第1話 彼女はお金が無い
【長瀬 佑太】:
一ノ瀬さん
お疲れ様です。
頼まれていた共通部品の修正が完了したので、使ってみて。
なお、GitにはCOMMIT済です。
【一ノ瀬 葵】:
長瀬くん
早々に対応ありがとう。助かります。
さっそく取り込んでみます。
【長瀬 佑太】:
一ノ瀬さん
ところで、折り入って相談というか、お願いがあるんだけど?
【一ノ瀬 葵】:
なになに? 改まって?
【長瀬 佑太】:
今度の週末って、空いてる?
よかったら、一緒にご飯でもどうかな?
【一ノ瀬 葵】:
……
【長瀬 佑太】:
ごめんね。急に。
あ。もちろん、俺がごちそうさせてもらうよ。
【一ノ瀬 葵】:
……
【長瀬 佑太】:
……
【一ノ瀬 葵】:
ごめんね。外食はちょっと。
ごちそうしてもらうのは悪いので。
【長瀬 佑太】:
あ。差し支えなければ、割り勘ということで。
【一ノ瀬 葵】:
ごめんなさい。今、お金なくて……。
せっかく誘ってもらったのに、ごめんね。
【長瀬 佑太】:
……
【一ノ瀬 葵】:
……
◇
振られた……。
俺は、胸の中で激しく打っていた心臓の高鳴りが、一気に急降下していくのを感じていた。
視線を目の前のディスプレイから、斜め向かいの席に座る一ノ瀬葵へと移す。
だが、彼女の前に置かれたモニターが邪魔をして、その表情はうかがえない。かといって、画面を覗き込む勇気もなかった。
Teamsのチャットで食事に誘って、見事に撃沈。
……俺、あまりにダサすぎないか。
猛烈な自己嫌悪が押し寄せてくる。
正直、勝算はあると思っていた。
一ノ瀬葵。彼女とは入社二年目の同期だ。
同じチームで半年近く一緒に仕事をしており、日頃から他愛もない雑談を交わすくらいの仲ではあった。
俺が言うのもなんだが、彼女の見た目は非常に地味だ。
黒髪を後ろで一つに束ね、オフィスではいつも地味なスーツ姿。目立たず、大人しく、仕事にはとにかく真面目に取り組む。
昼休みになれば、毎日のように手作りのお弁当を自席で黙々と食べているような女の子だ。
だが――黒縁眼鏡の奥に見える、あの愛らしい瞳。
ときおり見せる、太陽のような柔らかい笑顔。
気づけば俺は、彼女に強く惹かれていた。
なんとか仲良くなるきっかけを作りたくて、三日三晩悩み抜いた末に思いついたのが、今回のチャットでのアプローチだったわけだが……。
(しかし、このまま手ぶらで引き下がるわけにはいかない……!)
何か、何か手はないだろうか。
必死に頭のCPUをフル回転させる。
……そうだ。
先日、彼女が「最近はウォーキングが趣味なの」と話していたのを思い出した。
よし。これにかけるしかない。
もう一押しだけ。ダメ元でもう一押しだけ、してみよう。
祈るような気持ちで、俺は再びキーボードに指を置いた。
【長瀬 佑太】:
じゃあ、一緒に公園を散策しない?
名城公園とか。散策にはちょうどいい季節だし。
【一ノ瀬 葵】:
……
(いかん。緊張で口から心臓が飛び出しそうだ)
【一ノ瀬 葵】:
……
(だめだ……やっぱり、完全に撃沈か……!)
俺はたまらず、両目をぎゅっと閉じた。
そのとき――。
ピコン。
静かなオフィスに、新着メッセージを知らせる電子音が響いた。
【一ノ瀬 葵】:
それなら、いいです。
◇
「……やった!」
喉の奥で声を殺しながら、俺は小さくガッツポーズを決めた。
すると、斜め向かいのモニターの脇から、ひょっこりと一ノ瀬さんが顔を覗かせた。
眼鏡の奥の目を少し細め、どこか申し訳なさそうに、けれど照れくさそうに微笑んでいる。
「よろしくね、長瀬くん」
小さな声でそう囁く彼女は、胸が苦しくなるほどかわいかった。
◇
日曜日の午前十時。
名城公園駅の改札を出たところで、俺はそわそわしながら彼女を待っていた。
「お待たせ」
背後からかけられた声に、慌てて振り返る。
「っ……」
思わず息をのんだ。
黒髪をゆるく下ろし、上品で柔らかな雰囲気のワンピースを着ている。コンタクトレンズに変えたのだろう、いつもの黒縁眼鏡も外していた。
会社での実務的なスーツ姿とはまるで違う。休日の彼女は、驚くほど華やかだった。
「一ノ瀬さん、その……すごく、かわいい」
照れくささよりも先に、本音が口から零れ落ちた。
彼女は少しだけ頬を染め、ふふ、と微笑んだ。
「ありがとう。……似合ってる?」
「すごく似合ってる!」
「ふふ、よかった。今日は誘ってくれてありがとうね、長瀬くん」
「あ、ううん! じゃあ、行こうか」
俺たちは並んで、春の風が吹く公園へと歩きだした。
休日の名城公園は、家族連れやカップル、ウォーキングを楽しむ人々でにぎわっていた。
桜は散ってしまったが、木々は若葉に彩られ、芝生には春の日差しが降り注いでいた。吹き抜ける風が心地よく、遠くには名古屋城の天守閣が見える。
「一ノ瀬さんは、休日はいつも何をしてるの?」
「天気のいい日は自転車に乗って、あちこちの公園へ散策に出かけてるかな」
「へえ、アクティブだね。健康的だな」
「長瀬くんは?」
「うーん……だいたい家でごろごろ、動画を見たりゲームをしたり?」
「不健康ね?」
「返す言葉もありません……」
そんな他愛もない会話を交わしながら、一時間ほど公園を歩き回った。
さすがに喉が渇いてきたころ、目の前に自動販売機が見えた。
「俺、何か飲み物を買うけど、一ノ瀬さんもどう?」
小銭を投入しながら振り返ると、彼女は首を横に振った。
「ううん、大丈夫。水筒を持ってきているから」
そう言って、リュックからマイボトルを取り出す。
慣れた手つきで蓋を開け、おいしそうに水を飲む彼女。
俺なんて、喉が渇けばペットボトルを買うのが当たり前だ。水筒なんて、長い間使った記憶すらない。
――さすが、一ノ瀬さんは堅実だなあ。
俺は無邪気に感心していた。
さらに公園の奥へと足を延ばし、木々の間を歩いていると、今度は小腹が空いてきた。
「一ノ瀬さん、そろそろお腹空いたね。どこかでご飯食べない?」
事前にリサーチしておいた、おしゃれなカフェの情報が頭をよぎる。
ぜひ雰囲気のいい店で、彼女とランチを楽しみたい。
しかし、返ってきた答えは予想外だった。
「私、お弁当を作ってきたの」
「お、お弁当!?」
「うん。もちろん、長瀬くんの分もあるよ?」
「まじで……!」
驚く俺をよそに、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ちょうど見つけた木陰のベンチに腰掛けると、一ノ瀬さんはリュックからタッパーを二つ取り出した。
蓋を開けると、中には彩りのきれいなサンドイッチが並んでいた。
「わあ、すごい……!」
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
卵サラダにハム、シャキッとしたレタス。柔らかいパンと具材がよく合っている。
まさか初デートで、一ノ瀬さんの手料理にありつけるとは。
「うん、すごく美味しい!」
「ほんと? よかったぁ」
美味しそうに食べる俺を見て、彼女はホッとしたように目を細めた。
「手作りのお弁当まで用意してもらって、なんだか申し訳ないな……」
「ううん、いいの。自分で作ったほうが安上がりだし、材料費なんて五百円くらいだから!」
五百円。
手作り弁当二人分で五百円なら、確かに安い。
「そうそう、食後のコーヒーもあるよ」
彼女は別の水筒を取り出すと、小さなカップに香ばしいコーヒーを注いでくれた。
「食後のコーヒーまで……!」
なんて家庭的で、よくできた子なんだろう。
節約家な一面に驚きつつも、俺の心はすっかり彼女の優しさと可愛らしさに骨抜きにされていた。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかったです」
「ふふ、お粗末様でした」
胃袋を掴まれるとは、まさにこのことだろうか。
美味しい手作りランチに、爽やかな風。そして、目の前で照れくさそうに微笑む可愛い同期。
俺の心は、すでに一つの固い決意を固めていた。
「一ノ瀬さん」
「うん?」
「好きです。俺と、付き合ってください」
タッパーをリュックにしまおうとしていた彼女の手が、ぴたりと止まった。
「……」
「……」
静寂が、俺たちの間に落ちる。
一ノ瀬さんが、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。
心なしか、その表情は少し硬いように見えた。
(あれ……? これ、振られるパターンか……!?)
一気に冷や汗が背中を伝う。
美味しいお弁当に舞い上がって、勢いで告白してしまったが、冷静に考えたらまだ初デートの途中だ。
あまりに時期尚早だっただろうか。
いや、そもそも最初から、俺に脈なんてなかったんじゃ――。
脳内で最悪のシナリオが駆け巡る。
お断りの言葉を覚悟した、そのとき。
一ノ瀬さんは静かに口を開いた。
「……ありがとう。長瀬くんの気持ち、すごく嬉しい」
「っ、本当!? じゃあ――」
「でもね」
彼女は申し訳なさそうに眉をひそめ、首を小さく横に振った。
「私……今、誰かとお付き合いするような『余裕』が無いの」
「え? 余裕……って、仕事が忙しいとか、そういうこと?」
「ううん。時間は全然あるんだけど……」
一瞬、彼女の真っ直ぐな瞳が俺の視線を捕らえた。
そして、人生の重大な告白でもするかのような真剣な面持ちで言い放った。
「――お金がないの」
「………………はい?」
あまりにも予想外の返答に、俺は間抜けな声を漏らして固まった。
お金がない? 彼女が?
一ノ瀬さんは俺と同じIT企業の正社員だ。決して豪遊できるほど高給取りではないが、一人暮らしで何とかやっていけるくらいの給料はもらっているはずだ。
それなのに、誰かと付き合うお金がないとは……一体どういうことなんだろうか?
(まさか、親の借金を肩代わりしているとか……あるいは、悪い奴らに騙されているんじゃ……!)
俺の脳内を、ダークでサスペンスフルな妄想が猛スピードで駆け巡る。
しかし。
「長瀬くん。今、頭の中ですごい昭和な悲劇を想像していない? 違うからね?」
一ノ瀬さんは苦笑しながら首を横に振った。
「でも、お付き合いするとなると、やっぱり色々とお金がかかるでしょう?」
「そんなこと……」
俺は、彼女の言葉を遮った。
「お金がなくたっていいよ。俺は、一ノ瀬さんと一緒にいられるだけで十分なんだから」
思わず、彼女の手を両手でぎゅっと握りしめていた。
突然の手繋ぎに驚いたのか、一ノ瀬さんはぽかんと俺を見つめた。
沈黙。
風の音だけが聞こえる中、心臓の音が高鳴る。数秒の時間が、数時間にも感じられた。
やがて、一ノ瀬さんがふっと柔らかく微笑んだ。
「……わかりました。じゃあ」
恥ずかしそうにはにかんで、彼女は続けた。
「よろしくお願いします」
その頬は、ほんのり赤く染まっていた。
その瞬間、俺の脳内に広がっていた暗雲は一気に消え去り、眩しいばかりの青春の晴天が広がった。
「本当……! ありがとう、一ノ瀬さん!」
「うん。……あ、でも、私、本当に本当にお金ないからね?」
「はは、うん、わかった!」
勢いよく頷く俺を見て、彼女は少しだけ頬を朱に染めた。
その愛らしい表情を見つめながら、俺は胸を張って強く誓ったのだった。
(お金なんかなくたっていい! 愛さえあれば、なんとかなるさ!)
◇
――だが。
このときの俺は、まだ知らなかった。
一ノ瀬葵という女の子が、どれほどお金に厳しい人間なのかを。
そして、彼女の言う「お金がない」が、俺の想像をはるかに超えた、とんでもない意味を持っていたことを。
まさか、これから始まる彼女との交際が、俺の金銭感覚まで根底から揺さぶることになるなんて。
このときの俺は、知る由もなかったのだ。




