第二十九話 求婚という爆弾
――それは、誰も予想していなかった。
いや、予想できるはずがなかったと言うべきだろう。
ノクティス帝国第二王子ユリウス・アルバート。
王都に滞在してまだ三日。
外交日程も終わらぬうちに、彼は突如として“爆弾”を投げ込んだ。
――「グレイス公爵令嬢、あなたを我が帝国の王妃に」
その言葉が講堂に響いた瞬間、空気が固まった。
貴族たちが一斉に息を呑み、教師陣が顔を見合わせ、令嬢たちは悲鳴を抑えるように口を押さえた。
まるで、劇の幕がいきなり最終章に飛んだような衝撃だった。
当のカトリーナはというと――
ただ、静かに立ち尽くしていた。
扇の先で小さく空気を払い、あくまで穏やかに、しかし確かな声で返す。
「……殿下。ご冗談がお上手ですこと」
「冗談ではない」
ユリウスは微笑すら浮かべず、真っ直ぐに言い切った。
その黒い瞳には一片の揺らぎもない。
「貴女のような女性を、我が国は必要としている。正義を飾り立てることなく、理をもって動く“影星”の女。王妃に相応しい」
「っ……!」
場内のどこかで、誰かが息を呑む音が響いた。
あまりに率直で、あまりに早すぎる。
その堂々たる告白は、外交辞令ではなく――求婚そのものだった。
レオン王太子の眉がわずかに動いた。
彼は一歩、ユリウスへと歩み寄る。
「ユリウス殿下、それは外交上の発言か?それとも……“個人としての意思”と受け取ってよろしいのですか?」
その声には、いつもの穏やかさはなかった。
金の瞳の奥で、何かが確かに燃えていた。
だがユリウスは、その熱を冷やすように微笑む。
「もちろん、“個人として”だよ、王太子殿下。貴殿の臣下でも、婚約者でもない。――彼女を選ぶのは、私だ」
その宣言が響いた瞬間、空気が震えた。
貴族の青年たちの間に緊張が走り、令嬢たちは色めき立つ。
“悪役令嬢”が、“隣国の王子に求婚された”――この光景は、それ自体が歴史の一幕だった。
カトリーナは、二人の間に流れる熱を感じながらも、冷静に呼吸を整えた。
「(……まったく、もう。この世界はどんどん“原作”から逸脱していきますわね)」
けれど、今ここで感情的になれば、すべてが崩れる。
彼女はゆっくりと扇を閉じ、優雅に笑った。
「殿下。光栄なお言葉を頂き、恐れ多い限りですわ。けれど――わたくしには、まだこの王国で果たすべき役目がございますの」
やわらかく、しかし明確に。
その言葉には、一切の迷いがなかった。
ユリウスはその返答を聞いても、笑みを崩さない。
むしろ、その瞳の奥に、さらに強い光を宿す。
「そうか。ならば――その役目を終えたら、我が国に来るといい。それまで待つ」
あまりに自然に言ってのけるその直球さに、カトリーナは言葉を失った。
まるで、それが当然の未来であるかのように。
扇の陰で、わずかに頬が熱を帯びる。
その微かな変化を、レオンは見逃さなかった。
「……殿下」
金の瞳が鋭く光る。
「彼女は、この国の民だ」
「ええ。だが、民の心は国境で縛れないでしょう?」
ユリウスは柔らかく言い返す。
その言葉は挑発のようでもあり、真理のようでもあった。
広間の空気が一気に緊張に包まれる。
教師たちは止めるタイミングを見失い、貴族たちは言葉を失っていた。
その中心で――カトリーナだけが、静かに立っていた。
自分の胸の奥で、何かが確かに揺れているのを感じながら。
「(殿下……あなたはもう“物語の台本”の外に出ている。そして――このユリウス殿下もまた、同じ場所に立っている)」
彼女は悟った。
世界の歯車が、再び新しい回転を始めたのだと。
その夜、王都の噂は稲妻のように広がった。
“影星の令嬢、隣国王子から求婚される”
“王太子、激昂か”
“悪役令嬢、国境を越えるか”
誰もが語り、誰もが興奮した。
だが、その裏でカトリーナの胸中には、誰にも見えない痛みがあった。
「(……始まってしまったのね。この世界が、完全に“狂い始めた”)」
月光の差す窓辺で、カトリーナはそっと扇を閉じる。
その音は、遠くで軋む運命の歯車と重なった。
そして――
三つの星が、それぞれの軌道を描きながら、同じ空の下で交差し始める。
恋と陰謀と運命の交錯。
それは、確かに三角関係の幕開けだった。




