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【黒田騒動】新・白縫物語【栗山大膳】  作者: 足音P
付録 栗山大膳誠忠録
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第二百八十四回 黒田美作は栗山大膳の義兄なり

 黒田美作は、栗山大膳の義兄にあたる。

 すでに隠居した卜庵老人の屋敷をたずねて会話をもった。


 卜庵老人の話。

「死んだ切竹磯之丞のことであるが、逃げ出そうとして賊の前に、無手で両手を広げて立ちふさがり、それで刺されたそうだ」

「はあ」

「少し不用意であったと思わないか? お主ならどうした?」

 美作は考えてみた。

「いいえ」

 と首を横に振った。

 そして、

「若い頃には私も不用意でしたから、他人のことはあまり言えません。私を相手に一人でまっすぐ向かってくるような者がおりましたら、そいつは愉快」

 と言った。

 黒田美作は、黒田二十四騎の一人であり、巨漢の豪傑として知られる。素手で鹿の角を裂くとも言われ、戦乱の世で多くの首級あげた。

 なるほど、卜庵は笑った。

「さすが美作よ」

 そして、

「わしが仕込んでいる虎石力松という子どもが、あの夜、磯之丞と一緒に戦ったのだが、力松は言うのよ。『自分ならば、斬り捨てていた』と」

と言った。

「はあ」

 美作は義父の卜庵の話を聞く。

「力松は『あの夜は賊たちを四人しか斬れず、四という数が不吉に感じていたので、もう一人むかってきたらシメシメと斬って五人に数をそろえる』と申す」

「縁起かつぎですな」

「それだけではない。子どもの力松も手柄が多くほしい」

「若い頃には、あたりまえでしょう」

 と、美作。

、深い溜め息を卜庵老人はついた。

「今の泰平の平に上の者がまずやるべきことは、下の者が手柄を挙げられるような騒ぎを引き起こさないことよ」

「それは重々に心得ております」

 戦乱の世から泰平の世になっていっているとは美作も思う。

  

 卜庵老人は言う。

「泰平の世において、武辺者を嫌う者は、いざという時の覚悟よりも、普段が大事よと言う」

 思いあたることが、黒田美作にあった。

「普段が大事と口うるさくおっしゃる方と申さば、大膳さまのことですかな?」

 自分の息子である栗山大膳のことを卜庵老人は弁護した。

「無害従順の顔をして上の方々のおぼえをめでたくする。

 憎い相手をがいれば、うまく立ち回って、向こうの気づかれないうちに、いつのまにかに孤立させる。それも立派な武略よ。泰平の世には、特に必要。わしは身につけられなかった」

「陰湿ですな?」

「自分のできぬことを、ただ悪く言うだけのような者は拙い」

「それは確かに」

 なるほど、と美作は思う。

 武者としても忍者としても武将としても優秀という卜庵老人は、カリスマとして多くの人々から尊敬された。

 無害を装って相手にあまり意識されず長く寄り添うことが前提となる策もある。

 そういう策を卜庵自身は取れない。

「わしは自分のできないことを自分の子の大膳に身につけさせたつもりよ。大膳は、泰平の世では、武辺者よりも使いどころの多いはず」

 

   *  *


 寛永三年に栗山大膳と毛利右近の知行を減らすのは不当とする寛永三年諫諍書に、黒田美作も署名している。

 ところが、意外な形で、同じ寛永三年に黒田美作は黒田忠之との関係を急速に修復してしまう。

 黒田忠之が黒田美作の知行地の近くで鷹狩りをして、坪坂という浪人者の娘(養照院)と恋に落ちて、妊娠させてしまうのである。

 元和九年(一六二三年)に、越前藩藩主の松平忠直は、将軍・徳川家光の妹のお勝を奥方に迎えていながら、家臣の未亡人のお蘭に夢中になった豊後に配流されている。

 そして、寛永三年(一六二六年)に、黒田忠之の奥方は、将軍・徳川家光の妹(徳川秀忠の養女)の久姫であった。

 将軍の妹を迎えながら他の女に夢中になる醜聞。

 松平忠直の前例からすれば、黒田忠之が同じような運命を辿っても不思議ではなかった。

 あわてふためいた黒田忠之は、地元に知行地を持つ美作を相談相手に選んだ。

 黒田美作はその娘をかくまって密かに世話した

 若い忠之としては感謝するしかない。

 そういう人間関係ができてしまうと、黒田美作も大人の余裕をもって若い忠之のことを盛り立ててやりたいという気持ちになる。

「右衛門佐さま(忠之)も、確かに、 軽率なところがおありだが、お若いから仕方ない。年配の家臣たちが補うべし」

 寛永元年の分国反対派の福岡藩の三家老のうち、小河内蔵允が寛永二年には遠河川の水害問題がらみで忠之との仲を修復し、黒田美作は寛永三年に男女関係問題で忠之の相談役になった。


   *  *


 余談だが、その浪人者の娘を黒田忠之は後に正室に迎え、その子どもを跡取りにした。

 やりたい放題。

 ただの浪人の娘から生まれた黒田光之が福岡藩三代目藩主になる。

 光之が編集を命じた福岡藩の正史である『黒田続家譜』は、忠之のことを絶賛する。

 以下の不満を福本日南は述べる。

 ━━つとめて大膳を指斥して、全然反逆の臣となし、その忠貞の誠精を湮滅し、その一方、忠之に関しては、至らざるなき回護の筆を用いたのである━━

 栗山大膳のことを神格化する方々は、福岡藩の公式史料である『黒田続家譜』や『栗山大膳記』などの記述をあまりにも軽く扱い過ぎている。

 ファザコンの黒田光之の意に沿おうとしたもので、福岡藩の公式史料は信用ならない、とかいう理屈。

 また、『小河内蔵丞殿覚書書写』も、小河内蔵允を持ち上げるために小河家側が作成したのであり、内蔵允は内心で栗山大膳のことを尊敬していたはずだ、と決めつける。

 どうせ、『倉八宅宅兵由緒書』も、倉八十太夫側の文書として信用しないだろう。

 他藩で書かれた『細川忠利書状』や『井伊家覚書』の内容まで、栗山大膳の神格化にとって都合が悪いとなると無視を決め込むのは、いかがなものか?

 実際の栗山大膳が【文武の雄才】だったとは私は思わない。


 専門分野に関しては栗山大膳は並外れたていたと思う。

 まだ二十代の大膳の若い頃について、黒田長政が「大膳、江戸の遣り所、そこそこの位、よく知り候」と言った(『古郷物語』を参照)。 

 寛永五年の鳳凰丸事件のときには、筆頭家老の座を投げ出して一時隠居をしながら、事件が収束した寛永六年には【官府執事諸侯】の働きかけで筆頭家老に復帰した(『栗山大膳記』『西木紹山居士碑銘』を参照)。

 寛永九年の黒田騒動の審理時には、幕府老中の酒井讃岐守が栗山大膳の稚拙な虚言にあきれて栗山大膳の死罪を求めたが、社会的影響が考慮されて流罪だけですまされている(『井伊家覚書』を参照)。

 人脈による防御の壁を普段から習慣レベルでコツコツと積み上げるという点では、栗山大膳のことを私も高く評価する。


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