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それからリリー様とはたくさん楽しいことをした。すべてが屋敷の中でできる範囲と限られてはいたけれど。それでも、図書館に行って公爵家の歴史を教えられるのも楽しかった。
「ケルベロス家は難産なの。本当、レイを生む時も地獄に焼かれるように痛かったわ。あなたも苦労するから、聞きたいことがあればいつでも手紙を寄越しなさい」
「ありがとうございます」
レイ様との子供のためなら、このお腹は何度だって地獄の炎に耐えきろうとするだろう。
リリー様と大分打ち解けていると、馬のいななきが響いてきた。かすかに虫の音ほどに、遠いところから聞こえてくるそのリズミカルな音。石畳を踏む四足の足。
レイ様だ。
「あらあら、私よりもレイが大好きなのね」
「リリーもあんな感じだったぞ。俺が魔物討伐から帰るたびに」
「それは言ってはいけませんよ。私があなたのことをたっぷり好きだということは、人にバレたら恥ずかしさで死んでしまいますから」
レイ様。レイ様。
頭の中でたくさん呼ぶ彼の名は、片時も忘れたことはない。
妻として、彼を向かいれる時こそ優しくするべきだけど。この高ぶった衝動は抑えられそうにない。ウズウズしたまま玄関ホールに立つと、扉が開いた。
黒い騎士服を汚すことなく歩んできた彼は、微笑んだ。
「ルシエル」
呼びかけてくれる言葉に耳がくすぐられる。出迎えて、レイ様へと駆け下りるときだった。
彼の後ろに冷ややかな殺気を感じて、私の足は急に止まってしまう。黒い恐怖は背中を伝わす変な汗に変わる。傷跡はうごめくように悲鳴を上げた。
「後ろです!」
呼びかけるよりも早く、レイ様は油断することなく後ろに回っていた敵に振り向いた。振り向きざまに、向こうが黒い触手のようなものでレイ様の足をもつれさせようとするものの、彼の黒い炎が触れた瞬間に触手を焼いて浄化する。
「不意をついたつもりなんだけどなぁ」
「クソ野郎の考えることは大体分かる」
「僕と同類だから、お前も考えることは同じなんだ。アハハハ!待っていたよ、地獄の番犬」
歪んだ魔力はもうすでに、彼の体を完全に取り込んでいた。ジージーと砂嵐のような、耳障りな音はこの変なよどみから来ている。
ここまで命の危機を感じるのは初めてだ。
魔物とはこういう得体のしれないものであり、レイ様がたった一人でこれに立ち向かっているのかと思うと尊敬しかない。
かつての義兄は、自分の体から溢れる黒いものを触手のように伸ばして、レイ様へと襲いかかった。
けれど、彼が答えを出すのはとても早かった。
たとえ義兄が弱っておらず、レイ様が討伐帰りで疲労が溜まっていようとも。
その力関係は変わらないものだった。
「なっ…なんで」
複数の触手を相手にしても、冷静に素手で握りつぶす。その拳にまわる黒い炎は、地獄の炭火。
「魔物を相手するのは得意なんだ。手加減なく、相手を壊せるからな」
「お、お前…化け物っ」
「諦めが悪くて魔物になったやつに言われたくはないな」
握られた拳は次々と魔物の触手を潰していく。グチャ、グチャ、とかつてその怪力でお父様の手首を粉々にしたように。
それよりも簡単そうに潰していくものだから、私は目を丸くするしかなかった。
夢で聞いていたのと全然状況が違うのだが。
『あの魔物は強いわ。番犬二匹でも、果たして勝てるのかしらね』
言われていたことを思い出し、私はそれがとうとう、からかわれていたのだと気づいた。
最恐と名高いレイ様が。
地獄の番犬と言われるケルベロス公爵家が。
魔物に対して負けるはずなどなかったのだ。
彼らは魔物から国を守る命運を幼い頃から背負った一家。この黒い恐怖にすら退治することに恐れなど抱かない。
むしろ、人より手加減なくできるのが楽だと言わんばかりに、彼の手は伸びていく。
その手が魔物に覆われた義兄へと伸びていくと、黒いよどみを焼き払った。
「おお、良く燃えてるな。さすが私達公爵家で最も魔力の高い息子だ」
「うふふ、驚かないのねルルちゃん。もう見慣れてしまっているかしら」
その黒い炎は地獄に落ちた死者の魂を浄化する死火のように。
義兄のドブのような魔力すら綺麗さっぱり、焼き払ってしまう。魔力のよどみから洗われた義兄は、顔を出した。真っ白になった髪に、目がただ驚いたように瞬く。
「お前は牢獄行きだ。生きて罪を償え」
「僕はっ…」
「何人食い殺したんだ。よどみすぎて、目すら灰色に腐りきってるぞ」
「僕は…義妹が欲しいだけだ。なあルシエル、君は君はわかってくれるだろう?」
レイ様の言葉にすら耳を貸さず、お義兄様がこちらへと目を向けた。酷くうつろで、そこには空っぽに抜け落ちた瞳が残っている。
その目の裏に何を見ているのだううか。
私を見ては引きつったように笑って、死人のように手を伸ばした。
「僕は君のためにしたんだ。両親を食べることも、魔女との契約だから頑張ったんだよ。ねえ、僕の女神様。僕の手を取ってよ…ねぇ」
懇願するお義兄様は、生白い血の気の失せた手をそのままのばして、不安そうに目を歪ませる。
その手を取ることは決してない。それでも彼の意思へと、私は向き直ることにした。
お義兄様は、私のことを彼なりに守りたかったのかもしれない。最恐と名高いレイ様に強引に婚姻を取り付けられて、それを心配したのかもしれない。
もしそうなら、今まで彼が取ってきた行動を私は許してしまいたくなる。
それがたとえ、気味の悪く受け取り難い愛だとしても。
「お義兄様」
「ルシエル…僕の」
「あなたはなぜ、私のことを愛していると言いながら守ってくれなかったのですか」
「守ろうとしたじゃないか。この恐ろしい男から」
「いいえ、守ろうとはしておりません。これは略奪です。守ろうとするなら第一に、あなたはお父様を止めるべきだった」
この背中に、ムチのうつ跡が残ることがないように。お義兄様が私の背中を守り、お父様からの暴力から守ってくれるべきだったのだ。それが兄弟愛なのだとするなら。
でも彼は見て見ぬ振りをした。この背中の傷を癒やすことすらしてくれずに。ただ見るのは、私の体ばかりだ。
「あなたはこの身だけがほしい。それはあなたからしたら愛なのかもしれませんが、私からすればそれはただの略奪恋愛を楽しんでいるようにしか思えません」
「違うっ…僕は、僕は本気でルシエルのことを」
「ルルちゃんを思うなら、あなたすごく曲がってるわ」
リリー様が凛とした花のように立ち上がる。桃色の薄いドレスに身を包みながら、義兄に近づくと手元の扇子でアゴを上に向けさせた。
「胸に手を当てて見つめ直してご覧なさい。あなたがした過ちを。ルルちゃんにしたことを振り返ってみなさい」
「どうしたリリー、そんなに優しくして。かつてアマリリスの毒花と恐れられた時を忘れたのか?」
「そんなに恐ろしくなくなってしまったかしら。うふふ」
「怯えさせるならもっとだ。フライト『怯えさせるもの』に相応しく、お前を地獄に誘おう」
仁王立ちするレイ様のご両親は、もはや怒りを隠すことなく殺気を放つ。小動物の息の根すら枯らしてしまいそうな冷たさは、義兄をウサギのように震わせるには早かった。レイ様とフライト様が握りこぶしを作り、黒い炎を吹き出す。
地獄の番犬二人を両脇に抱えるのは、一輪のアマリリスの花。
アマリリスは彼岸花の仲間だ。多量に毒を飲めば、中枢神経の麻痺を起こし死に至るほどに危険で、美しい花。
「ひっ……や、やめてくれ」
「誰がやめるか。この、クソシスコン野郎が」
「ガタガタと歯を食いしばるがいいぞ」
「あなたたち、やっておしまいなさい」
リリー様のかけ声で、屋敷には断末魔が広がった。義兄が少しだけ可哀想だと思ってしまうのは、少なからず彼が私を守ろうとしたという意思があったからだ。
変な勘違いや、思い込みをきちんと見つめ直して更生してほしいと願いつつ、彼は城の牢獄へお縄にかけられた。
地獄の番犬が二匹総出で打ちのめした義兄は、魔物に憑かれていた時よりも腫れた顔が酷かった。
「何を考えてるんだ」
「いえ、本当にしょうもないことです」
寝台に入った私達は、いつもの通りレイ様が抱きしめていた。背中に回された大きな手が、先程までそこにあった猫のように逆立つ傷跡を落ち着かせる。
「まさか、あの野郎に少しでも哀れむ気持ちを抱いてはいないだろうな」
「い、抱いてなどおりません」
「む……それは本当か?疑わしいぞ」
訝しむようにレイ様は青い炎を燃やした。何にせよ、彼が無事で、私達も無事で。明日にはまた公爵邸に戻るのだから。
誤魔化すようにレイ様の胸板へとピタっとくっついた。
レイ様、許してください。
私、たぶん義兄のことを少し可哀想だと思い続けてしまいます。あの勘違いや、思いやりの方向さえ間違っていなければ、あの人もまた素敵な兄であったのでしょうから。
眠る妻の顔を見て、番犬は思う。
これは絶対に、罪悪感というものを感じているのだろうと。
優しいルシエルにとっては、気持ち悪いと思いながらも義兄のことを思いやる気持ちはあるのだ。心の何処かであいつのことを考える余裕があるのが憎らしい。
それでもそこが彼女の魅力でもある。
『助けが必要な人は他にいる』
赤い目に宿る強い意志は、人を深く思う優しすぎる心に由来する。怖いものですらも、彼女の広い心の中では小さなものになってしまう。
俺のことすらも受け入れてくれたように。いずれはあのクソ野郎すらも、受け入れて…
「ぐ……君はズルい。俺のこと、こんなに悩ますんだからな」
猫のように丸まって寝始めるルシエルのことを目一杯身近に感じたくて抱き寄せる。
彼女の心のなかに住み着くのは義兄だけでなく、フィリップまでも……
そう考えながら眠りにつく。翌朝に目を覚ませば、何か肩に変な感触がした。それをつまみ上げると、何か封筒のようだ。
「……俺に?」
宛先に書かれているのは、❲アフレイド・ケルベロス様へ❳。
その中から手紙を出すと、俺はいても立ってもいられないほどに、炎を燃やした。それはどす黒く、真っ黒な炎だ。




