訳者は次のように考える。
メソポタミアの大地母神イナンナ/イシュタルであった存在が、あるいはカナンのアシュトレト、あるいはギリシャのアプロディーテー、あるいはローマのウェヌスに姿を変えて信仰され、これを一方的に敵視したユダヤ教徒・キリスト教徒から「大淫婦バビロン」(ヨハネの黙示録)と罵られる有り様となってしまった。
ボードレール当時のメソポタミア宗教史研究は、まだ緒に付いたばかりであったから、詩人が詳しく知る由もなく、ただ「大淫婦バビロン」の素の女神か存在するらしいと聞いて、ワーグナー『タンホイザー』に歌われた放縱なる女神ウェヌスの原型を想像したのではあるまいか。『タンホイザー』のウェヌスはあくまでもキリスト教徒から見た『放縱』であり、詩人にとっての女神は『豊穣』の化身だったと思われてならない。また「彼女」は「花崗岩の肌」で「直立」とあるから、おそらくネタ元の一つは、ウェヌスの彫像であろう。
それは一人の美しい女性、胸元豊かに、
その髪、ワインに垂らし込めるように。
愛の爪さまざま、また鉄火場の諸々の毒すら、
花崗岩の肌には、全てが滑り、全てが鈍った。
彼女「死」を嘲笑い、「放蕩」をすら愚弄する、
この怪物共は手を止めず、引っ掻き、刈り取る、
その破壊的な戯れにおいて、両者それでもなお、
敬う、この堅固に直立せる肉体の逞しい威厳を。
歩めば女神、憩う姿はスルターナ、
マホメタンらしく快楽一途な、
両腕広げて、おっぱいをいっぱいにして、
その視線もて、人類一般を誘い込んで。
信じている、知っている、この石女こそ
それでも世界の進行には不可欠なのだと
肉体美は即ち崇高な贈り物であると
あらゆる汚名を返上せしむるものと。
無視、「煉獄」も、同じく「地獄」も、
そして「常世」の闇に入る時が来ても、
「死」の面をうち守っていることだろう、
新生児よろしく、……憎悪も悔恨もなく。
C’est une femme belle et de riche encolure,
Qui laisse dans son vin traîner sa chevelure.
Les griffes de l’amour, les poisons du tripot,
Tout glisse et tout s’émousse au granit de sa peau.
Elle rit à la Mort et nargue la Débauche,
Ces monstres dont la main, qui toujours gratte et fauche,
Dans ses jeux destructeurs a pourtant respecté
De ce corps ferme et droit la rude majesté.
Elle marche en déesse et repose en sultane;
Elle a dans le plaisir la foi mahométane,
Et dans ses bras ouverts, que remplissent ses seins,
Elle appelle des yeux la race des humains.
Elle croit, elle sait, cette vierge inféconde
Et pourtant nécessaire à la marche du monde,
Que la beauté du corps est un sublime don
Qui de toute infamie arrache le pardon.
Elle ignore l’Enfer comme le Purgatoire,
Et quand l’heure viendra d’entrer dans la Nuit noire,
Elle regardera la face de la Mort,
Ainsi qu’un nouveau-né, — sans haine et sans remord.
訳注
vin traîner sa chevelure: ヨハネの黙示録17章
3 御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。4 この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、5 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
griffes: 「鉤爪」「(銘柄などの)刻印」「(宝石の)固定爪」を指す griffe の複数形。例えば「臨戦態勢」を Toutes griffes dehors という。
sultane: スルターン(回教徒君主)の女。「スルターン」は回教徒のカリフ(預言者ムハンマドの後継者)が君主に授ける称号であり、「王」ではあっても「教主」ではない。ボードレールが意図したであろう女性のスルターンは殆ど存在せず、僅かにシャジャル・アッ=ドゥッルの名が知られる。シャジャル・アッ=ドゥッルはその統治期間中、「スルターナ、ハリールの母」と刻んだ貨幣を鋳造させた。とはいえ、本作がシャジャル・アッ=ドゥッルを歌ったものとは思えない。
mahométane: 当時の欧州人から見た回教徒のこと。マホメット(ムハンマド)は神の預言者に過ぎないのに、この呼び方は「ムハンマドを拝む」かのように聞こえ不敬であるとして、今では使わなくなった
l’Enfer: この書き方は『ドン・ジュアンの地獄落ち』と同じ。「イナンナの冥界下り」も Descente d'Inanna aux Enfers または Descente d'Ishtar aux Enfers なので、ボードレールが読んでいたら面白いのだが、発見され翻訳されたのが1860年代であったから間に合っていない




