第一章:婚約破棄、承りました
婚約破棄された公爵令嬢が、前世の証券アナリストの記憶を武器に異世界経済を変えていくクール系コメディです。
全10章・完結済み。第4章以降はKindleでお楽しみいただけます。
どうぞよろしくお願いします!
九十九 ぐるり
「ヴィクトリア・アシュフォード。あなたとの婚約を、ここに正式に破棄する」
王宮の謁見室に、ライナス第一王子の声が響いた。
貴族たちが息を飲んだ。侍女たちがひそひそと囁いた。この場に集められた全員が、私の反応を待っていた。泣き崩れるか、怒鳴り散らすか、気絶するか。
私は三秒かけて状況を整理した。
「承りました」
「……え?」
「承りました、と申し上げました。婚約破棄ですね。記録に残しますので、書面での通知もお願いできますか。後日の法的トラブルを避けるために」
「ほ、法的……」
「それから持参金の件ですが」私は懐から小さなメモ帳を取り出した。「アシュフォード家から王家へ提供した持参金の総額は、金貨換算で三万二千枚になります。婚約破棄の場合、返還義務が生じますが、いつごろご用意いただけますか」
謁見室が静まり返った。
ライナスの隣に立っていたエルザ公爵夫人——父の後妻で、この婚約破棄の裏にいる人物——が、かすかに顔色を変えた。
持参金のことは計算外だったのだろう。
「そ、それは……」
「急がなくて結構です」私はにっこりと笑った。「分割払いも検討しますよ。年利三パーセントで」
その瞬間、私の頭の中で何かがはじけた。
——年利三パーセント? なぜそんな数字が?
記憶が、洪水のように押し寄せてきた。
前の世界。東京。証券会社。毎日数字と格闘していた日々。投資信託、株式、債券、デリバティブ——
「ヴィクトリア様? お顔の色が……」
侍女が心配そうに声をかけた。
「問題ありません」
私は深呼吸をした。
前世の記憶が戻ってきた。私はかつて、別の世界で証券アナリストとして働いていた人間だ。そしてこの世界に転生し、公爵令嬢として生きてきた。
そして今、婚約を破棄された。
普通なら絶望する場面だ。しかし私の頭は、まったく別のことを計算していた。
この世界の経済は、おかしい。
土地の価格が実態と乖離している。穀物の取引が非効率きわまりない。そして何より——金融市場が、存在しない。
「ヴィクトリア・アシュフォード」ライナスが咳払いをした。「持参金については、追って検討する。しかし今後、お前が王宮に立ち入ることは——」
「ご心配なく」私はメモ帳を閉じた。「王宮には用がありませんので」
私には、もっと面白いことがある。
◆
馬車の中で、私はひとり試算を始めた。
持参金として手元に残るのは、アシュフォード家の私名義の財産だ。父が私のために積み立てていた分。エルザ公爵夫人が手を出せなかった分。
金貨にして、約五千枚。
前の世界の感覚でいえば、五千万円といったところか。
「少ない」とは言えない。しかしこれだけで世界を動かすには、知恵が要る。
窓の外を流れる街並みを見た。馬車、露店、行商人。物が動き、金が動いている。しかしその流れは、あまりにも非効率だ。
農民は収穫した穀物を安値で買い叩かれる。商人は情報の非対称性を利用して暴利を貪る。貴族は土地を持っているだけで富を得る。
これは、17世紀のヨーロッパだ。
近代的な金融の概念が存在しない世界。先物取引もない。株式会社もない。銀行すら原始的だ。
つまり——
「すべてが、投資機会です」
私は声に出してしまい、はっとして周りを見た。侍女のリルが、不思議そうな顔をしていた。
「ひとり言です。気にしないで」
「はあ……ヴィクトリア様、大丈夫ですか。婚約が破棄されて、ショックを……」
「ショック?」私は首をかしげた。「あの男の将来的な資産価値を試算すると、正直あまり高くないんですよね。感情的な経営判断が多すぎる。長期投資には向いていません」
リルがぽかんとした顔をした。
「え……と、つまり……いいんですか?」
「いいです」私は窓の外に目を向けた。「むしろ、よかったかもしれません」
婚約関係にある間は、目立つ行動が制限される。王家との関係を気にして、動きが鈍くなる。
でも今の私は、自由だ。
「リル、明日から少し忙しくなります」
「どちらへ?」
「まず街の市場を見て回ります。それから、いくつか話を聞きたい人がいます」
「お買い物ですか?」
「調査です」
私はメモ帳を開いた。書くべきことが、山ほどあった。




