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【黒田騒動】新・白縫物語【栗山大膳】  作者: 足音P
付録 栗山大膳誠忠録
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第二百八十七回 井伊直孝は幕府の老中なり

 現代でも栗山大膳を賛美する者たちは、奇妙なことを言う。

 ━━黒田騒動時に幕府の老中たちは、栗山大膳と親しい者を黒田忠之が処罰することを禁じた。なぜなば、幕府の老中たちは、栗山大膳の誠忠を認めたから━━

 果たして、それは真実か?


   *  *


 まず、栗山大膳の屋の甥の白木孫右衛門の話をしよう。


 黒田騒動に関して、寛永九年六月二十日の細川忠利の戸田氏宛の書状を見るに、「小身なる者二三人こもりたると申し候」と記されている。

 栗山大膳と行動を共にして屋敷に立てこもった軽輩の藩士が二三人いた。

 その中の一人が白木孫右衛門である。

 白木家は、黒田家が筑前入りしてから出仕した新参者であるが、当主の白木甚右衛門が栗山大膳の甥を養子に取ることに成功した。

 黒田騒動時に栗山大膳と同調した白木孫右衛門は改易されて糟屋郡で病死している。

 白木孫右衛門の子である白木玄流は一歳で孤児となり、宗像で慈愛に満ちた百姓の夫婦に引き取られた。

 後に、白木玄流は後に福岡に戻って醸造業で成功を収め、臨終の際には遺言して戒壇院の梵鐘を寄進して名前を残す。

 戒壇院の梵鐘のおかげで、白木孫右衛門の最期の記録が残った。


 また、安政生まれの史論家の福本日南は、その著書『栗山大膳』において、黒田騒動後、栗山大膳の姻戚が、どのような運命を辿ったかを書き連ねている。

 

 栗山大膳の義兄の黒田兵庫は減封処分を受けている(黒田騒動の際に、栗山大膳を切腹させる案は見送られ、栗山大膳が妻と次男がを人質として差し出した時、黒田兵庫が預かった)。

 栗山大膳の娘婿だった井上正友と黒田嘉兵衛も福岡藩から出された。

 栗山大膳の姉婿である加藤主殿助と小河久太夫は減封処分を受けた。


 黒田騒キ動時に幕府の老中たちは、栗山大膳と親しい者を黒田忠之が処罰することを禁じたという見解に、私は懐疑的である。


   *  *


 そもそも、寛永九年の黒田騒動時に審理した幕府の老中たちは、栗山大膳の苦忠とやらを認めたのか?


 寛永九年に、時の商銀の徳川家光の弟で会った松平忠長は甲府に蟄居を命じられている。

 この処罰について、松平忠長が謀反を起こそうとした噂が流れた。

 黒田騒動時に、栗山大膳は、その訴えにおいて、松平忠長の謀反と黒田忠之の謀反とを関連づけようとした。 

 情報通の細川忠長や薩摩藩の島津藩の江戸家老らの観察によると、寛永八年の松平忠長への処罰は彼の個人的乱行に関係するものであり、松平忠長の謀反の陰謀はなかったらしい(寛永八年十二月、松平忠長が鷹狩りに出かけた際に雪が降り、休息した際に、小姓・小浜七之助が雪で濡れていた薪に火を付けられが、忠之が七之介を手打ちにし、七之助の父親が幕府に訴え出た)

 松平忠長の謀反と黒田忠之の謀反とを関連づけることが、黒田騒動の審理時に、栗山大膳が最大の力点を置いた論点であった(そのように海音寺潮五郎『列藩騒動禄』は評価する)。

 実際には松平忠長の謀反の陰謀自体が存在していなかったことをよく知る幕府の老中たちには、その件について栗山大膳の嘘は通らなかった。


 寛永五年の鳳凰丸事件については、黒田長政が生前に大船建造の許可を取っていた。

 黒田長政から黒田忠之に藩主の代替わりがあった以上、もう一度、切符を取り直すべきではあった。

 それは手続上のミスであり、鳳凰丸事件の時に、幕府の船手頭として福岡藩を調べた小浜民部は不問で終わらせている。

 鳳凰丸事件の問題になった時期に、博多を離れていた栗山大膳は、そのあたりの経緯を本当に知らなかったのか、経緯を知りながら幕府の老中の側が無知であることを期待したのか、わからない、


 福岡藩が足軽を新規に二百人を召し抱えた件について、その程度のことが幕府への反乱につながると思えない。

 筑前助広『私本・黒田太平記』によると、生活が困窮した武士の救済と、彼らが無頼となり治安を乱さないようの先手を打った政策でもあったという。


 黒田騒動時の江戸幕府の老中の井伊直孝の言動を、『井伊家覚書』は書き残している。

 その記録を見れば、後世の者も色々と感じることがある。

 井伊直孝の妻の実家の蜂須賀家と黒田家の間に因縁があって不仲であった。

 にもかかかわらず、井伊直孝は、

「(黒田忠之は井伊直孝の妻の父親の)蜂須賀蓬庵と意趣これあり不通に御座そうろうへども、御為に対して、毛頭心底を残し申すのは、道理これなしにつき申し上げ候」

 と栗山大膳の嘘を次から次へと指摘した。


 家同士の遺恨といった私情よりも道理を優先する。

 これは近代精神である。 

 近代において、裁判には近代人の納得が必要である。

 十三世紀末の日本では、鎌倉で御永代式目が施行されて【物の道理】と【評定所に集えば身分の高下なし】の証拠裁判が始まった。

 民も鎌倉幕府の証拠裁判を求めるようになり、京都の朝廷の裁判も変化していった。

 中世法の権威とされる笠松宏至はそのように『法と訴訟』において語る。


 実際に『井伊家覚書』の語るところ、酒井讃岐守忠勝は、井伊直孝の説明を聞いて、

「大膳不届に極まり候へば、主人に対して大不忠の者に候。死罪に被るべしと仰せつける哉」

 と主張したという

 栗山大膳は、あと少しで、死刑にされるところであった。

 

 黒田騒動の審理のとき、老中の一人、安藤帯刀は「君臣父子の間、理非をいかで論ずべき」と述べたと『一言老談記』は記す。

 つまり、家臣が主君を訴えた時点で、問答無用に有罪でよい、と。


 安藤帯刀の口から過激発言が飛び出したことで、他の老中たちは冷静になったのだろう。

 江戸の文化人のビッグネームたちと長年に交流を続けている栗山大膳を死刑にしていれば、騒ぎが大きくなり、安藤帯刀の意見を幕府が採用したという話が全国に広まりかねなかった。

 それは幕府にとって不都合。

 主君を訴えること自体が不道徳と人々が思うようになれば、本当に反乱が起きそうな場合でも、幕府に反乱の事前密告が届かなくなってしまう。

 かかる政策判断が働いた、と『井伊家覚書』に記されている。

 ほとんど習慣として人脈を広げていく栗山大膳は、難しい局面におい、ぎりぎりのところだ生命を拾った。


 幕府の老中たちは、栗山大膳の誠忠を認めたという見解に対して、私は賛同していない。


 昭和の二・二六事件の後、日本陸軍が公式に教えるようになったのは、「上官の命令に逆らってよい場合もある」とのこと。

 下が考えることを否定する厳格型組織は、行動が早い代わりに、現場の必要な情報がトップに届かず、反乱が起きるときには止める手段が乏しい。

 そういう問題を、江戸時代から、井伊直孝は意識していたようです。


付録『栗山大膳誠忠録』は終わり。

引越しました。

さらに引っ越す予定ができたので、高橋正衛『二・二六事件』が段ボール箱の中から出せません。


更新ペースは落ちると思います。


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