第二百八十五回 黒田嘉兵衛は栗山大膳の娘婿なり
元和九年(一六二三年)、福岡藩藩主の黒田長政が病気の治療で京にのぼり、嗣子の黒田忠之も筑前から京に向かった。
治療の甲斐なく、長政の病没後に福岡藩の新藩主となる許可を幕府から得るべく、忠之は本国の筑前に戻ることなく、そのまま江戸に出府した。
一年以上の時を経て、寛永二年(一六二五年)、ついに黒田忠之が新藩主として、筑前に戻った。
その間、栗山大膳は主命違反をやらかしていた。
もともと長政は、隣藩である小倉藩との関係をにらみ、忠之の弟の勘解由と萬吉が福岡藩から独立して分国するように遺言した。
その遺言を実行するべく、忠之は長政の死んだ三週間後に秋月藩の成立を認め、領地と人員を細かく指定する知行高目録を勘解由に渡し、新藩主になったときのアドバイスもしている。
そういう状況で、栗山大膳をなかま筆頭とする分国反対派の家臣たちは、十代の勘解由少年に【自発的に】独立を辞退するように迫った。
寛永三年諫諍書の【罪疑椎軽】の項目にあるように、栗山大膳と毛利右近は知行の一部召し上げの処罰を受けている。
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怖いことは忘れたい。
考えるのは嫌だ。
栗山大膳は、屋敷の中で、一心不乱に謡曲の鼓を包みを打っていた。
カッポにンカッポン。
カッポンカッポン。
カッポンポンポポン。
現代でも多くの者が追従する福本日南『栗山大膳』によれば、「その思うて得ざるところなく学んで至らざるところなき霊性と、英物に離るべからざる多趣味とは、彼(栗山大膳)をして乱舞・謡曲などの技芸にまで堪能ならしめた」とのこと。
鼓に合わせて黒田喜兵衛(中間六太夫)が乱舞する。
「ああ、まさに栗山大膳さまこそ、【理想の一士人】でござる!
大膳さまが一番!
大膳さまが一番!
いやあ、大膳さまは、お鼓も実にお上手ですな。お見事お見事。大膳さまの素敵なお鼓で踊れて、この嘉兵衛はこの上なき果報者でござる!」
黒田喜兵衛は、六端城の一つだった松尾城の城主の中間六郎衛門の跡取りである。
もともと豊前の国人の家柄で黒田家の敵方から寝返った豊前の中間家は、黒田家臣団の中心の栗山家に取り入ることに腐心した。
後に、黒田嘉兵衛は、栗山大膳の娘婿になり、そして、黒田騒動の後、黒田忠之によって蟄居を命じられて最終域には福岡藩から出た。
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福本日南の『栗山大膳』には、元和八年に栗山大膳が黒田忠之に渡したという諫書が掲載されている。
元和八年諫書の中には、こんな一文がある。
━━一、御鼓のこと、かりそめにも御沙汰なく、ふつとおやめなさるのは可然候事━━
黒田忠之のことを福本日南は「春秋まさに二十二歳になりながら朝から晩までカッポンカッポン謡曲・乱舞・鼓の調子に浮き身をやつされる」と痛罵する。
しかし、待っていただきたい。
この一文だけでは、鼓をやることがいいのか、やらないことがいいのか、いずれが【然るべき】なのかわからない。
問題の元和八諫書の【御鼓のこと】の項目は、当時の黒田忠之が武辺好みで、鼓の稽古に熱心でないことについて、栗山大膳が不満を示したものと読むべきだと私は考えている。
思うに、元和八年諫書における【御鼓のこと】についての【然るべきこと】は鼓をやめることではなく熱心にやることであろう。
流行の音曲は、上の者との交際に役立った。
悪いアドバイスではない。
これから上の者との交際が必要になる当時の若い黒田忠之に対して、栗山大膳が音曲を推奨するのは自然である。
繰り返して引用しているが、黒田美作は栗山大膳のことを「(栗山大膳は)舌明にして学問を致し、その身栄にして傲り、琴・三味線・尺八・太鼓に悩みつつ宏才なる者にて、白きを黒きと言をなす」と評している。
当時に、【カッポンカッポン謡曲・乱舞・鼓の調子に浮き身をやつされる】を実行していたのは、黒田忠之ではなく栗山大膳だったと推察できる。
後の島原の乱において、栗山大膳は優雅な遠州風の茶道を南部藩に広めることに熱心でありながら、福岡藩のために参戦しなかった(倉八十太夫が福岡藩のために参戦した)。
史実の栗山大膳は、福山日南の言うような【絶対的攻勢】の人ではなく、頼りになりそうな人脈を幾重にも張り巡らせる【守勢】の文化人であったと私は思う。




