遥かなりし彼方歌
■
光燭を失い黒の帳が覆う浮界の地表をなお断続的な小爆は揺らす。
「どう考えたって何かしら不味い事が起こっているのは間違いないってのにあの目玉野郎どもときたら、融通利かないにも程があら」
「木偶人形に文句いったって無駄でしょ。あいつら命令どおりに動くだけなんだから」
ウェルバとミディ。
執拗な捜索を続ける自動球を避けて、二人は木立を掻き分け小丘の荒れた急斜面を急ぎ駆け降りる。
監視に気取られぬように闇夜を踏歩するには些か危険が伴う路程を選ぶ必要があった。
「足元に気をつけろよ…って」
そういうや否や足場を踏み外すミディ。
「いったそばからかッ!?」
斜面を滑り落ち、茂みに突っ込んだ彼女は挫いたらしい足首をさする。
「あったた、裾踏んだ…踵折れた」
「ったく。昔っからお前、ここぞって時にやらかす奴だったよなそういや」
「ちょっとぉ!昔の話持ち出すのやめてくれる?」
「分かったから、ほれ」
ウェルバは彼女に肩を貸してやる。
「…ありがと」
―――燦爛と眩い少年の金色。
彼女にとって学院時代の記憶は常に、陽光に揺れる少年の姿と共にある。
教練。演修。錬理。練体…あらゆる分野において、いつでもその名は彼女の上に輝いていた。
どれほど研鑽を積み、成果を挙げようとも取り沙汰されるのはいつも彼女ではなく――――「彼」。
聖府次代を担う人材の養成機関、真世界全土より異能の才集う学院にあってなお、ひと際輝く天凛をもってその少年は君臨していた。
そして修士の誰もが彼を別格視し距離を置く中、少女は生来の負けん気ゆえか、ただ一人敢然と勝負を挑んだ。
彼女とて汎民の出から特例で学院に上がった身。それなりの自負があった。同じ修士であるなら立場は同等のはず。天才の鼻を折ってやる――――。
そう心中に期し、少年との「勝負」に挑むこと数限りなく。
しかし、その度に歴然とした力の差をみせつけられ、逆に鼻柱を折られたのは彼女の方。
いつもいつも、少年は生まれ持った天凛で少女の全力を悠然と飛び越えていく。まるで彼女の必死さを嘲笑うかのように。
その上で相手は何でもないことのように振舞うのだから堪らない。
けれども、実際はその通りだったのだろう。彼女が覚えているのはさして楽しくもなさそうな少年の横顔。さしたる努力も要さぬ代わりにとりたてて達成の喜びもない、並外れた逸材ゆえの憂鬱な諦念に染まる薄笑い。それがまたいっそう彼女には気に食わなかった。
敵う筈がない。けれど負けを認めたくはなかった。いつか余裕しゃくしゃくな厭味ったらしい表情を驚きで歪めてやる――――。
そう頑なに一心に、半ば意地になって挑み続けた日々ある日突然終わる。
少年は学務修了を待たずして学院を去っていった。GRDN筆頭機たる聖魂機の搭乗者としての抜擢を受けて。
学院内を騒々しく飛びかう片言隻語の細波をよそに彼女はようやく気がつきはじめる。初めは目標を失った喪失感だと思った。けれども、そうではなかった。
―――――瞼にちらつく彼の横顔。
思えば少年が眺めていたのはいつだって彼女とは違う景色であり、それは今も変わりないのだ。元々、彼と自分は同じ位置にすら立っていなかった。彼女が一方的に意識していただけの事。そんな事は分かっていた。
少年が去ったあとも彼女は変わらず、いや以前にも況して努力を続けた。
気がつけば少年が去った学院にはもはや彼女の前を走る者はいなくなっていた。
そうはいえども誰もが望む栄達の冠を得るための競争の日々は苦しく困難なものだった。けれど希望はあった。少なくとも彼との勝負よりは、ずっと。
―――二年後、彼女は手に入れた。聖霊の御手の地位。聖魂機という栄えある冠を。
そして。目指した頂きに立ち、ふと気づけば。
あの少年に。
勝ちたい―――。
並びたい―――。
ただ少しでも追いつきたい――――。
ただ少しでも近づきたい――――――。
振り返れば彼を目指すその一心が少女の決して順風とはいえぬ歩みを支えていた
もしも彼がいなければ、今ここに自分はいないだろう。
―――――振り返れば既に過ぎ去っていた、恋とも呼べない淡やかな思慕。その残り香は代わりに確かなものを彼女に残していった。
より高みを目指し研鑽を重ねた幾年は聖霊手となった今も彼女を支える力。
救世機関GRDN。この道を選んだのは誰の為でもない己の意志、かくて歩むのは紛れもない自らの選択。
過ぎ去った想いは胸にしまい込んで、彼女―――――ミディ・ファラムは聖魂機ベヌデクテを駆る――。
■
ほんの先刻まで人の波で雑然としていたはずの大通りは今やしんとした静寂を湛え、敷き詰められた路石だけが虚しい萌光を放っていた。
民衆の大半は最寄の避難腔に逃げ込んだのだろう。
広場の先、尖塔に高く掲げられた女神像がこの位置から目視で確認できる。
「もう少しでセイリオスの所に行けそうなんだけどなあ」
「どのみち嬢ちゃんがいなきゃ動かせないから意味ねえな」
窓の外を横切る球形の機影にウェルバとミディの囁きは中断される。
路地に面した建物の合間をその長い手が覗く。
「…囲まれちまったか」
「…御免。私がこけてなきゃ…」
痛めた足を庇いながら、座り込んだミディ。
「俺が油断してただけだ…まさかこうもしつこくつきまとわれるとはなあ」
必死の逃走も甲斐なく、進路を阻まれた二人だった。自動球の群れは徐々に探索の輪を狭めていく。みつかるのは時間の問題だろう。
自動球の固定武装はたった一つしかないが、その一つが問題だった。
「邪視」―――いわゆる呪力の類である。呪術とは聖・魔問わず霊性に由来するものではなくその作用の仕方を指す。いってみれば幻術の類に近いものだ。
例えば、暗示であっても人の肉体は実際に傷つく。目隠しをされ冷えた鉄箸を押しつけられた者はそれを熱した火箸と錯覚し、肌には火傷に似た症状が出るという。呪力とはいわば事物に強力な暗示をかける様なものだ。
また、極小物理領野において顕著ではあるが、観測自体が対象に与える影響というものはつとに知られていよう。
邪視とは視覚認識という行為事態が存在に働きかける力を増幅利用するものである。
とはいえ、邪視そのものはそれ程強力なものではない。物理的な性質を利用する振動兵器等とちがって存在へと直接働きかける力であるがゆえに邪視は微細な効力しか持ち得ない。
よって、殆どの機兵に対呪的防護処置が施されている昨今では殆ど用をなさないのが邪視兵装なのである。
ただし、それはあくまでも対機兵戦に限った時の話――――有効な対呪手段を備えない生身の人間相手なら話は別。
なにしろただ見詰められただけで、その者にはなんら防ぐ術のない衝撃が加わるのだ。
即効性。威圧力。認識相手のみに被害を及ぼす対象選別性―――およそ都市の治安維持における暴徒鎮圧手段としてこれ程効果的な武器もあるまい。同時に生身で相対してこれ程嫌悪感を覚える悪辣な武装もまた、ない。
「――ミディさ。飛鐘分翅、呼べないか?」
ウェルバがたずねる。進退窮まった末の駄目で元々といった提案だ。
「遠隔操波たって限度があるよ。無理だとは思うけど……ん…」
彼女は目を瞑り、神経集中し―――。
所かわって、一番艦内に鳴り渡る轟音に騒然となる乗員達。
「敵襲か!」
「いや!暴発した飛鐘分翅が隔壁を破って…」
「た・たった大変だーっ!?破片に巻き込まれて、偶々通りがかった参謀が、参謀がああああああっっ!!」
「急げ!急いで掘り返せえっ!!」
――やおら人差し指を額に寄せるて難しい顔をするミディ。
「ううん。心なしかとんでもない事しでかしたような、でもちっぴりすかっとしたような…」
「なんだそれ?」
「やっぱ駄目ね。お手上げみたい」
「運否天賦は嫌いなんだが…仕方ないか。俺一人ならなんとか突破できるかもしれない」
「ちょっと、それって…」
ミディは彼が救援の時間を稼ぐ為に囮になるつもりなのだと気づいた。立ち上がろうとする彼女を少年は手で制する。
「勘違いすんな。最悪でもどっちかは助かる方法を選んでるってだけだ」
彼女はそれ以上反論できない。冗談めかしてはいるが彼のいう事は正しい。それになにより、止めても無駄なのだろう。
表向きは斜に構えたウェルバだが、その奥にはこうと決めたら梃子でも動かせないほど強く頑な意志が潜んでいる。折に触れダネルの意固地を茶化す彼だが、根っこの所では結局似たもの同士なのだと彼女は仕方なしの笑いを溢す。
「あんまり買いかぶるなよ。いっとくがお前を置き去りにして逃げるかもしれないんだぜ?」
「あのねぇ…こういう時は『必ず助けを呼んでくるから心配するな』とかいうもんじゃない?」
「えー、そういう恥ずかしいやつはダネルに任すよ」
ミディは自分の首飾りをそっと外し、ウェルバに手渡す。
「お守り。それだって護符だし、少しくらいは呪効を和らげられるでしょ?…気休めかもしれないけど」
「ありがとよ。ちょっと借りとく」
「もってていいよ、だから…」
「ああ。天下御免の聖霊手様がこんなしょぼくせえ所で終われるかよ」
そう。どんな窮地であろうとこの少年から飄然と不敵を取り去ることなどできはしないのだ。
髪をほどいたウェルバの面持ちは彼女に束の間少年の昔の姿を想起させ。た
「気をつけてね」
少女の言葉に背中で応えウェルバは法服の襟を引き上げた。
「―――――スリルのある鬼ごっこだな…ったく」
ウェルバはしなやかな足取りでその身を外の闇へと投じた。
小石を空に放って一息に駆け出す――痩身が音もなく闇を跳ね。
路面を叩く礫に反応し跳梁を始める鋼眼の群れ。その時にはもう、少年の姿は路口の暗がりに吸い込まれた後だった。
ウェルバは入り組んだ裏道を全速力で走りながら追っ手の気配を確認する。
頭頂部から生える白い鬣が夜目にも明るく自動球の位置をほの示す。雑踏の音も遠い市街に際立つ駆動音を嗅ぎ分けなど彼にとっては児戯にも等しい。
手前に三機。更に後方に二機控えている自動球の存在を感知。
空高く上がった一機が街路をぐるりと見回している。邪視の性能はともかく索敵能力そのものはさして優れていないのがせめてもの救いか。遮蔽物を負っている分には上空から発見される心配はあるまい。
柱の脇に身体を押し込み追走する一体の背後に回りこみ塀越しにすれ違った機体の低い嘶きを後に残して影から影へ、躍動する四肢。
肩にぶつかる風が耳朶を打つ。革靴が敷石の目地につまった砂を掻き出す。
大通り、夜気に身をさらけ出す距離を臆することなくウェルバは駆け抜ける。
狭まった路地を邁進、そこから一間、二間、三間…このまま直進を続ければ直に河川に突き当たる。
――――川沿いでは目立つ。かといって橋を渡るのは無防備に過ぎる。
動きの一切に淀みなく、路地の角を蹴って右折するウェルバ。
――先日祭り見物に訪れた際に市街の大まかな地形は把握済みだ。割り出した経路を敏捷かつ大胆に少年は踏破し続けていた。
現時点で行程の半分は越えたはず、中央市街を抜ければ後はどうとでもなる。そこから先は街の外に停泊してある艇車なりを拝借すればいい。
途前、服の上から伝わる肌をやく疼痛を意識するウェルバ。
―――反応が遅れた。舌打ちを一つ。よもや左手から回り込んできた伏兵を見逃していたとは。呪力特有のじりじりとした痺れが痛みに変わる。物理的干渉を伴わない衝撃に隔てる壁もなんら障壁の役を果たさない。
「だから…こっちをみるなってんだこんのクソ目玉めッ!」
遮蔽物を挟んで幾ばくか間隔がある。今ならまだ振り切れる。
胃の腑からこみ上げる酸汁を飲み込み、萎縮する筋肉を無理やり引き動かしてウェルバは建物の裏へに身を滑り込ませた。
目標を見失った自動球がよりかかった弾みで円輪が勢い側道の曲柱を突き崩す。
「(どうにか引き離せたか…)」
辿り着いた小路の陰に潜んで少年は軽く息を整えた。二基の飛翔輪を備えたレ・ジュの移動速度は決して速くはないが、なにしろこちらは確認されればそこで終わり。なにせ目の端を掠めただけでこの有様だ、直接相対した時どうなるか想像もしたくない。見敵必殺を地でいくその力。
敵に回して鬱陶しい事このうえない。集団は数に頼んで経路を一つ一つ塞ぎにかかっているようだ。急がなければなるまい。
照灯の帯を避けて、再度疾走開始。ウェルバは塀を駆け登って、二区画を一気に横断した。
問題ない。このまま逃げ切れる。なにか予想外の突発事さえ起きなければ…市外部へと通じる矮路に飛び込んだ途端、ウェルバの背筋が凍る。
道に横たわる人影は二つ。
怪我をした老親を子供が介抱しているようだ。あれだけの人手だったのだ。避難途中場の混乱に巻き込まれ、そのまま取り残されたのだろう。街の異状を察知し、二人は身を寄せ合っいその場にしゃがみ込んでいた。
ウェルバが逃走を続ける限りここはレ・ジュの通過点でもある。後方から迫る無人機体が彼等を誤「視」する恐れは充分にあるということだ。といって、二人を連れながら逃げ切れるはずもない。
決断を迫られたウェルバ。
双肩にかかるのは神威を戴く身に課せられし比類ない使命の重責。そこからみれば目の前にあるのは天秤にかけるまでもない塵芥に過ぎない。冴え冴えと透いた内なる声が彼を苛む。
―――――諦めろ。見捨てろ。躊躇なく切り捨てろ。とるに足りない犠牲。瑣末な損害。見誤るな。忘れるな。成すべき嗣業。果たすべき宿業を――。
秒に満たない逡巡の後、ウェルバの手が子供の頭を撫でた。
「ここ、絶対動くなよ。もうすぐ助けが来る」
寄せた頬を離し、彼はすぐさま踵を返した。自動球が侵入する前にこの場から離れる事を最優先に。
「―――馬鹿がっ…!」
誰にともなく毒づきながら。
道は離脱経路とは逆方向、その上行き着く先は袋小路。繋がる分岐路からそれぞれ、羽虫の唸りに似た飛翔輪の音が近づいてくる。
「(高くつくよな…善人面ってのはさ)」
ウェルバは覚悟を決めた。といって諦める気はさらさらないが。
つまり呪詛に構わず脱出しようという事だ。無謀を通り越していっそ笑いを催すような蛮行ではある。 だとしても、他に方法がないのであれば。
彼は無意識にミディから受けとった首飾りを握りしめる。
ほんの少し耐えられればいい、即死を免れさえすれば―――――。
正面側壁から長い手が覗く。
ついに、視界を塞ぐ自動球の眼光が彼を捉え――――――――――る寸前、自動球の腹を強かに蹴り飛ばす黒紺の機影。
『ご無事でありますかっ、主長!』
「マファ隊のデイボンか!最高のタイミングだ!お前さんが野郎じゃなきゃ抱きついてキスしてやりたいとこだぜ!」
機兵、改式歩兵は主を遇するが如く片膝をついて少年を迎え入れた。コクピットにかけ上がるウェルバ。
「――あっちにミディもいる、付近に逃げ遅れた人間がいるようだからそっちも頼む」
『心得ました!』
「状況はどうなってる」
『只今、各機はレボホト数箇所から出現した魔機の掃討にあたる所です』
機兵の高さからなら遠方の爆明がはっきりと確認できる。爆発の正体はこれか。巨大な鉤爪で地表を抉り抜き立ち現れる首のない異影――浮界の辺土に蠢く魔蟹機「アングローカ」。
「セイリオスはもう確保したか?」
『ああ、そちらは先ほど入った通信で心配ないと』
「通信だって?どこの誰からだよ」
『はっ。どうやら我々より先に侵入していた者がいたようで―――』
■
少年を託つ円天井の領域は浮界中枢に存する都市制御ユニット心臓部。
室壁は粘る斑が混じりこみ象牙の白濁から鮮やかな縞瑪瑙に転じている。
円天を等分する線形と横に伸びる黒い平行線の交点から不規則に断続的に吐き出される幾何学紋。決して解ける筈の無かった防衛用詠唱錠は強引な魔の力によっていとも簡単に破壊され順々に改変されていく。
狂穢にゆがめられた神の譜たち。
黒の一滴一滴がゴルディアスの結び目を断つ刃。並みいる律行手とて考えもつかなかったろう、中枢ユニットを利用するに当たって、彼が先ず機関そのものを丸ごと創り変える所からはじめようとは。
空間から引き出された相導式の奔流は引きつりのたくりながら新たな律式を形成し、やがて夥しい律式の束はただの一箇所に凝結し――。
球形の表面を巡る圧縮詠式、終末の門を開く「鍵」が少年の掌の上に収められるのと、少女が静かに少年の境界に踏み入ったのは、ほぼ同時だった。
銀燦の長髪。瞳に湛えた深い瑠璃色―――。
「お前は…」
少年は彼女の姿に何を見たというのか、驚愕はみるまに激しい憤りに豹変し、次いで憤嘆の相を成す。
「GRDNめえぇっ…!また性懲りもなく繰り返すっ…!」
刺すような鋭い眼光に時折垣間見える哀れみ。少女は視線を受け止め、胸に手を当てて少年に語りかける。
「フィーラ、フィーラ・アンフィルエンナです。貴方をとめるよういいつかりました」
言葉も遠く立ち尽くす二人。外界を絶し静止した空野で、無限に引き伸ばされた時間は永遠に等しい。親和する白と黒の視座に交錯する紅と蒼の瞳光。 幾千と絶えぬ永夜、幾億と果てぬ誓いの黎明を経て。
―――今、ここに少年と少女の軌跡は重なり合う。
迷宮めいた回廊を進むほど、ダネルの歩みは速度を増す。
朽ちた大気を伝う脈動が導く。彼女もきっと「其処」へ向かっている筈。
「(なんだ…?)」
側面から響く、金属の蠕動に気を留めるダネル。
彼からみて左手、六層の格子で隔てられた壁の先に広がる闇の奥、交錯する鉄条の更に向こう側より上昇する工蔽ブロックが辛うじて視認できる。
分厚い鋼板を折り重ねた籠の中には尖角を鎧う三匹の竜が不気味に佇立していた。
(なん、なんだこいつらは……)
いずれもGRDNはおろか記録に残るいかなる機兵とも似つかぬ特異な風貌。地表へゆっくりと運ばれていく妖機を成すすべなく見送りながら、少年はいっそう足を速める。
直観が警鐘を打ち鳴らしていた。アレは、敵だ。それも、恐らくはゲフェンノームに匹敵するほど凶悪な―――。
「―――邪魔をするならたとえお前でも、俺は壊すよ。憐れみなく、呵責なく、な--」
ようやく少年が重い口を開いた。
「本当に貴方に、それが出来ましょうか」瑠璃の虹彩が揺らぐ。
少女の言葉に挑発の色はなく、それはただの純粋な問いかけだった。
「…声までそっくりなんだな…喋り方は似ても似つかないが」
少年の目元がふと僅かに緩み、すぐに消え元の険しさを取り戻す。
「連中も馬鹿な真似をするな…お前の姿は俺の怒りをいっそうかきたてるだけだってのに…!」
沈滞に閉じつつある二人の世界。
「――フィーラ!」
それを破るのはいま一人の少年。
「ダネル――」
瞬く円周の光を背に織り重なるそれぞれの影。ダネルの目が捉えるのはフィーラと同じ銀髪の奥に覗く眼差しは背理に燃える紅。見知らぬ少年―――いいや。彼はこの少年を識っている。
「…どこかで聞いたような声だな」嘲りと共に響く「少年」の声が彼の脳を揺さぶりかける。
「そうか、お前かよ…ディキオスの聖霊手、久しぶりとでもいっておこうか」
―――その記憶は炎とともに。
「お前はっ……「D」…!」
収縮する視野、体内を駆け上がる血の昂ぶりと赤熱する神経網。瞬間、爆ぜる幻影がダネルを襲う。
ダネル、フィーラ、そして「D」。
三様に去来する錯視幻像が空間を切り裂いて……瞬く間に途絶え果てた。
急ぎ我に立ち返ったダネルは「D」に詰めよる。
「あいつは、ゲフェンノームはどうした…!」
相手のわななきも意に介さず「D」は詩を詠じる様に語りかける。
「分からないのか?すぐ目の前にいるっていうのに」
轟と巻き起こる粉煙と礫片。壁を突いて現れたのは尖角に節くれだった巨大な指。
――――浮界と地を繋ぐ渦条柱が入り口だった。
水滴が岩に染み入るように少しずつ。極微に分離した霊質は断霊加工され柱の内奧をすら侵して浮界深層に入り込み。中枢ユニットを喰らいつくし同化・融合を果たし……
「再構築に思いの外手間取ったが」
周囲の物質を取り込み復元された鉄の肢体。天井の亀裂に紅い眼窩が開く。
―――――――この一室は既にゲフェンノームの懐にある。
「そんな事まで…出来るっていうのか……!?」
戦慄に慄くダネル。この機兵が化け物などという生易しい存在なものか。そう、これではまるで――――――――。
ゲフェンノームの身震いが瑪瑙の檻を崩し始める。
「悪いが時間切れだ、目当てのものは手に入れた。分かるよな?これで、ここもあと腐れなく消してしまえる」
ますます大きくなる地鳴りとともに「D」を腹中に収めた機体は自らが穿った虚に沈んでいく。
「待てえっ、貴様あぁ!!」追いすがろうとするダネルを懸命に引っ張るフィーラ。
「ここはもう保ちません!早く戻って!」
支壁を軒並み奪いとられあえなく崩落する円天井。
瓦礫の山が出入り口を塞ぐのと、もつれ合う二人が通路に転がり出たのとはほとんど同時だった。
「すまん、助かったフィーラ…」
「いえ…それよりも困ったことになってしまいました」
ほうと溜め息一つつくと、少女はおもむろに説明を始めた。
「先ほど確認したのですけど…彼、「D」は環境維持ユニットの系律に手当たり次第に干渉して目当ての律句を引き抜いて回ったらしく、制御律全体が手の施しようもないほど歪んでしまったようなのです。それは当然、生態保持プログラムにも及んでいて、まもなく都市の根幹が機能不全に陥るのは明白です。…修復しようにも中核部はこうして壊されてしまったわけで…」
自分には理解不能な説明にダネルは少し難しい顔をする。
「成程つまり……………その、どういう事なんだ?」
「ええと、一言でいうならこのお椀、夜明け前には落ちてしまいます」
「それを先にいってくれえぇーーーッ!!?」
空覆う杯の底部を穿つ爆散を巻きつつ、夜天に出でる真黒き凶獣。
「ゲフェンノーム」は自らが飛び立った大地に向き直る。大陸ごと焼き尽くす冥府の火を見舞う為に。
「……!」
「D」は自機に襲いかかる光弾を紙一重でかわす。
「やあぁっと会えたな、新型……」
「ゲフェンノーム」の前に敢然と立ち塞がった射撃主は金に縁取られた重量感溢れる白影。
「その機体、……「ダイヴィヌス」らしいな」
目標たる機体を前にしてウェルバ・イェルは呟く。
「悪いがダネル、ちょっと抜け駆けさせてもらうぜ―――」
闇を切り裂く金白の軌条。熾煌の聖魂機「ダイヴィヌス」が大光槌を展開する。
闇より尚深き漆黒の梁動。
至凶の魔影機「ゲフェンノーム」が翼帯砲門を開放する。対峙する黒と金の光背。
―――倶に天を戴く事かなわぬ存在なれば。
崩落に向かう天都直下、対極なす聖と魔の機神は今ここに殲戦の端を斬っておとす。
■
屋敷に灯りが戻る。
廊下を右往左往する臣下達、絨毯を叩く足音だけがやけに騒々しい。 不意の闇天とともに訪れた邸内の騒憂は今や明らかな混乱へと変わりつつある。
いずれレボホトが沈みつつある事実が知れ渡れば騒乱はいっそう深刻の度を増すに違いない…。
「――非常用の環境設備が何とか動いてくれたようです」
太守邸にようやく帰参したヨラム卿を待っていたのは主の叱責だった。
「明りなどどうでも良い!このような時にどこへ行っておったのだ!」
「は、方々の状況把握に赴いておりました。防衛部隊とGRDN所属の機兵が周辺の防護にあたっているのでとりあえずここは安全かと。大祭りで央都に領民が集中していたのは、幸いでした」
「いずれ、「レボホト」が落ちれば何もかも徒労に帰そう…」
戻ったばかりのヨラム卿に内心の苛立ちをぶつけた彼女は合わせて高慢な気取りも一緒に吐き出してしまったかのように開け放たれたテラスの外を力なく逍遥する。
地平には湧き出でる魔機の爆影。
「…ヤアジアの謀に私が気づいてさえいれば!領内の不穏な空気は感じておりましたが、よもやこれほどの惨事になるとは…」
足早に駆け寄る従者の一人がヨラムに耳打ちする。
「準備が整いました。港に避難艇を用意してあります、後は我々に任せてどうか閣下だけでも先に…」
眉に皺を寄せたヨラム卿の言葉も耳に入らぬ風で太守は悄然と立ち尽くしていた。
「…そうか。わしだけが、何も知らずに…」
息切れしたフィーラが崩れるようにへたり込む。
「すみません……」
無理もない。移動装置の類が停止している以上仕方がないとはいえ、広大な工蔽区画を走りづめで、ただでさえ華奢な少女の肉体は悲鳴をあげていた。
「あっ、きゃ!何をっ!?」
うすくまる彼女を有無をいわせぬ早業で胸元に抱きあげるダネル。
「こっちの方が早いっ、さっきの話が本当なら一秒だって急いだ方がいい」
「けど、」
「遠慮している場合じゃないだろ。この位平気さ、伊達に鍛えてやしないっての!」
二人は地下回廊からセイリオスが設置されているはずの広場を目指した。
「――そこを右に曲がって」
「分かった!」
彼は背負ったフィーラをものともせず速やかに十字路を折れ曲がる。
「にしても、凄いな。こっからでもセイリオスの位置が分かるなんて」
「わたしと「あの娘」は繋がっていますから」
少女の顔をよぎる僅かな逡巡。
「……バニ太守のいうとおり、私はセイリオスを繰る為に用意された人形なの」
セイリオス。凡百の機兵はおろか他の聖魂機をすら凌駕する神秘の機体を真の意味で乗りこなせる操者などそれまで誰もいなかった。
――――――そう、彼女が「造られる」までは。
機兵の主たる動力機関・魂核炉心が発揮する聖質の源は上位構造野から齎されるもの。
上位空間とは即ち神域。そこから引き出される力は文字通り神の力に等しい。要するに魂核は神の受信回路であり、その意味では小型の神ともいえる無限機関だ。
分けてもセイリオスの魂核は窮極にまで受神域を高めた限りなく神の器に近しい代物であった。
完成以来、一向に現れないセイリオスの適合者に業を煮やしたGRDNはついに強引な解決手段に訴えでる。人工的に適正者を作り上げるという暴挙に。
神界との接点、「台座」から抽出した霊子構成を基に造形した―――――つまりは魂核の精精過程と全く同じ方法を用いて生産された神の塑像。数え切れない試行の後に生みおとされた、セイリオスの量子的相同体。
聖約によって聖魂機と繋がれた生ける魂核構成因子。造体技術は聖庁にあっては禁忌。まして人為的に聖者を生み出す試みなど許されよう筈がなく、それ故に少女の出自はGRDNによって徹底的に秘匿され彼女の生は常に厳かな監視の下にあった。
聖霊から肉の身に墜とされし囚われの天使ソフィアの末裔――――――。
それが純結の神巫女、フィーラ・アンフィルエンナだった。
彼女の告白を聞いたダネルは走る足をとめずに考え込み、やおら口を開く。
「―――んん……まだ、よくは飲み込めてないけど…けどさ」
「はい……?」
「自分を人形だなんていわないでくれ。フィーラは、フィーラ、それでいいじゃないか」
「……ありがとう。そういってくれる貴方だから、私も打ち明けたんです」
フィーラには彼の怒ったような顔が妙に可笑しく、思わず相好を崩していた。
「――太守がいっていたよな。君が刻がみえるとかって…それって俺が、俺達が前に観たのと同じようなものなのか?」
魔獣の幻体と接触した折にダネルが触れた「D」の記憶。
「そう、そうだと思います」
彼は先刻あの場に飛び込んだときもまた、空間に重なる光景を幻視した。どことなくフィーラに似た白髪の女性とともにいる「D」の姿。あれもまた「D」の過去なのか、それとも……。その時、ダネルの胸に去来するのは少女が放ったいつかの言葉だった。
(「あなたは彼を赦せますか…?」)
不意に口をついて出たのは推測ではなく確信。
「フィーラ、君にはこれから起こる事もみえるんだな――?」
答えずとも、彼を捉える淡く深い蒼瞳が全てを物語っていた。
―――上位構造は此界の全事物を内包する領域。全知にして全能、普遍にして恒久。神の力とはいわば物質に先立つ先見的な情報、記述の束だ。そして過去未来の別なく全てを含む神いますその地平は時間の概念を超越した場。
であるなら。
神空と通じる魂核と情報を共融する彼女が、未来の事象を予め感受したとしてもなんら不思議はない。
「……あいつとの戦いの結末、いったいどうなるんだ?」
少女は―――
―――ゲフェンノームの少年。
彼女をかき抱く彼の嘆き。
暁に広がる空。
たどたどしく触れる指先。途切れがちな少女自身の囁き。紅く濡れたその瞳。
生まれおちた瞬間から識っていた懐かしいその顔。
少女の過去より過去。未来より未来。道を一つに繋げる「死」―――
―――目を閉じてかぶりをふる。
「私には自分の意志である未来を予見することは出来ないし、観えたとしてもそれは時の断片、ある瞬間だけなの。そこに至る道筋も、そしてそれがどういう意味を持つのかも分からない…」
人間という器にはあまりにも膨大な情報の波を意味なすものとして構成する事など不可能に等しく、結果として感得された光景は彼女にとって朧気で不鮮明なイメージの流動でしかなかった。
「未来がみえるってさ、苦しいのか…?」
待ち受けるのが昏い明日なら絶対予見など絶えざる責め苦に等しいのではないか。ダネルは過酷な運命を負った少女に、しらず心中に在る一点の曇りを投影していた。
ゲフェンノームを滅ぼす――――それが使命だ。迷いはない。なんとしてもし果せる。だが、忌むべき半身を打ち滅ぼして後、自分には何が残っているのか……。
思い描くその先はひどく空虚で寒々しい。
「……そんなことは、ありませんよ。みえた未来は変えられないけれど、それをどう受けとめるかは私次第ですから」少年の翳りを照らすように、少女は淡々と言葉を紡ぐ。
「…多分、運命なんて、誰だって背負っているものなんでしょう。ただそれに 気づくか気づかないかの違いだけ。そして運命を知ってしまったからといって、今ここにある自分以外結局人にはどうする事も出来ません。だから、思うんです。精一杯に悔いなく生き抜けば、辿り着く「その刻」がどんなものであってもきっと私は喜んでそれを受け容れられる。私はそう、信じていたいんです―――」
彷徨を続け。流離を続け。それでも歩みとめることはなく。
いつか同じ道に繋がる終局の空に至るまで、人は誰も今を刻む足どりで届かぬ明日へと想いを懸ける――――彼女の語るそれは、祈りにも似た人の営み。
「…ああ、そうだよな。そうだと、いいな」
そう、曖昧に応える顔を凝視っとみつめるフィーラ。彼女には、ダネルにいえなかったことがもう一つあった。
あの瞬間――。「D」とダネル、二人が遭遇した瞬間に垣間みた光芒。
実際には彼女が目撃することのないであろう
「彼等」の道程が行きつく先――。
一切が白無に包まれた真空の宇宙。
光塵かき分けて進む一条の星辰、翔ける箱舟が旋律を宙空に奏でる。
そして。
其はΩ―――終りを招く者。
虚空にたゆたう三十六の大翼をしたがえ黒き神獣が天上に緋を描き。
其はα―――始まりを切り拓く者。
虚空にゆらめく蒼翼を背負い銀灰纏う騎神が箱舟の船首に立つ。
彼等の行く先、彼方には轟然と聳えたつ空間を貫く御柱。
超越の楔―――「神の台座」。
やがて滅びと新生とが相和する調律の中、奏光たなびく白界に聞き覚えのある声が響く。
「―――――さあ、ダネル。神に愛を教えてやろう」
フィーラ・アンフィルエンナははっきりと悟る。自分はきっとこの少年と「D」を結ぶ為に生まれてきたのだと。彼女は、少年の頬に静かに手を添え――。
聖と魔。
光と闇。
希望と絶望。
神と人…。
全てが決する遥けき刻の彼方。その場所に到るまで―――――――。
「――負けないでね、ダネル」
「ああ、これくらい、大丈夫さ!」
少年は内心の懊悩を隠すよう強く頷く。言葉に込められた少女の悲想など知る由もなく。
「さあ、ここを上がれば…!」
ダネルは非常用の炸薬式開錠で鉄扉を開く。
セイリオスの掲げられた小塔の真下にあたる開けた円形空間には機能停止した昇降機が地べたに横たわっていた。上へ上がる手段は万一の場合のために側壁にとり付けられたく螺旋階段のみ。
長く段々と坑内を経巡る石段をみあげる二人。
「…大丈夫?」
「……大丈夫。多分…」
ダネルはひくつく笑みでそれだけ、やっと呟いた。