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「行ってくる」


その黒い騎士服を見るたびに、私はまた胸が張り裂けそうなぐらいに痛くなる。

とても格好いいけれど、彼の姿をまたもう一度見れるのかどうかと不安で押しつぶされそうになるから。


妻として、彼を強く信じてこのまま笑顔で見送るのが一番だろうけど。


「あらあら、ルルちゃん」


「おお、大胆な娘だなぁ」


後ろで笑うのは、彼のご両親だ。魔物討伐の依頼が来たレイ様を見送るのは私だけではない。彼が帰ってくるのを待つのは、両親だって同じなのだ。

レイ様の森の爽やかな匂いをいっぱいに嗅ぐようにして飛びついていた。屈強な背中に回す腕では彼を守ることすらままらないかもしれないけど。


「いつもお祈りしています。ご無事で帰ってくることを」


「っ……わかった。その…父さんと母さんが見ている」


ギュッと顔を埋めてから、今度こそレイ様を見送ることにした。彼の黒馬リグロースがリズム良くかけていく。魔物討伐の依頼は不定期だ。

お義兄様が来るのと同じように、それはどこからともなくして発生しては討伐され消えていく。

ただ一心に、レイ様の身の安全だけを祈っていた。


「屋敷に戻りましょう。ルルちゃんのことはレイからよろしく言われてるもの」


優しく背中を撫でるリリー様の手に招かれるようにして、屋内へと戻っていった。

心にぽっかり穴が空いたようになるものの、ここからはご両親に良いところを見せなければならない。好きなレイ様に釣り合うお嫁さんとして、たくさん修行しよう。


「リリー様、お嫁修行の手ほどきをお願いします」


「あら、張り切っちゃうのね」


「ガハハハ!別にお嬢さんはそのままでも十分、立派なレイの妻だぞ。執事長から時々手紙が来るが、いろんなことをしてくれているようだな」


公爵邸の物の管理に、領地の行事。それから定期的な収穫高の割り出しに、穀物の備蓄量。雨季の降水量をまとめたり、色々してはいかるが、まだ足りないと思う。

レイ様の仕事量って、かなり精神も肉体も削るもの。

手伝いたいと言うものの、リリー様が提案してきたのは刺繍だった。


「ライも隠居しながら魔物の研究中なのよ。だから私とおしゃべりしましょう?姑だからと遠慮せずに、あなたの過去を聞きたいの」


居間のソファーに座りながら、向かい合って針を動かす。白い布地に施すのは、レイ様へのお守りになるように、赤い糸と金糸で作る炎の蝶。

一つ一つを折り返すたびに彼を思いながら、リリー様が質問をしてきた。


それは家族のこと。


「以前に話したとおり、私は父親の伯爵家に拾われた、非嫡出子で娼婦の娘です」


語ることは躊躇しなかった。たとえ醜い経歴だろうと、きっとこの温かな家ではほんの小さなことと受け取るだろうから。

私は娼婦の働く場所で、母が死ぬまではそこに住んでいたこと。

バーカル王国というどうしようもないほどの貧民街で。静かに暮らしては、孤独に死んだ母のこと。

引き取られても、待っていたのは絶望だった。毎日に詰められる家庭教師たちの教えと、発散されるように打たれ続けるムチの嵐。


「それから」


「ちょっと待って頂戴」


「リリー様?」


彼女は縫う手を止めて、私の手をつかんだ。彼女の顔を見ればその頬は涙が通り、唇はわなないている。


「知らなかったわ。ごめんなさい…私は、あなたにそういう気遣いを」


「話していなかったので、当然です。こんなもの聞かせるには湿っぽくて、暗くなるでしょう。ですがこれからなんです。私の人生は」


諦める毎日に希望が差し込んだのは、殿下から言い渡された婚約破棄だった。父に叱り飛ばされた後に、城へ足を運び身分返上を申し出て。身寄りのない私をもらってくれたのはレイ様だ。


「レイ様は色んな思い出をくれました。この一年で、たくさん傷を癒やしてくれました」


ボロボロの背中から蝶の魔力を羽化させるまで。レイ様はたくさん私を愛してくれる。

リリー様の汚れのないきれいな手を握り、私は微笑んだ。

何もかも洗われて、癒やされて。待っていたのは幸福すぎて夢ではないのかと思うほどの優しい生活だった。


「私にはもったいないほどなのです」


「っ…息子のこと、それだけ愛してくれるのね。ありがとう」


人から見てもそう思うほどなのだろうか。

私はレイ様のことを、彼のお母様に言われるぐらいたくさん好きなのだろうか。

好きって言うのを、彼の身内の前では彼に直接言ったことがないけれど。

この思いは母の無償の愛に敵うほど、溢れているように見えるのか、リリー様は目を細めた。


「レイはあなたのために強くなったわ。だから信じて。絶対にあなたを裏切ることはしないわ。魔物討伐からも無事帰って」


「みぃ〜つけた」


耳元で響くのは道化のような笑い声。反射的に私は針を握っていた手をその後ろにいるものへと向けていた。


「やだなぁ。危ないよルシエル」


ゲラゲラ笑うお義兄様は、もはや顔すらそれとわからないほど黒に覆われていた。立ち込める冷気に、悪寒がやまない。

見る影すらもないほどによどみきった魔力に埋もれた義兄はすでに魔物へと姿を変えようとしている。


「ライ!!!敵よ!」


リリー様が甲高く叫ぶと、奥からドスドスと重たくも早い足取りが聞こえてくる。黒炎を上げるレイ様のお父様。フライト様が、黒い拳を隕石のようにお義兄様へとぶつける。

右フックに吹っ飛ぶ義兄は、暖炉の壁に背中を打ち付けられてその灰を頭の上に積もらせた。


「黒すぎて灰をかぶろうと汚れたように見えないな。いや、もう元から汚れすぎているようだ」


「っるさいな。どいつもこいつも、僕が単に義妹を愛しているというだけなのに。どうして邪魔するんだか」


「あなたがぶつけてるのは偏愛よ。いい加減、ルルちゃんのことは諦めたらどうなの」


義兄の気味の悪い目は、黒い魔力に埋もれていようとわかった。そのぐらい、私に向けるものが重くて澱んでいた。

リリー様が隣に立ち、距離を取ってくれる。その間に背にかばうようにしてフライト様が、拳を鳴らし始める。


「人を狩るのはどうにも心が痛むからな。正直言って、お前が魔物になっていることに安心したよ。火まつりと行こうじゃないか」


燃え盛り始める黒い黒い、炭のような炎は深淵を覗いているようだ。その丸太のように太い腕にまで、手の炎が行き渡り始めると、義兄はよろめきながら立ち上がった。

泥の人形が、歩き始めるみたいに。


「あいつの父親か。嫌だなぁ、勘違いしないでよ。僕はまだ半人間だよ」


「はっ、正気も失ってやがるな。いいぞ、気づかせてやる。この黒煙の誓いにのっとって」


義兄の足が動き出す。絨毯をその魔物のドロドロの液体で汚しながら。もう顔の原型すらない彼は、一体何人の人を襲ったのだろうか。血なまぐさい臭いすらしてくる。

そのドロドロに絡み合った複数人の魔力は、死体から取れる魔力のよどみだ。

フライト様の拳がもう一度、お義兄様の顔面へとストーレトに飛んだ瞬間だった。


「また今度にしようか。あいつがいないから」


灰のように体を溶かして、風と共に去っていく。黒炎のパンチは宙をもがき、とうとう当たることはなかった。

暖炉の前にいたはずのあの黒い物体は、忽然として姿を消したのだ。


これは大変なことになったと、ご両親は昼食の席で話し合っていた。その大半がフライト様が研究している魔物に関すること。彼なりに知識を集約してお義兄様の現状を説明するものの、小難しい。

リリー様は理解しているが。


「つまり、人間が魔物になるということは一応できるのですね」


「そうだ。魔女の魔法を使えば叶う願いだな。魔物は魔力のよどみそのものだ。人間の魔力によどみを循環し続ければ、魔物にはなれる」


生き物の死体から流れるよどみを、お義兄様は飲み込み続けているのだ。黒くドブのようになった体は、完全に魔物化した義兄の姿。

まだ心だけは人のままだけど、このまま放置すればいずれは理性を失い誰にでも攻撃するようになる。

フライト様の話を聞いていると、今回は問題を先延ばしにして対策するなんてことはできなさそうだった。


彼が本当に狙っているのは恐らく、私のことではない。レイ様に絶望をくれてやること。

だから今日ここに来ても、フライト様と死闘を繰り広げることはなかった。

魔物討伐に行っている間に私をさらいに来るなど、ただ煽って言っているだけだ。レイ様の不安を増大させたいだけ。


「レイ様が帰ってくるのはいつでしょうか」


「三日はかかるな。今回のはまあ、距離にして往復二日といったところだから。魔物討伐のタイミングを見計らえる点、もしかしたら発生するのもあいつは感知できるのかもしれん」


自分が魔物になったら、魔物の発生するタイミングについてもわかるかも、とフライト様が言う。


「それよりルルちゃんは大丈夫?無理してないかしら」


「私は大丈夫です」


「レイから聞いたわ。あなたはよく自分の不安を隠すって。もういいのよ、あなたの悩みは私達の悩み。一人で抱え込もうとしないで」


かけてくれる言葉の一つ一つに、愛情と優しさがこもっていた。

リリー様の緩かに細められた青い目は、レイ様と同じ。


彼が無事でありますように。

静かに願いながら、その日の晩にしたためるのは、ある手紙だった。

死する覚悟をしたためて、その手紙を彼がいざという時に気づけるところへ置いておく。

もし冥府の番犬すらも蝶が話したように、あの化け物に勝てないのだとしたら。

私の死を持って、これを終わりにしたい。


夜の静けさは寂しさだ。

隣にいない気配に嘆きながらも、彼の枕を抱く。


「森の匂い…」


この匂いが好きなのは、蝶が植物の中で生きるからなのかもしれない。爽やかな残り香は、いつも私のことを落ち着かせる。



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