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その日は一段と気候が安定していた。
空は晴れ渡り、雲一つ無い。陽の光は凍り付いた大地を温め、常冬の国に一時の安息が訪れたかのような快晴だった。
「このような日に、同族同士、殺し合わねばならんとは……」
インバス領へ派遣された地軍の将は、睨み合いを続けている相手陣地へ、悔恨の眼差しを向けていた。彼らが素直に従っていればこうはならなかった。手元に握る書状は、つい先だって届けられたものだ。
「本当に戦端を開くのですか? 当初の決定では、示威行為によって段階的に譲歩を引き出すものだった筈」
「議会が方針を定め直し、護国卿が承認なされたのだ。我々に否と言える筈がない」
やがてほうぼうへ放った伝令が戻り、出陣の完了を告げた。
「四年前の過ちをまた繰り返すか……」
※ ※ ※
その翌日、レミア領では、大きな騒動が巻き起こっていた。
「新たに到着した一団は西の広場に送ってくれっ。物資の手配は……昼過ぎまでは掛かる。どうにか堪えてもらうよう言ってくれ。神殿で騒ぎが起こってる!? ……毛布の数が足りない? 食料が持つかどうかも分からないのに……放置は出来ない。あそこには手伝いの者しか居ないんだ。誰か説明に行ける者はいるか!?」
インバス領への地軍派兵から翌日、中央へ敵対的だった領土から、大規模な難民が押し寄せていた。ミナス領への通り道ともなるレミア領では、その受け入れにほとんどの人員を当てて対処していたのだが、元より散発的な難民を受け入れるだけで精一杯だった彼女らに、全てを救えるだけの余裕は無かった。
加えて、軍の派遣には相当な費用が掛かる。食料も、物資も、人員も、そちらへ大きく割かれてしまっている。
「こんな時にフィオメル殿は何処に行って……」
「姫様」
「姫様は止せと言ってるだろう」
「あの男、本当に信じられるのですか」
騒動の中、男の言葉にレミアは身を固くして振り返った。よくよく相談に乗ってくれる彼は、レミア領領主としての側近だ。自分の倍以上も生きている彼の言葉に、レミアはかなりの信頼を寄せている。
「優れた人物であるというのは私も思います。ですが、彼は異国の人間であり、巨大な勢力の名代としてやってきているのです。あまり内情を知られると、後々厄介なことになるのではないでしょうか…………私達の力不足はわかっているつもりですが」
「そんなことを言ってくれるな。皆の尽力には心から感謝しているし、不満はない。私自身が取り立てててきたんだ。護国卿の側近にでもしてやれれば、もっと良かったんだがな」
「過ぎた身分です。一時は反乱まで企てた私には」
それを宥め、説得したのがレミアだった。彼を含め、レミア領の役職者には、レミア自身で取り立ててきた平民がかなり居る。多少の軋轢もあったが、形式で時間と手間を潰す貴族らに比べ、彼らの行動は実利的で、現実をよく知る意見としても重宝している。国がこれほどまでに傾いているにも関わらず、貴族の中には民がどんな生活をしているか、全く知らない者も居るのだ。
「フィオメル殿には、私も一応警戒している……つもりだ」
「姫様は人を信用し過ぎです。私が言えたことでもありませんが」
「姫様は……いや、そうは言うがな、私の力不足は私自身よく分かっている。そんな人間が独断で動いては周囲に迷惑が掛かる。優れた人間が居るなら頼るべきだろう。その……安易に信用しないようにはしているつもりだ。ただ、彼と話しているとつい信じてしまうというか、警戒が緩んでしまって……」
しどろもどろに答えている内容が、己の足りなさへの言い訳なのは分かっている。
幼い頃から言われるまま生きてきた。貴族の娘ともなればそれが普通だ。言われるまま神殿に入り、言われるまま戻ってきて、護国卿となった。しかし政治などというものを全く知らない小娘に判断など出来ず、祖父の代から支えてくれていたという長老派の言葉に頷いているしかなかった。自然とレミアは、誰かに頼ることへの躊躇がなくなっていった。
ただ、護国卿の周辺は動かせないが、レミア領の領主としてならいくらか自由に出来た。男のような人間を独自に取り立てているのは、彼女なりの反省だ。
「彼は商人と言っていましたな。口が上手いのは当然です」
「その商人が契約したのだ。アストリアの情勢を見せる代わりに、私の相談役として力になってくれると。それにいざ海洋同盟の参加となった時、全く知らぬ相手よりも、力を貸してくれていた人物となれば話も纏まりやすいからな。ローゼリア王の紹介でもあるんだ。身元の保証者は、これ以上ないものだ」
ローゼリアは二十年前の事件以来、航行困難となっている内海を除けば、あとは地続きの国だ。海洋同盟へ参加の意志は薄かったらしい。その話をアストリアへ回してくれたことには感謝するしかない。
「フィオメル殿が参られました」
伝令からやや遅れて屋敷へ入ってくる金髪の青年を目に止めて、側に控えていた男が踏み出し、責めるような声で言う。
「一体何処に行っていたのですか。まさかこの騒ぎに気づかなかったとでも?」
「すまないが、先に話をさせてくれ。別室がいい」
「ここを離れる訳には」
「最優先だ。悪いが言い合いをしている時間もない」
押し切られる形で頷き、一行が向かったのはレミアの執務室だった。扉が閉まるのが先か否か、フィオメルは言った。
「インバス領と地軍が戦端を開いた。こちらからという話だが、これは君の指示か?」
「な!? 極力戦いは避けるように言っておいた筈だぞ!」
早期解決が最善ではあったが、態度のはっきりしないインバス領を一方的に押しつぶす訳にもいかない。インバス卿が不在という話もあったし、女神の一件を思えば、彼も誘拐された可能性もあったのだから。
ミナス領を離れる前にボルドネス卿とも話をし、指導者不在のインバス領には軍で圧力を掛けながら譲歩させるのが最善と結論していた。
「だが、戦いが始まったのは間違いないらしい。一応聞くが、インバスへ派遣された地軍の将は、命令も無しに動くような人間か?」
「いや。数えるほどしか会ったことはないが、祖父の時代から将を務めている実直な人間だと聞いた。どちらかと言えば、議会よりもこちら寄りの人間だ」
「なら議会が勝手をした線は薄いか……」
沈黙が降りた。とうとう内乱が始まってしまったという事実に、レミアは足元が覚束なくなってしまう。珍しくフィオメルは考え込んでいる様子だった。彼もまた焦っているのかもしれない。
「………………まさか」
震える声で呟いたのは、フィオメルでもレミアでもなく、側付きの男だった。彼は周囲の視線を受けて、後悔するように口を噤む。
「何か思う所があるなら言ってくれ。急いで状況を把握しなければ取り返しがつかなくなる」
「……」
「パルドランとインバスが通じていたという確証はない」
フィオメルの言葉に、ようやくレミアは思い至る。この内乱で最も得をするだろう者達が、これを誘発させた可能性について。
「まさか……偽書、か?」
「おそらく。ですが、確証はありません。議会が強引な手に出た可能性も」
再びの沈黙を破ったのは、扉に背を預けたフィオメルだ。
「どちらにせよ、以降の状況を最も早く制御出来るのは一人しかいない」
「それ……は」
「加えて言っておくが、どうも難民たちに事実と異なる噂が蔓延しているみたいだ。護国卿が連合各国から支援を取り付け、レミア領には相当量の支援物資が集まってきていると。更には、事態に業を煮やした護国卿が王座に付き、従わないインバス領へ天軍の派遣を検討しているとか」
根も葉もない話だが、だとすれば今朝から続く大勢の難民に説明がつく。難民を排斥し、独自の交易路を以って領民を護るインバス領も、結局はアストリアの領土に過ぎない。土地は荒れ、凍える日々を送っているのに変わりはないのだ。潤沢な物資の存在に誘われてこれほどまでに集まったのには、続く王の噂が後押ししたからなのか。それとも天軍への畏れか。
「俺はこの話は、意図的に流されたものだと考える」
「まさか……そんなことをして一体どうなると?」
「この屋敷を見るだけで分かるだろう」
そうだ。許容量を遥かに超える難民の受け入れに、レミアは元より町議会の人間まで駆り出されている始末。このままでは難民はおろか領民にまで餓死者が出てしまう。食料だけならまだいい。夜になれば寝床も必要だろうし、暖を取るための毛布や薪が必要だ。雪道を歩いてきて着替えが必要な者も大勢居る。昨日から続く比較的暖かな気候が無ければ、大勢の人間が凍死していた所だ。
「難民たちは様々な所から集まってきている。にも関わらず、口を揃えて同じ噂だ。これはもう、レミア領を麻痺させる目的と見た方がいい」
「どうすれば!?」
近隣の町からは集められるだけ集めている。それで一日二日は持ったとして、それ以降はどうにもならない。
「普通ならば正攻法以外に手はない、と言う所だが、今だけは状況が味方している」
物資も人員も、そう遠くない場所にある。フィオメルはきっぱり言い切ると、まるで覚悟を問うかのような目でレミアを見た。
「開戦の指示は偽書であったと公式に発表し、地軍をここまで下げるんだ」
※ ※ ※
フィオメルの言葉に、側付きの男が息を呑むのが分かった。
かつて反乱を企てたという彼には、事の意味が即座に理解出来たらしい。
「偽書の発表をする以上、対策も同時に出さなくてはならない」
「ここから半日は掛かるミナス領の中央議会と話し合っていては、インバス領との決別が避けられなくなる。となれば、後はもう護国卿の名の下に指示を一元化し、即座に停戦を命じるしか。ですがそれは……っ」
「そうだ。レミア卿、君の元に、議会の手から離れた、一領土を制圧できるほどの武力が集まることとなる」
青ざめるレミアを、男は期待の眼差しで見ていた。彼のような反応をする者は、このレミア領には多いだろう。ここに来るまで、町議会の者達さえ雑用に動きまわっているのを見た。領民は率先して手伝いをしており、おかげでかろうじて支援体制の崩壊が免れている。それも時間の問題だろうが、これほどまでに人々が善意で動く群体というのをフィオメルは他に知らない。
レミア=シュタットレイ。未熟ゆえに、そして独裁者とまで呼ばれた祖父への反抗心ゆえに芽生えた、彼女の民へ対する姿勢は、各国が中央集権化あるいは絶対王政化を進めるこの時代にあって奇跡と呼べるものだ。
彼女が今の、レミア領の底力を生み出したとフィオメルは思う。例え幼稚な行為が発端であろうと、起こした結果までは誰にも否定出来ない。
「私は……王には……」
「王になれとは言っていない。あくまで護国卿としての範疇だ。ただ、そうなればもう、インバス領との一件が片付くまで君が軍を指揮することになる。失敗すれば議会はもう君を相手にしないし、成功しても、功績が君を祭り上げ、議会にとって警戒すべき相手となる」
今までの、お飾りも同然の護国卿ではいられない。
座視すれば数えきれない死者が出る。
握った拳はそのままで、瞬きさえ忘れたようにじっと宙を見つめる彼女は、もしかすると時が流れるのを待っているのかもしれなかった。自覚のあるなしはともかく、今まではそれが彼女に味方していた。だが今は、それさえ多大な影響を及ぼす選択となってしまう。
悠長に成長を待っている時間はない。それは、こうなる前から分かりきっていたことだ。彼女も漠然と感じていただろう限界が、今までにないほど明確に、目の前の問題として現れたに過ぎない。
大きな問題と責任を前にした時、決断までに余裕があればあるほど、人は待ちを選択したくなる。様子見、状況把握、色んな言い方はあるが先延ばし以上の表現はない。
立場に値する成長を遂げてからなどと、都合よく世界は回らない。
「全てを投げ出す手もある」
無表情に、冷酷に、フィオメルは救いを放る。
「インバス領と長老派、どちらかが擁立している王を支援すればいい。一時的に地軍を統率したとして、王の下に傅けば警戒もなにもない」
ただし、
「そうなれば、俺はここで降りさせてもらう。王を擁立する以上、護国卿の立場は形骸化するからな」
「待ってくれ! それは……!」
「決断できない統治者など逆賊にも劣る……!」
殺気さえ込めて放たれたフィオメルの怒声にレミアの顔が強張った。
「常に正解を選び続けることなど誰にも出来はしない。お前は俺をそう見ているのかもしれんがな、俺は別に全てを考え抜いて行動している訳じゃない。紙に書き出し時間を掛ければ誰でも考えが至る程度の思案だ。それも完璧じゃない。予定外のことは起きるもの。だから例え不正解を選んだと分かっても、そこに正当性を見出し、さも正解であるかのように騙っているに過ぎない。人に好かれたければ官職になど就くな。自分が無意識にしてきた選択の責任も負おうとしない全ての者が、今のこのアストリアを形作っている」
女神の加護というものは、あまりにも人々に優し過ぎたのかもしれない。目に見える偉大な存在が常に自分たちを助けてくれる。こんな雪に覆われた土地であっても、特定の果実は成り、植物は育まれる。女神の力次第で気候さえ安定する。主だった町を繋ぐ経路は保たれて、荒れ果てた土地を守っている。王が一度天軍を召集すれば、天候を味方に付けた無敵の軍隊が外敵を一掃してくれる。
レミアだけではない。誰もが頼ることに慣れ切っている。特別な誰かに助けて貰おうとする。
「どんな善人でも、自分に損をさせる他人を好意的に見たりはしない。統治者というのは、国民にとって関わらざるを得ない他人なんだ。万能の政策などありはしない。だから統治者は批難を避けてはいけないし、人気を求めてもいけない。必要なのは循環させること」
応じる言葉は無く、彼ももう求めてはいない。
伝えるべきことは伝えた。
扉を開ける。
身を外へ。
「お前の周りには、お前を諌めてくれる仲間が居る。それはお前が積み上げてきた財産だ。己を信仰しろ、レミア」
それが別れの言葉となった。
フィオメルはもう振り返らない。
※ ※ ※
気の遠くなるような時間が経過した。
外の騒ぎは随分と静かになり、その間も誰一人として部屋に入ってくる者は居なかった。レミアは言われたことを何度も反芻し、この先を想像した。身が震えたし、何かを決めたと思って声を出そうとしても、喉が震えて言葉にならなかった。
「わかった」
ようやく出てきた言葉の意味する所を、彼女も理解できていない。
だがなんとなく、最後にこの部屋で発言した男への返事のような気がして、レミアはそうだと思うことにした。己を信仰しろ。例え道を誤ったとして、自分にはそれを正してくれる仲間が居る。今まで宙ぶらりんになっていた彼の言葉が、胸の内にすっと入り込んでくる。まるで本当にそのつもりで発言したかのような気持ちになった。
「わかった」
想いが定まった。
棒立ちになっていた己が、初めて立っていることを自覚した。確かめるように前へ。立ち止まり、止まることを自覚する。
ふと視線を足元へ向けると、側近の男が跪いていた。彼は言葉を待っている。
「護国卿の名の下に、地軍の即時撤退を命じる。偽書によって戦端が開いたことを公式に発表し、以降、私を通さぬ指示書は全て無効とせよ。撤退した地軍には難民の保護を命じ、治安維持に務めさせる。また、インバス領には然るべき保証を約束し、後日、話し合いの場を持ちたいと申し伝えよ。ミナス領へは改めて支援の要請を。以上だ。すまないが、付き合ってもらうぞ」
「それこそ我が身の誉れ成」
今までに無いほど礼を尽くして部屋を辞した男を見送り、レミアはふと、頬を流れる涙に気付いた。
何故?
「何故、彼が居る間に決断出来なかったのだ」
彼をどう思っていたのか?
「初めてだった。あんな、他愛もない夢を語り合ったのは」
そう、
「嬉しかった。皆が私に統治者としての振る舞いを求めたのに、彼は私にありふれた日常を示してくれた」
それが例え幻想だと分かっていても、あの時確かにレミアは涙した。
英雄には三種類あるという。生まれながらに英雄であった者、英雄になろうとしてなった者、そして、英雄になるしかなかった者。
「もしかすると」
嗚呼。
「初恋だったのかもしれんな」
言ってしまった。
考えるだけなら良かった。
だが、言葉にしてしまえばもう取り消せない。
心が言葉を追いかけて、響いた音色は彼女の頬を紅潮させた。トクン――トクン、と今まで気にしたこともなかった鼓動に耳を傾けた。想いが逃げてしまわぬよう、そっと両手を心に重ね、彼の名を口にする。
「フィオメル」
吐息は熱く、想いは溢れ、されど、彼が求めた統治者として言葉を紡ぐ。
「見ていてくれ。私は、アストリアを守ってみせる」
進むべき道はこれで定まった。
※ ※ ※
レミア領から発せられた勅令により、地軍は速やかな撤退を行った。偽書による開戦は中央議会を始め護国卿を責める声も出したが、内乱を避けられた事への安堵と、地軍に回されていた潤沢な物資が難民保護に当てられたことで不満を打ち消し、また偽書を出したであろう何者かへの義憤が大半の意見を占めた。
不思議なことに、その疑惑が真っ先に向けられるであろうパルドランへの批難がほとんど広がらなかった。また、国境で睨み合いを続けるパルドランだが、小競り合い程度の戦いを除けば驚くほどに静かなまま。対するルノアーデ領には派遣された地軍の物資とローゼリアからの物資とを合わせて、かつてない潤いを見せているという。
俯瞰で見れば、今回の事件は全て、中央に蓄積された財や物資を一斉に地方へバラ撒いたに等しい。
インバス領へ派遣された地軍は事実上護国卿のモノに。
パルドランへ派遣された地軍は他国のローゼリアと混成軍になった為、議会の思惑のまま自由に動かせる状態にはない。
そんな中、突如として中央議会議事堂を武力制圧した長老派のボルドネス=ヒューイックは、天軍の召集を宣言。レミア領領主にして護国卿たるレミア=シュタットレイを、王殺しの奸賊として名指しで批難。彼らが異国から探し出し、国内に招いていた王族が彼女によって暗殺されたのだと言って、派遣待ちのままとなっていた地軍を再編し、進行を開始。
ほとんどの者が彼の行為を批難したが、話し合いを呼びかけ防衛線を敷いたレミア領の地軍が吹雪によって壊滅したことで、各地の領主たちは凍り付いた。ボルドネスら長老派の背後には、女神の誘拐を受けて王都へ派遣されていた、新たな女神候補生たちが居ることをほとんどの者は知らない。
天下無敵の天軍が迫る中、護国卿は更なる地軍の召集を呼び掛け、中央には敵対的だったインバス領、グラード領、ハイアット領がこれに呼応した。
王の所在は未だ不明のまま、天より舞い降りた神の軍が、地を這う人の軍を蹂躙する。




