第三十話 政治としての結婚話
ユリウスの求婚が学園を揺らした翌週、王都の空気はさらに張り詰めていた。
貴族たちは表では外交を称え、裏では水面下の駆け引きを始めている。
“隣国との融和の象徴”として、あるひとりの令嬢の名がささやかれた。
――カトリーナ・エルノア・グレイス。
セレスティア魔導学園の“影星の令嬢”。
そして、今やノクティス帝国の第二王子が求婚した相手。
その話は、一夜にして王宮の会議室まで届いていた。
――◇――
グレイス公爵邸。
磨かれた黒曜石の床を歩くカトリーナのヒールが、静かに音を立てる。
扉の向こう、父であるグレイス公爵が待っていた。
重厚な机の上には、王家からの書簡が広げられている。
「……お前にも、読ませておこう」
低い声でそう言いながら、公爵は手紙を差し出した。
カトリーナは受け取り、目を通す。
『ルミナリア王国とノクティス帝国の関係改善のため、両国の“象徴的結びつき”を推奨する』
――象徴的結びつき。
それはつまり、婚姻。
「……まさか」
「そうだ。王家は、お前が“外交の架け橋”になることを望んでいる」
公爵の声には、感情がなかった。
淡々と、職務として告げている。
だが、それがかえって重く響いた。
「ユリウス殿下は向こうから望んでいる。こちらが応えれば、グレイス家の地位は確実なものとなる。……悪い話ではない」
カトリーナは手にした書簡を静かに置いた。
白い指が、かすかに震えている。
「“悪い話ではない”……。お父様、それは私の人生を――また“台本”に戻すおつもりですの?」
その言葉に、公爵の眉がわずかに動く。
「台本、だと?」
「ええ。誰かの思惑の中で動かされる役。都合のいい駒として、ただ笑って座っていればいい令嬢。ーーそういう生き方なら、もう十分に味わいましたわ」
カトリーナの声音は静かだった。
けれど、その静けさは怒りよりも深いもの――
“自分の意思を取り戻したい”という叫びに近かった。
公爵は短く息をつき、背を向ける。
「……言いたいことは分かる。だが、国のためだ。考えておけ」
重い扉が閉じる。
残された静寂の中、カトリーナは小さく息を吐いた。
「(結局、どこまで行っても“役割”から逃れられないのね)」
窓の外では、春風が庭の薔薇を揺らしていた。
香りがかすかに漂う中、背後から声がした。
「……お嬢様」
ルイスだった。
侍女はそっと銀の盆を置き、紅茶を差し出す。
「お疲れでしょう。少しお休みを」
カトリーナはカップを受け取りながら、かすかに笑った。
「ありがとう。でも、休んでいる場合ではなさそうですわね」
「はい。王都中が、またお嬢様を中心に回り始めています」
「まるで運命が、わたくしを舞台の真ん中に押し戻しているよう」
窓辺の光が彼女の頬を照らす。
その瞳には、わずかな苛立ちと――それを飲み込む理性が見えた。
そんな彼女を見つめながら、ルイスが静かに言った。
「なら――お嬢様が、新しい台本を書けばよろしいのでは?」
「……新しい、台本?」
「ええ。これまでは“与えられた物語”でした。でも、今は違います。お嬢様が筆を持てば、どんな結末でも描ける。そのくらいの力を、もうお持ちでしょう?」
その言葉に、カトリーナの手が止まった。
紅茶の表面に映る自分の瞳が、ゆらりと揺れる。
「(……私が、書く。この世界の、新しい筋書きを)」
口元に微かな笑みが浮かぶ。
それは、誰にも見せない決意の笑みだった。
――その時。
扉を叩く音がした。
執事が慌てた様子で入ってくる。
「お嬢様、王都から急報です! セレスティア学園に……エリス・ベルフェリア様が戻られるとのこと!」
その名を聞いた瞬間、カトリーナの指先からカップが落ちそうになった。
白い磁器がわずかに震え、紅茶が波紋を描く。
「……エリスが?」
あの断罪の日から、姿を消していた“ヒロイン”。退学、失踪、消息不明。
その全ての記録に「行方不明」とだけ残されるはずの人物。
――彼女が、戻ってくる。
カトリーナはゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
その瞳を開いた時、もう迷いはなかった。
「(そう。なら、次の幕は――“ヒロイン再来”)」
世界の運命コードが再び乱れ始める音が、確かに、彼女の胸の奥で鳴っていた。




