優しさ
優しさだと…?自分が傷つきたくないだなんてこんな醜い思考が、優しさな訳がない。
知ったようなことを言う。
俺やミレナの想いなど知らないくせに。
玄嗣は内心弥生の言葉にイラつきながらも、それを悟られまいとコーヒーを口にした。芳ばしい香りと苦味が口内に広がる。
ミレナの想い?…そんなもの。
俺だって知らない。知りたくない。
何も知りたくない。知ってしまったら後には戻れない。しかし、脳裏にはそんな想いとは相反するように考えが次々に浮かんでくる。
俺に拒否されてどう思った?そもそもミレナは俺に何を求めてる?どうすることが正しい?
考えてはいけない。考える必要もない。
なのに何故、こんなにも頭から離れないのか。
「とにかく、ミレナと一度話し合え。話はそれからだ。」
弥生は叱るようにそう言うと、不貞腐れた玄嗣の顔を見て今度は笑って「精々がんばれよ」と言った。
玄嗣は店の外で1人になると、煙草を1本取り出した。空気が澄み渡り、冷たい風が吹き荒ぶ。街灯の明かりが歩道を照らし、人々は厚着をして足早に行き交う。腕時計を見ると18時を回っていた。
もうこんな時間か。
煙草に火をつけて息をゆっくりと吸い、吐き出す。その煙が暗い空に吸い込まれていく。途端、戦場で過ごした夜が脳裏に過ぎった。
火薬の香り、煙の中で人々が血を流し倒れ、どこかで銃声が聞こえ、叫び声のした次の瞬間静まり返る。息を飲み、兵を狙って銃を構える。引き金を引く手元の振動。敵の胸を銃弾が貫く鈍い音。
これまで幾度も脳裏に繰り返し流してきた映像だ。
俺は人殺しで、この手は血に染まっている。
だから不幸でいたい。
不幸でいることが唯一の罰だ。人として人と関わることなど許されてはいけない。
安心や幸せなど求めてはいけないし、心が動かされることとは距離を取らなければならない。
だが、ミレナが触れてくる時、その確かな体温を感じた時、俺は無心でいられない。
玄嗣も人通りに倣い、足早に歩道を歩き出した。
部屋の明かりを付けると髪が濡れたままのミレナがソファに横になっていた。その薄いTシャツは髪についた水で濡れている。すぐ傍にタオルが落ちていて、床には水がぽたぽたと垂れた跡が風呂場まで続いていた。
「…ただいま」
玄嗣はミレナに声をかけ、コートを脱いでリビングの隅にあるハンガーラックに掛ける。
しかしミレナの返事はなく、その背中が動く様子もない。
眠っているのか…?
「ミレナ」
玄嗣はソファに近づき、ミレナをのぞき込む。
目を瞑っているだろうという玄嗣の予想に反し、ミレナは蜂蜜色の瞳を長い前髪から覗かせていた。
玄嗣はそれに少し驚いて身を引く。
「…起きてるなら何とか言え」
ミレナはふふっと笑うと起き上がり、「おかえり」と小さく言った。
玄嗣は落ちているタオルを拾い、洗濯機に投げこむ。
そして自室から自分のカーディガンを取ると、ソファに座るミレナの冷たい肩にかけた。
「いつ出て行くの」
ミレナのことばに玄嗣は一瞬固まる。ミレナの口からそれを耳にすると思わなかった。玄嗣が出て行くことを考えていることに気づいていたのも驚いた。
「お前はどうなんだよ」
「どうって?」
「俺が出て行った方が気持ちが楽なんじゃないのか」
気持ちが楽って何だよ。玄嗣は自分自身の言葉に呆れる。
「そんなこと思わないよ」
ミレナの即答に、玄嗣はまたため息をついた。
そして傍らのソファに座るミレナの旋毛を立ったまま眺める。明かりを付けたにも関わらず、この部屋はどこか薄暗い。
「…俺は軍にいた人間だ」
「知ってるよ」
「恨んでるだろ」
「もう許した」
許す?嘘だ。
「許す必要ない」
玄嗣はミレナに背を向けて自室に戻ろうとドアノブに手をかけたまま言った。
「…じゃあ、…じゃあ何。玄嗣を恨めっていうの?」
ミレナの声色がきつくなり、語尾が震える。玄嗣は冷たい金属のドアノブを握りしめた。
「…」
「玄嗣を恨んだところで何か変わるの?」
「…」
「もう僕には何も残ってない。誰かを恨んだって取り返すこともできない。だったらいま目の前にあるものを求める。いま手元にあるものをもう失くさないように。そのために生きる。僕はそうすることにしたの」
ミレナが一人称を「僕」と呼ぶのを久々に聞いた。
「だから玄嗣が、いなくなるのは悲しい。」
ミレナの声が怯えた子どものように急に小さくなる。
玄嗣はドアノブにかけていた手を緩めた。すると反動で少し扉が開く。
「玄嗣は優しいから」
言葉にすることに素直なミレナに感心する。
きっと根が真っ直ぐなのだろう。誤魔化すように見せるあの悪戯気な微笑みは、きっと生きる為に後から身につけた何かを守るための手段なんだろう。
玄嗣は黙って開いたドアに身体を滑り込ませ、中に入ると後ろ手にしっかりと自室のドアを閉めた。




