第二百八十三回 小河内蔵允は福岡藩の次席家老なり
寛永年間に遠賀川の水害を防止すために、筆頭家老の栗山大膳の堀川開設の普請と、次席家老の小河内蔵允の新川掘り通しの普請があった。
福岡藩の黒田長政が死ぬ三年前の元和六年(一六二〇年)下大隈村抱より御牧郡楠橋村抱の間に新川掘り通し普請が着工された。
下大隈村の曲之手で遠賀川は大きくカーブしており、そのため、洪水の際には堤防決潰等の水害が生じることがあった。
水の流れをスムーズにするため、小河内蔵允が総司する普請は直線の本流を構築した。
新しい本流ともともと半円弧を描く旧本流(曲川)が合流する吉田村あたりの水量が会える。そこで、水をさらに直線コースで芦屋湾に逃す荒水吐の水路が設けられた。
小河内蔵允が総司する普請は、寛永五年(一六二八年)に終了する。
なお、寛永時の荒水吐の水路の幅が九間(約三メートル)と狭く、増水時に水が氾濫し、後に繰り返して拡張されていくになることになる。
小河内蔵允が総司した普請は水害対策として完全だったとは言えない。
完全ではないにしても一定の成果はあった。
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史実によれば、寛永二年、黒田忠之の帰国後、小河内蔵允の発議によって遠賀川の水害問題について話し合われた。
栗山大膳の総司する普請は廃止され、小河内蔵允が総司する普請の一本にしぼられた。
もしも、栗山大膳の総司する普請が続行していれば、そのための夫役に駆り出されるの百姓たちは、もより多く無益に死んでいったことだろう。
この普請取り止めの結論自体は間違っていなかったと私は思う。
ただ、やり方としてはどうか?
次席家老の小河内蔵允が筆頭家老の栗山大膳の面目を潰すかたちそを黒田忠之は認めた。
寛永二年に、【遠賀の民を救う】という美名でもって、新藩主の黒田忠之と次席家老の小河内蔵允との関係は急速に修復した。
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寛永三年諫諍書に小河内蔵允の署名はなし。
分封問題に関する罪を、遠賀川水害問題における功で帳消しにする方策を小河内蔵允はとった。
その方策に気づいて実行できた小河内蔵允のことを、政治的センスがあると言う者もいるだろうし、狡猾と言う者もいるだろう。
栗山大膳は後者であり、寛永三年諫諍書でヒステリックな悪罵を小河内蔵允に投げつけている。
━━(内蔵允は)わが身ばかりを大事にし候、忠之さま御事は世上にて誹り申し候・・・(内蔵允は自分のことばかり大切にして忠之さまに追従して私たちの意見を聞かない忠之さまは世間で笑い者にされます)━━
主に大膳の書いたち見られる寛永三年諫諍書には「みんなが忠之さまのことを悪く言いますよ」という言い方が多い。
栗山大膳は、自分が前面に出ることを嫌ったと思う(もちろん、自分が前面に出る価値のないと思う相手に遠くから石を投げるのは知略である)。
築前の『古郷物語』では、栗山大膳は十代の頃に黒田長政の異見会時の取次役をしていたと伝えられている。
多くの武辺者たちに顔をあわせる機会はあったはず。
そういう経歴に関わらず、黒田騒動時に栗山大膳のために立ち上がった武辺者は誰一人もいない。
寛永九年六月に水の準備もなく兵と武器だけを大量に用意した栗山大膳の立て籠もりは、おそろしく拙劣だ。
栗山大膳が断水をくらって一日で難渋したという『細川忠利書状』記述がなければ、実際に起きたと信じがたい話である。
おそらく栗山大膳を【文武の雄才】として崇める人々は、【凡人にはわからない深謀遠慮】とでも言うのだろう。
私が思うに、武辺者たちは栗山大膳のような男を冷笑した。
とすれば、上位者が前面に出て実務をするべきではないとするようなタイプの儒教の教えは、栗山大膳のように危険な前線を嫌う者にとってシンプルに救いになったであろう。
吉田久太夫『栗山大膳記』によると、黒田騒動が幕府で審理された時も栗山大膳は以下のように述べる。
━━内蔵允の儀、台所へかけおく中に、かような場に出で申す者にで御座なき候、常々百姓と出会い、米金田畑のこと沙汰し候、武士の出入りに存じなす者にて御座なき候、何を言うべきまでまかりで候、退出し候は府だから飛躍しようと顔を会わせて百姓の日常の生活の暮らし向きのことを問題にするような者で武士らしくない。内蔵允は何も言う資格はない。審理の場から退出させるべき)━━
現場に出て百姓の暮らし向きのことを百姓と一緒に考えてやるというような小河内蔵允のような者は、栗山大膳のような者の目からすれば無学の軽蔑の対象にならざるをえない。
断っておくが、林羅山の言うところの【上下定分之理】や組織論の言うところの【垂直型分業】は、長所もあれば短所もある。
長所が目につくか短所が目につくかは、その学説に触れた当人のくぐってきた人生経験によって変わるであろう。
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筑前の『古郷物語』によれば、栗山大膳が十代の若い頃、小河内蔵允と栗山大膳の関係を感じさせる逸話がある。。
黒田長政が江戸のお偉ろ方に贈り物をする際にあたって選ぶように小河内蔵允に命じた。そして、「そういうことは大膳がよく知っている』と言い、まだ二十代の栗山大膳と相談するように命じた。
すると、小河内蔵允ば栗山大膳を無視して、贈り物を選ぶこと自体をしなかった。
そして、黒田長政が小河内蔵允を怒ると、「贈り物よりも統治をしっかりすることを幕府の偉い人たちは望んでいます」と直諫をした。
黒田家中においても高評価。
━━勇猛自慢の士どもも内蔵允の柔和には取って廻されたり━━
と『古郷物語』は伝える。
しかし、この逸話の中で、小河内蔵允は、若い頃の栗山大膳に対して、酷い態度をとっている。
筆頭家老になった後の栗山大膳が小河内蔵允に非礼な態度をとっていたという話も『小河内蔵之丞噺覚書写全』に残っているが、非礼はお互い様だったのではないかと思わなくもない。
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