present
翌朝、ミレナは起きてふらつきながらリビングに向かうと玄嗣の香りが既にそこにあった。
昨日着衣遊泳したはずなのに感覚が思っていたより鈍っていない。きっとその後直ぐに玄嗣が本を読んで眠らせてくれたからだ。
一人の時は、眠っているのか起きているのかすら分からなくなる。夢の中なのか現実なのか。まだ水の中にいるような感覚のまま白い視界を漂っていて、結局不安で休まらない。
玄嗣の香りのする方へ足に力を込めて1歩ずつ踏み出すと、すぐに香りの方から近づいてくる。
歩幅の広い足音と服の擦れる音。
自分よりも高い位置から降ってくる落ち着いた息遣い。
玄嗣はミレナの知る他の人よりもずっと静かだ。何故かは分からない。
不意に腕が触れられ、ぐっと力強く支えられる。
すると、急に、このまま前に進んでも転ばないという安心感に包まれる。
一人の時はいつだって転んでも痛くても平気だったのに。今はこの支えがあってよかったと思う。
前に僕が着衣遊泳の後は感覚が鈍ると言ったから凄く気にしてくれている。今回はそこまで感覚が鈍っていないけれど、玄嗣がそうしてくれるのが嬉しくて、ミレナは何も言わずに玄嗣の腕に寄りかかった。
ソファにゆっくり座らされると目の前から野菜とパンケーキの香りがすっと入ってくる。
「おいしそう」
玄嗣の微かな息遣いの方を見上げて微笑む。
玄嗣は何も言わない。ただ振動で玄嗣が隣に座ったのが分かる。そして暖かい手がミレナの右手に冷たい金属を握らせた。
「フォーク」
少し重たい。先に食べ物が刺してある。
ミレナはフォークを口に運ぶと柔らかく甘いパンケーキの味だった。
「おいしい」
玄嗣は1口サイズに切ったパンケーキの乗ったお皿をミレナに手渡すと、コーヒーを淹れにキッチンへ向かった。
朝食が食べ終わり、ミレナがそのままソファに座っていると不意に玄嗣が近づいて、黙ってミレナに何かを手渡した。
これは…分厚い本。
指で触ると驚くことに点字でタイトルが書かれていた。
「本?…D…E…MONI…C」
「点字の読み方は知ってるんだな」
「弥生に習った」
「そうか」
分厚い表紙を開くと薄い紙のページにも点字が刻まれていた。ミレナは確かめるように指でそれを何度もなぞる。
「読めそうか?」
玄嗣がコーヒーを啜りながら尋ねた。
「読めるよ。ありがとう。でも玄嗣の声が好きだから読んで欲しいけど」
「俺が居る時はな」
ミレナは気づかなかったが、本には玄嗣も読めるように点字の下にきちんと文字が書かれていた。書店から買った本を修理屋に持っていき、オーダーしたのだ。色んな店を廻り、何度も断られ、やっと見つけた店で点字が分かる専門家に頼んだ。
弥生から誕生日のことを聴く前から玄嗣が用意していた物だった。普通に渡そうと思っていたが、タイミングがいいのでこれをプレゼントということにしよう。誕生日と聞いて、玄嗣にはもうそれぐらいしか思いつかなかった。
「居なくなるの?」
ミレナのページをなぞる指が止まる
「いや、留守にしてる時って意味だよ。」
玄嗣はミレナの不安を察して弁解した。
1度出ていく話をしてから、ミレナは度々玄嗣が家を出ることを不安がる。
「どんな話なの」
「…親が悪魔と取引して天才に生まれた子どもが代償としての短命の運命を克服する話」
「ほぼネタバレじゃん」
ミレナはくすっと笑った。




