第二百八十六回 黒田忠之は福岡藩の新藩主なり
栗山大膳の手による元和八年諫書については前回も言及した。
問題の元和八年諫書には、【然るべきこと】という語が頻出するが、【然るべきこと】が、やることなのか、やらないことなのか、文脈によって判断することを要する。
、やることが【然るべきこと】と明確な項目もある。
たとえば、「えらい人には菓子や肴を日頃から付け届けして気に入られよう」とか「お客人とは話し込んで飽きた顔は見せないしよう」とかいった項目である(そういう分野において、栗山大膳は非常に優れていた)。
一方で、やらないことが【然るべきこと】と明確にわかる項目もある。
━━一、再々、口の間にお出になされ、身内の者も御目見えつかまつり、または、寝酒をまいりそうろうとも、口の間にてきこしめし、詰めて居そうろう共には、おりおり御酒をも遣わされ、それぞれに御心を遣わされ可然奉存候事━━
この【口の間】の項目については、やらないことが【然るべきこと】である、と福本日南も解釈し、黒田忠之が夜中に酒盛りすることを【宵っ張りの朝寝坊】と非難している。
元和八年となれば、黒田忠之が福岡藩の新藩主の座につく二年前こと。
忠之は、たびたび自室から口の間という部屋に出て、寝酒という名目で口の間に酒を持ち込んで、【詰めて居そうろう共】と酒盛りをした。
元和八年の【詰めて居そうろう共】の一人として倉八長之助がいる。
当時の【口の間】の夜の【詰めて居そうろう共】との酒盛りでは、数えで二十歳を超えたばかりの黒田忠之は、将来の福岡藩藩主として、福岡藩の未来を構想した。
「俺が次の当主になったら!」
藩主になる前の若き日々の深夜トークによって、忠之は【身分の上下の別】を超えて心を預けられる友をつくった。
* *
寛永二年の六月まで、福岡藩の新藩主である黒田忠之は江戸に滞在した。
この頃の黒田忠之は実に若かった。
翌年の寛永三年には、栗山大膳らの知行を削るのは横暴だという諫諍書が出された後、忠之は鷹狩り中に浪人者の娘と【身分の上下の別】を超えた恋に落ちてしまっている(その娘が後に正式な継室になり、彼女の子どもが三代目藩主の黒田光之になる。なお、彼女の弟である新見太郎兵衛は福岡藩に仕官し、「姉のおかげで仕官できた」と陰口を叩かれ、寛永十四年の島原の乱では汚名返上とばかり先陣をきって戦い、そして、壮絶な討ち死に果たした)。
当時に忠之は【身分の上下の別】を軽々と越えてしまう冒険者であり、年下の長之助が止め役にまわらなければならないほどであった。
江戸の桜田屋敷で、忠之は腹心の長之助と会話する。
長之助の意見。
「遠賀川のご普請の件で大膳さまのご普請を止めるだけで、大膳さまの処罰として十分か、と」
どうも忠之の気はおさまらなかった。
「内蔵允からの報告どおり、大膳の普請が意味もなく百姓たちを殺すだけでまるで使いものにならないと言うのが本当なら、大膳の普請を止めるのは、当然だ」
そして、
「もはや、俺は筑前の国の国藩主だ。筑前の民草が無駄に死んでいるという話を放っておけない」
と、理屈をつけた。
言いたいこととしては、
「勘解由が筑前を出ることを大膳が止めた件については、大膳に他の罰が必要ではないか?」
ということ。
小溜め息を長之助は漏らす。
「次席家老の内蔵允さまが総司のご普請を続け、筆頭家老の大膳さまのご普請をお取りやなさるというようなことは平時であれば至難の業です。
今、勘解由さまのご出国を妨げたという罪科が大膳さまにおありのときだからこそ、右衛門佐さま(忠之)も容易く大膳さまのご普請のお取りやめの断を示せます。
大膳さまも何も言わずお受け入れくださるでしょう。
筆頭家老としての面子が潰れることを大膳さまに我慢していただく。それだけでも、大膳さまにとって十分すぎるほど痛い処罰になるか、と存じます」
* *
寛永三年に栗山大膳の署名がある諫諍書において、古典の引用のある大半の項目は栗山大膳が書いたものと見られている。
その寛永三年諫諍書の中に【君子不食言】の項目がある。
寛永二年に帰国した黒田忠之は、江戸への御弔の使者として、いったん栗山大膳を選びぷことを考えたらしいという。
━━始めは大膳を(江戸へのお御弔いの使者として)やるべし候と、郡正太夫をもって、いかに慥に仰せ候━━
その日のうちに江戸への御弔の使者に他の者が選ばれて栗山大膳は激怒している(もっと黒田家の側に手落ちがあるように見える鳳凰丸事件について寛永三年諫諍書は一言も触れていない。この件は、鳳凰丸事件が寛永二年に起きたとする福本日南の見解にネガティブに働く)。
筆頭家老の大膳は、藩主の忠之の言葉を直接に確認できるはずの立場なのに確認なし。
それゆえ、黒田忠之が実際に食言したと言えるのかどうか定かではない。
しかし、言えることはある。
筆頭家老の栗山大膳が得意技能を華やかに発揮できるはずの好機に、栗山大膳のことを、まだ二十代前半の年齢の藩主であった黒田忠之は用いなかった。




