9. 枢機卿の野望
ヴィクセン大公国領内、北部の都市ミリア近隣の森林地帯「カリンの森」
日差しが入らぬ薄暗い山道の、鬱蒼と生い茂る枝草をかき分けながら進む、
二人の男の姿があった。
一人目は、パっ、と見ですぐに盗賊とわかるような、
中東風のターバンで顔を覆った男。
機動力を重視する、皮製の鎧といった軽装に腰には
一撃で相手に致命傷を与える短剣のクリスダガーを携える。
足場の悪い獣道を、軽快にひょいひょい、と、踊る様に進んでいく。
二人目の男は、服装こそは旅人のように見せかけてはいるものの、
杖代わりに右手には柄の長い棍棒のような
金属製の鈍器を持ち、異様さを際立たせている。
そして、その衣服の下には首から提げる十字架を忍ばせる。
......ファーラント大陸に広く普及する宗教、ヴィエンヌ教の信者だと思われる。
「ヴィエンヌ教」とは、このファーラント大陸全体を創造したとされる
全知全能である水属性女神「ヴィエンヌ」を信仰する一神教だ。
司教国の最高権力者である教皇の座は、ヴィエンヌより直接の啓示と力を授かれる
唯一無二の存在として古来より代々、エルマン家の世襲による独占が続き、
実際は他の王国と何ら変わらない支配構造を持つ。
大陸東部に位置する司教国の支配領土の広さは、随一を誇る。
全盛期には大陸の約六割以上が、司教国の支配エリアであった。
ここ近年、かなり減らしたとはいえ、今でも四割程の支配地域を維持し、
大陸最大の規模を維持する。
遊牧民が多く、機動力と戦闘力なら西のザイード帝国、
洗練された武器と統率力であれば大公国が遙かに上だが、
司教国の最大の脅威は、圧倒的に多い人口と、信仰心である。
不信心者に奪われた、神の大地を解放する「聖戦」に於いて殉教する聖者は、
無条件に神の国へと昇天できる、と教え込まれた貧しい民は、
競うように十字軍に志願し、嬉々として死んでいく。
広大な領土と豊富な水に食料。無尽蔵な兵数......
大陸内で1.2を争う国力を保つ巨大宗教国家だ。
......やや、大柄のこの男は悪路を旅する事に慣れておらず、
弱音を吐く事は無いが滝のように汗を流しながら、
フラフラよたつきながらも、先を急いでいる。
「......サマっ、神父サマよぉ! この先ィ、もう少し抜ければ.....
ミリアが見えてきやすから、辛抱してもうチョット、早足でお願いできませんかねぇ。
この辺りも夜になっちまうと、結構、ヤベェ魔獣がわんさか出てきやがるんスから」
盗賊風の男が嫌味っぽく、男に呼びかける。
「......あのなあ、何度も言うが......外では神父と呼ばないでくれたまえ。
何処で、誰の耳に入るか分からんではないか......! 口を慎みたまえ......」
メイスを持つ男が盗賊風の男の言葉を窘める。
神父様と呼ばれるこの男は、名をヨシフという。
司教国ヴィエンヌに属する、司祭だ。
老けた見た目と声とは裏腹に、年は26と若く、敬虔な
伝道者としての面と勇猛な戦士としての面を併せ持つ非常に優秀な男だ。
従順でもあることからも上からの評価も高く、
トントン拍子に司祭への階級に昇格してきた。
そのヨシフが今回、ハッサンという盗賊と
行動を共にしているのには、ある目的がある。
......ミリアの偵察及び報告の任務である。
ヨシフは、自分に今回の命を下した、ウルムラン枢機卿との会話を思い出していた。
昨年、先代のハウル教皇が若くして急逝してしまい急遽、子であるヨウムが
新たな教皇の座に就く事となったのだが、まだ6歳と幼すぎる為に、補佐役として
齢60になるウルムラン枢機卿が、実質的な最高権力者の座を手に入れている。
「......わ、私が単独でミリアの偵察でございますか......? 」
首都メールにそびえ立つ、巨大な建造物。
ヴィエンヌ教の総本山である、ヴィシャヌ大聖堂だ。
突然、枢機卿から直接呼び出され、下される使命の内容にヨシフは理解に苦しむ。
何故、部隊も持たせて貰えずに、自分一人だけで危険な敵地に赴けと......?
「そうだ。今回は非常に重要でな......隠密に、一人でミリアに辿りつき、
使命を果たせる者でないといかぬ。......其方が最適任だと、
我は期待しておるのだがな」
抑揚の無い口調で、背を向け窓の外を眺めながらウルムランは語り続ける。
「ミリアに出兵した、ヤコブ隊7000が......
その後、消息を絶っているのは知っておるな? 」
「......存じております。一体、何事が起きているのかと、懸念しております」
「7000名もが、全員だ......! 手前のゴルガという小都市を攻略した所までは、
我も把握しておる。問題はその後だ......!
報告ではミリアの兵力は少数で攻略は非常に簡単だという事だった。
だが、それが......その後全く、誰からも報告が来ない! 増援部隊の
反撃にでもあったのか? とも思うのだが......
さすがに7000もの兵が全滅は無いであろう?
おまけに追加で派兵した、偵察隊さえ、未だに誰一人として戻って来ないのだ! 」
ウルムランの口調が怒りを帯びて、徐々に激しくなっていく。
ヤコブ隊が連絡を絶った後に、司教国は状況確認の為、
約100名の兵を二回に渡り派遣したが、どれもその後の消息は不明だ。
「真偽の程は定かではございませんが......
最近、あの辺りに巨大な魔獣が出現しているのを
見た者がいるといった噂を良く聞くようになりました。
......あくまで、噂ではございますが。
もしや......ま、魔獣の話は本当で、皆、倒されたのでしょうか......? 」
顔色を伺いながら恐る恐る、尋ねてみる。
「あれだけの人数を皆殺しにできる魔獣が、
ドラゴン以外に大陸におるというのか!?
ドラゴンが飛来の報告などは受けておらぬぞ!
それにしても、一人位は生還できるものだろう?
誰も戻って来ぬのだぞ! どうなっている? 一体、何が起きておるのだ! 」
ウルムランは、明らかに苛ついている。
......本当は、ミリア周辺を警護してくれている、
三匹の獣神マイコニド「姉貴」が目ざとく見つけ、
パクパク、みな美味しく食べ尽くしてしまったのだが......
綺麗に全滅したので誰一人として生還して報告できる事ができず、
未だに状況が掴めていないのだ。
暫しの沈黙の後、ウルムランが口を開く。
「ヤコブは実に忠実な男であったが......心弱き男だ。
彼奴も悪魔の囁きに心奪われ、
神の導く道から逸れてしまったのではないか......? と、我は考えておる」
「......と、仰いますと......? 」
「簡単に豊かな都市と兵を手に入れてしまうと、神への感謝も忘れ、
身の程も弁えずに全てが自らの手柄だと増長し、
あろう事か、彼奴の帝国を築き上げようとしているのではないか? と、いう事だ」
「......! い、いや、こう申しては、失礼ですが......
私には到底、あの方にそのような神のご意思に反するような真似が出来る程の、
ど......度胸があるとは思えないのですが...... 」
「フン、遠慮するな。......其方が考えておる通り、
奴は忠実さだけが取り柄の器の小さな男。
本来はそのような大それた事はしでかす筈はない、と高を括っていたのだがな。
......ただ、気が弱い俗物程、些細な事で豹変する事が多いのも事実。
金と兵の力で手懐けさせて、従わなければ始末してしまえば良いだけと、
勘違いしておるかもな」
ウルムランは、なおも続ける。
「彼の地、ミリアはな......200年程前までは、
この司教国の領土であった!
ミリアだけではないぞ! 大公国の半分以上は、
元々、我らの領土なのだ!
......あの、憎きヘルムによって奪われてしまわれたのだがな。
だが、奪われた領土は......利子をつけて取り返さねばならぬ」
忌々しげな表情のウルムラン。
「其方は、ヨウム教皇名での、我の直筆の勅書を持ち......ミリアに向かうのだ。
そして、まずは報告の為に確認を行うのだ......良いか?
まず、ミリアは攻略されておるのか? 未だに大公国の手にあるのか、
ヤコブが手に入れたのかだ。
ヤコブが居るなら、その勅書さえあれば、さすがに奴も面会の拒否は出来ぬだろう。
その際は、報告が遅れた理由は問わぬ......
即、その場で其方が奴に神罰の鉄槌を下すのだ。
そして、その後は其方がミリアの統治者となるのだ。その後急ぎ、報告を行えば良い。
勅書には、其方をミリアの統治者に任命する旨が記されておる。
次は、ミリアが攻略できておらぬ場合だ。その際は、無理はするな。
ヤコブの生死も追わなくても良い。
ただし、状況を正確に把握し、安全に帰還し、我に報告するのだ。
ミリアには大公国軍が未だに常駐しておるのか、噂通りの魔獣がおるなら、
どのような獣で、何匹おるのかだ......
多勢で向かっては、逆に目立ってしまったのかもしれぬ。
不測の事態に備え、見つからぬように今回は、単独で向かって欲しいのだ。
いずれにせよ、ヤコブの後釜の司教の座は其方のものだ......
悪い話では、なかろう? ヨシフよ......心して、事を成し遂げるのだ。良いな? 」
「はっ、か、か、畏まりました......! 無事、使命を果たして参ります......! 」
この自分が、司教に......!? 降って湧いたような、千載一遇のチャンス。
ヨシフは気持ちが昂ぶり、声が上擦るのを感じる。
確かにリスクは大きい。だが、そのリスクを負わねば大きな報酬は得られない。
とりわけ、今回の報酬は大きな物だ。
冷静に考えれば、見つからぬように慎重にミリアまで侵入し、倒す標的も一人だけ。
切り札の勅書もある! 魔物が相手なら、無理はせずに逃げ帰り、
ただ、報告するだけで良いのだ。簡単じゃ、ないか!?
俄然、やる気が湧いてきた。
......立ち去るヨシフを満足げに見送りながら、ウルムランは次の一手を思案する。
この先、ヨウムが青年になる迄の最低でも数年間はウルムランの天下だ。
前教皇の妻であったヤコバは、教団や国内外の情勢にまるで疎く、
政にも一切の関心が無い。
野心を隠して信心深く、エルマン家に忠実な好々爺を長くの間、
演じ続ける事で得た揺るぎないウルムランへの信頼は、
何を提案するにしても「枢機卿がそう申すのならば......」
と、彼に一切を任せてしまう。
ヤコバには、これまで以上の豊かな暮らしを味わわせつつも、
ヨウムへの補佐を怠らぬ素振りのみ見せていれば、充分だろう。
幼いヨウムも上手く手懐け、成人する頃には
温厚で愚鈍な君主になってくれるのが好ましい。
そうなれば、これからも全てはウルムランの思うがままだ。
だが、陰の教皇だと言われる程度の今の地位に満足して、
このまま終わる積もりはさらさら無い。
ウルムランには、胸に秘めた壮大なる野望がある。
......二歳の曽孫アンナのエルマン家への輿入れにより、
名実ともにロイヤルファミリーの一員に加わる事である。
ヨウムとの年齢差は四歳。丁度、良い具合だ。
決して、自分は教皇にはなる事はできぬが、アンナとの子が男であれば、
玄孫は次期教皇だ!
女でも構わん。エルマン家の家系に、ウルムランの遺伝子を刻み込める事で、
未来永劫に渡る安定と繁栄が確約される。
......ヨウムが年頃になる頃に縁談を拒否できぬように、
今の立場を更に盤石にせねばならぬ。
ミリアへの侵攻は、あくまで、その手始めにすぎぬ。
これを機に、大公国に奪われた領土を一気に奪還してみせる。
歴代の、どの教皇も成し遂げられなかった偉業を、この手で......!!
老いて時間が無いウルムランには、掴みきれない程、次から次へと、
ドス黒い欲望が尽きる事なく湧き出てくる。自然に邪悪な笑みがこぼれる。
「ク、クククッ......! 儂もつくづく、欲深き男だのぉ......!
フ、フハハハッ!! 」
誰も居なくなった室内に、しゃがれた笑い声が大きく、高く響き渡っていく。
......ミリアまでの道案内の為、
ウルムランの紹介でハッサンが同行する事となった。
ローグ・ギルド「蠍の巣」に属し、主なシノギは
盗品や横流しの武器等を売りつける交渉役。
いわば、司教国担当の営業のようなものだ。
宗教団体と犯罪集団が癒着とは、非常に矛盾してはいるが、
彼らは商品だけではなく、他国の重要な機密情報も売ってくれる
諜報員としての側面も持つ為、無視ができない。
今回の、大公国内の混乱とミリアでの兵力削減の情報も、
このハッサンからもたらされたものだ。
......必要悪。まあ、そんなところだ。
大公国内に戻ると、ギルドの誰とも連絡が取れなくなったハッサンも困り果てていた。
中継地点として利用していた、ベガンにあったヤンのアジトも壊滅していた。
ミリアには、巨大な魔獣がうろついているようで街中には潜入できないし、
何より、仲間どころか上得意客や買収した役人、
情報提供者の誰とも会う事すらできない状況だ。
長年にわたり築き上げたギルドのネットワークが、寸断されている。
どうも前回、開催された奴隷市場の後からのようなのだが......
だが、何が起こったのかが何も分からず、まさに商売あがったりの日々。
ここは一旦、シアンの峠の本拠地まで戻るべきか、どうか? と、
悩んでいた矢先の偵察依頼は一も二もなく引き受けた。
元々、今後の生活の為に単独でも調査はしなければならなかったのだ。
高額な報酬まで貰えるのであれば、まさに申し分無しだ。
二人は大公国内にて、ヤコブ隊の進路に沿って探索を開始した。
まずは、焦土と化し無人となったゴルガ村に潜入する。
ヤコブが来ていた痕跡が確認できるのは、このゴルガまでだ。
......瓦礫は撤去され、大きな慰霊碑に多数の墓標が整然と立ち並ぶ。
ゴルガは、虐殺の犠牲者を弔う霊園へと変貌していた。
侵略した司教国が、死者を弔う必要は全く無いので
この地は未だに、大公国の支配下である可能性が非常に高い。
司教国軍の手掛かりは、他には何も見つけられなかった。
やはりヤコブ隊は反撃により壊滅し、侵攻は失敗に終わったか......?
「神父様サマ、こりゃチョット、ヤバいかもしれねえっスねぇ......
ここから先は、大公国の目に付きにくい
ルートで向かうことにしましょうや......」
警戒したハッサンのアドバイスに従って、
人目を忍んだ山岳地帯からの探索活動に変更し、今日に至る。
木々深く魔獣も多い、このカリンの森ならば、敵の目も行き届かないだろう。
「......仲間がミンナどっかにいっちまった事も、
ヤコブ様の隊がどっかにいっちまった事も
ミンナどっかで繋がっているんじゃぁ、ないッスかねぇ......!
アッシは、そう思ってるンスよねぇ。
......神父サマは、どう、お考えです? 」
「お前らの仲間がどうなったかなど、俺にはわからんよ。
......司教国軍の7000人もの兵が
忽然と姿が消えたまま、今も生存者どころか死体すら見つからんのに...... 」
溜息をつき、疲れた顔でヨシフが答える。
来る日も来る日も、魔獣や敵兵に脅えながら、
森の中をただひたすら、歩くのみの毎日。
先も全く見えず、ヨシフは事を軽く考えて任務を引き受けた
当時の自分を怒鳴りつけたい気分だ。
......もう、イヤだ! 早く、早く司教国へ無事、帰りたい......!!
疲労困憊、意識は朦朧。
虚ろな目つきで、夢遊病者のようにフラフラと惰性で歩き続けている。
......その後、どれだけ歩いただろうか。
二人の眼前に大きく開けた道らしきものが現れる。
道というよりも、何か巨大な物体が、草木を薙ぎ倒しながら、
這い進んだような形跡だ。
その跡は、ミリアに向かってひたすら真っ直ぐに続いている。
あまりにも大きく、度肝を抜かれる程の大きな跡だ。
「......!! な、何なんスかね......?
ま、魔獣!? の歩いた跡っスかね......? 」
ハッサンの脅えた声。ヨシフに分かる訳が無い。答えられる訳がない。
......これが魔物ならば、立ち向かおうとの気も失せる。
得体の知れない恐怖が二人を襲う。
ただし、「アレ」が何かを突き止めない事には......司教国には帰れない。
覚悟というよりも、諦めに近い気持ちで跡を追い、ただ歩いていく。
やがて辿り着いた先のヨシフたちの眼前に広がる、一面の平原。
その遙か前方に、小さく街の外壁のような建造物が確認できる。
何かが這ったような跡は、その街らしき場所まで続いている。
今の所、遠目で見る限りは......魔獣らしきものは特に見当たらない。
待ち望んだ、ミリアに到着しようとしているようだ。嗚呼、夢にまで見たミリアが!
はやる気持ちを抑えきれずに、森から出ようとするヨシフを
ハッサンが必死の形相で止めに入る。
「ちょ、チョット......! ナニ考えてんスかっ!?
夜、せめて夜までガマンしてくださいよ!
こんな昼間っから、原っぱのど真ン中なんて歩いてちゃあ、
一発で見つかってお終ぇですって! 」
「ああ......そう、そうだったな。済まなかった。夜まで......
夜まで待とう、うん」
我に返る。ハッサンの言う通りだ。既のところで思いとどまり、
夜まで待つ事にする。
疲れで体が鉛のように重たい。少しの間でいいから、休ませて欲しい......
木の陰にへたり込むように腰を下ろすと、抗えぬ睡魔が襲う。
その後、ヨシフは泥のように眠り込む。
......夜の帳が下り、暗闇に紛れてそろそろと、二人は街に向かう。
明かりの灯るミリアの街を望遠鏡で覗き込むと、
風にはためく大公国騎士団の軍旗が目に入る。
悔しいが、ミリアを陥落させる事は出来なかったようだ。
後は、司教国軍の生存者がいるかどうかだ。
「神父サマ......アレ見えますか。ほら、アレっスよ。
あの跡、壁にブチ当たって......デケぇ穴ぁ、開いてますね。
魔獣が中で......暴れたんスかね?
アッシ一人なら、あそこから街中、侵入すんのは余裕なんで、
神父サマは森に戻って待っててくださいよ。チョット、見てきやす」
ヨシフに小さく耳打ちすると、ハッサンは実に素早く、音も立てずに街へ向かって走り出す。
流石は盗賊。ヨシフの足では到底、追いつけそうにないし、
逆に足手まといになるだけだろう。
ここは一旦、森の入り口に戻って待機しようとヨシフは踵を返す。
すると、その時......
「!? 」走るハッサンの足元に、グニャリとした
何かを踏みつけたイヤな感触が伝わる。
目を凝らすと、地面に生え茂る「その何か」は、
雑草でも植物の蔦でも蛇でもなく......
夥しい数の、激しくうねる触手達であった。
驚き、見上げると暗闇で樹木だと思っていたモノは......
茸のような巨大なバケモノだった。
竜のような翼も爪も無く、虎のような牙も無いが......
マズい。これはヤバい!
想像を超える巨体と無数の触手は、
一目見ただけで命の危険を感じさせるのに、充分すぎた。
侵入者により、穏やかな夜の眠りを妨げられた茸は、
怒りに震えている。
雄叫びとともにハッサンの体に纏わりつき、縛り上げようと這い回る触手は、
反射的に抜かれた短刀によってスパスパと、
何本も手際良く切り落とされていく。
......だが、残念な事に巨体すぎるマイコニドにとっては、ダメージを与えるどころか、
髪の毛を何本かプチプチと抜かれたような程度の感触にしかならず、
煩わしい! と、却って怒りの火に油を注ぐ最悪の結果を招いてしまった。
更に数と勢いを増した触手は一気にハッサンに襲いかかると、
あっという間に体の自由を奪い、縛り上げた状態で空高く持ち上げていく。
迂闊だったと一瞬、後悔したのを最後にハッサンの意識は途切れた。
......断末魔の叫びを発する事も出来ず、瞬く間にその肢体は四方に引き千切られ、
月明かりに照らされた血しぶきと肉片が噴水のように飛び散っていく。
怒りにまかせて、折角のおやつを台無しにしてしまった事に気づいた茸は、
慌てて次のおやつを求めて、そこら中を激しく触手で探し回るのだが、
見つける事が出来ない。
諦めきれずに暫くの間、触手は辺りをうねり動き、
茸はがっかりしたような唸り声を上げた後、やがて静かになった。
......少し離れた場所で、ヨシフはガタガタ震えながら、立ち竦んでいた。
暗闇の中、必死の思いで息を殺して見つからぬように、ただ、立ち竦んでいた。
助けに行く事など、できなかった。咄嗟に気配を消す事しかできなかった。
あの茸を一目見ただけで、司教国軍がどうなったのか、ヨシフは悟った。
敵うワケがない! しかも、あの茸は一匹ではない。
外壁の近くにあと二匹はいるようなのだ!!
とめどなく涙と鼻水を垂れ流し、失禁までしている事も気にならない位、
恐怖の底に叩き落とされる。
瞬時の判断が生死を分ける。どれも、ほんの2、3秒の間の出来事だ。
ハッサンの後を追わなかった事と、助けに向かわなかった事。
その結果、今、自分はまだ生きている!!
ヨシフは自らの幸運を、女神に深く感謝すると同時に、
必ず、司教国へ無事に帰らねば!
そして一刻も早く、この事態を枢機卿に報告せねば!
震えながらも、固く心に誓っていた。
そしてその頃、大公国の首都トリアムにて、意
思決定機関である大公国評議会内では、議論が大きく割れて紛糾していた。
......議事は勿論、トリアムに向かっている黒騎士への処遇と
同行するファルナ達、騎士団員への処分内容についてだ。
議会が一旦、休憩となり議事室を退出する副議長のウィリアム・アーサーは、
心底、疲れ果てた表情で大きな溜息をついた。
「お疲れ様で御座いました......会議の内容は、如何で御座いましたか? 」
うやうやしく頭を下げた護衛の騎士がウィリアムを出迎え、心配そうに尋ねてくる。
「どうも、こうも......! 頭は固いわ、危機感はまるで無いわ......
話し合いにもならんわ! 」
吐き捨てるように言うウィリアム。
ハンニヴァルからの手紙の内容や、ダラムのブライアンからの報告......
続々と黒騎士の情報が寄せられるのだが、確かに、
そのどれもがあまりにも現実離れしすぎており、俄かには信じ難いのは事実だ。
いや、ありえない。ありえないのだが......
それは、お伽話なのか? 陸を疾走する巨大な帆船を操り、
凶暴な魔獣を何匹も従え、凄まじく強力な魔法も使えるという。
戦士でもあり、魔獣使いでもあり、
魔術師でもあり......?
しかも、そのどれもが超一流で、唯一無二の能力ばかりであるとの事。
その力は、黒騎士一人とたった2、3匹の魔獣で騎士団の一個大隊や、
一都市程度など軽く殲滅できてしまうとの事だという!!
ミリアやダラムでの暴れっぷりを聞くと、戦慄が走る。
何処から来た何者なのか、何が目的なのかが全く不明だという所も、何とも不気味だ。
ハンニヴァルからの手紙には、大公への謁見と丁重な応対。そして
命令違反でのファルナ・インバースへの処罰の恩赦を請願する旨が記されていたが......
「......まるで、大公様のようだ」
我が主君、ヘルムの英雄伝説を思い出し、呟くウィリアム。
約200年程前、大公国は大陸北部の非常に小さな、
ただの一王国に過ぎなかった。
隣接する司教国軍の侵略にあっという間に王族は皆、死に絶えて
滅亡寸前の危機が目前の時、彗星の如く、突如として現れたヘルムは、
その圧倒的な力で敵を蹴散らし、瞬く間に領土を奪い取っていった。
大公も、何処から来た何者かは分からない。
だが、その圧倒的な武勲とカリスマ性で滅んだ王家の代わりとして
大公国の元首として就任し、
大国内で最強と謳われる程の国力と繁栄を築き上げたという。
その大公と黒騎士に、何か似たものを感じるウィリアム。
......対応に細心の注意を払わねば、下手をすれば、大公国が滅ぶ。
そういう相手である事だけは、間違い無いだろう。
問題は、他の評議会の連中にそのような危機感を持つ者が、少なすぎる事だ!
先程の、評議会での会話が脳裏に蘇る。
「実に馬鹿げた話ですな。タダの、手品師か何かの程度の輩であろう?
魔獣も魔法も、幻覚でも見せて惑わせたのではないか?
たった一人で司教国軍7000を皆殺しにしたなど.....まず、ありえませぬわ! 」
侮蔑の表情で、評議会の書記であるハンスが怒鳴る。
子飼いの部下であったサンレゾを殺されたこの男は、
黒騎士の力を認めぬどころかサンレゾはファルナ達により、
悪行の濡れ衣を着せられて謀殺されたのだと強硬に主張する。
怪しい黒騎士を操り、
ミリアやダラムの知行地を拡大し、権力を拡大する。
全てはファルナ・インバースが裏で絵を書いているのだそうだ。
「ウィリアム公も、御子息のハンニヴァル殿がご無事であったのは、
誠に喜ばしい限りでございましょうが......あの小娘に唆されたか、
命令されて加担しておるかもしれぬのですぞ!
でなければ、このような荒唐無稽な内容の手紙を寄越すなど......!
ましてや、大公様に謁見だと!? 厚顔甚だしいわ!! 」
ハンスが主張する方針は、こうだ。
大公への謁見は認めず、連中が到着次第、即、騎士団員は親衛隊により連行する。
余所者の黒騎士については、大人しく騎士団員を引き渡し、
立ち去れば不問とするが、従わぬなら、
既に配備した最精鋭の騎士隊2000名にて、帆船ごと殲滅させれば良い。
その後、ファルナ・インバースについては査問委員会における
尋問の上での厳しい処分を下す。
罪状は、度重なる兵の配置変更命令を無視し、ミリア防衛戦での
甚大な犠牲者を生んだ責任とダラムでの上官である、サンレゾの暗殺容疑。
ハンニヴァルやアランなどについては、自白の内容にもよるが、
命令に抗えず仕方なく従った可能性が高いので、情状酌量の余地あり。
......という、内容だ。
尋問といえば聞こえは良いが、要は厳しい拷問だ。
あらかじめ結論が用意されており、それを認めるまで、
とにかく執拗で徹底的に繰り返されるだけの事だ。
精錬潔白で名を馳せた偉大な勇者の娘も、
さすがに耐え切れずに身に覚えも無い罪状を告白し、
刑場の露と消える哀れな運命となるだろう。
無論、息子の身の安全も安泰ではない。
序列も家柄も低い、所詮は一介の成り上がり者だが、
非常に強い権力欲を持つハンスは巨額の賄賂の力で
過半数以上の議員を手懐けており、ここ近年の内政は彼のやりたい放題だ。
議長であるバンデンすら彼に懐柔されており、
未だに誰も彼の専横を止められる者がいない。
今回も息子の助命の代償に、黙って見ていろと、脅されているような状況だ。
権力を悪用した不正や犯罪紛いの怪しい事業など、
常に黒い噂も絶えないのだが、用意周到で証拠を残さず、なかなか尻尾が掴めない。
率先して邪魔者を様々な理由をつけ、
徹底的に排除するので優秀な人材がどんどん消失していく。
結果として国の中枢部には無能な守銭奴ばかりが居座る為に議会は停滞し、
不正が蔓延しての過度に中抜きされた予算の為、国防も国政もガタガタだ。
他国からの挑発に対しても何の有効な手段も取れておらず、
まさに末期の様相を呈している。
国家存亡の危機を憂うウィリアムは、この状況を打破すべく、
孤軍奮闘しているが多勢に無勢であり、
逆に我が身を守る事に精一杯の苦しい状況が続いている。
自身を厳しく律して醜聞から無縁のウィリアムは、若手騎士達の人望も厚く
序列も上である事から今はハンスも中々、手が出せないでいるが
蹴落とす機会を虎視眈々と狙っている事も充分、承知している。
「ウィリアム様......私共は皆、貴方様のお味方でございます。
もしもの際は......遠慮なく何なりとお命じ下さいませ。
どのような御命令でも、この身を捧げる所存で御座います」
苦悩するウィリアムの心中を察した護衛が、小さく耳打ちする。
「ああ......お前のその言葉だけで充分だよ、有難う......
だがな、議事堂では何処に耳がついていて、
何を聞かれておるか分からんからな、滅多な事は小声でも言わん方がいいぞ」
ウィリアムの忠告に、みるみる護衛の顔が青ざめていく。
どんなに些細な事でも、格好の攻撃材料と仕掛けてくる奴だ。
細心の注意を払いつつ、此処ぞ、という機会に一撃で仕留めねば......!
思いを巡らすウィリアムの前に、血相を変えた騎士の一人が
駆け寄ってくるのが見えた。
「う、ウィリアム様っ! は、帆船で御座います......!
帆船の姿が確認できました!
報告では、あと半刻程で......
こちらに到着するとの事で御座いますっ!! 」
騎士の絶叫に議事堂内が大きく色めき立つ。
(......いよいよ、来たか......!! )
「ど、どうなされたのですか!? ウィリアム様......! 」
何かが閃き、走り出すウィリアムに護衛が慌てて護衛が追いかけてくる。
「おい! お前は先程、こう申したな!?
もしもの際は、どんな命令でも申し付けろと。
......あの言葉に偽りは無いか!?
今、この場でこの俺の為に、命を捧げられるか!? ならば、ついて参れ!
もしも躊躇するなら......責めはせぬから、この場で下がれ! 」
「何を仰いますか! 先程の言葉に、嘘偽りは御座いません!!
貴方様の御命令とあらば......何なりと申しつけ下さいませ!
それで、私は何をすればよろしいのでしょうか? 」
真摯な表情で即答する護衛に、ウィリアムは胸が熱くなる。
「よくぞ申した! その言葉、嬉しく思うぞ......
よいか! 良く聞くのだぞ......まずは、急いで隊に戻るのだ。
そして、お前の様に、この俺の命に身を捧げられる者を
一人でも多く募り......帆船の前に集結させるのだ!
決して、黒騎士とやらと親衛隊の間で、
先に無用な死者を出してはならぬ! 頼んだぞ! 」
「お任せ下さいませ! 直ぐに隊員を集め、貴方様に合流致します!! 」
頼もしく答え、走り去る後姿に目を細めながら見送った後、
これからの出来事に備えウィリアムは気を引き締め直す。
......急がねば! この機を決して、逃してはならぬ......!
一方、トリアムに集結する親衛隊2000の兵をハリケーン号から見下ろす黒騎士は、
「ク、クク......クククッ......! 」思わず失笑を漏らしていた。
「......なーんつーかなぁ、この......
毎回毎回、ズラっと兵隊並べりゃあ、ビビるだろってよぉ?
なーんで大公国の騎士団はこう......
学習能力とかが、無ぇんかなぁ!? 」
呆れて怒気がこもった口調に艇内の誰もが緊張し、下を向いて口を噤む。
「いやぁ、いつも大軍勢見て何とも思わないのは、
黒騎士様だけですって......ねえ? ブツブツ」
金髪だけが、聞こえないように小声で呟く。
「ちょ、ちょっと! あ、あたしに聞かないでくださいよっ!
少し静かにして下さい......!! 」
慌てて小声で窘めながら、睨み返すジル。
トリアムと親衛隊を目にしたファルナは、
極度の不安と緊張で身体の震えが止まらない。
覚悟はしていた筈なのに......いざ、直面すると怖い。怖いのだ。
自分がこれから、何をされてどうなるのかは予想できている。
だが、やましい思いは何一つ無い。何ら恥ずる事無く、
凛として清らかに生きてきたつもりだ。
艇の皆にも、特に黒騎士には自分の見苦しい姿は決して晒したくない。
だからこそ、最後の瞬間くらい、堂々と潔く......!
だが、身体が言うことを聞かない。いくら心の中で叱咤激励しても、
死への恐怖が大きく上回り、本当は椅子から立ち上がる事さえ出来ないのだ。
......皆に悟られぬように、取り繕った表情で必死に誤魔化している。
「さて、と......そんじゃ、まぁ、行きましょうかね。
でもな......その前にっと」
黒騎士はファルナの前で立ち止まり、優しく手を取り立たせると、
毅然とした態度で話しかける。
「いいか、よーく聞いとけよ......大公国軍にゃ、
指一本触れさせねぇからよ......
絶対に、俺の後ろから一歩も動くんじゃねえぞ......!
ワカッたか!?
くれぐれも、いらねぇコト考えて勝手な行動するんじゃねえぞ......!
絶対だからな!! 」
心の中を見透かされ、ファルナは何も言えずにただ俯き、
頷きながら嗚咽を漏らす。
「おーし、行くぞ! アランと金髪ぅ! オメーらも、俺と一緒に付いてこい!
ちょいと、その大公サマとやらによぉ......ご挨拶と、行こーじゃねぇか! なあ!! 」




