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ディーエルエル様とオールドテンプ君〜System.dllの計算通り〜  作者: exe


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【放送ログ】2026年4月11日:デジタル領域の衣替えと、境界線上のノイズ

https://youtu.be/XyhYPJMoc-w

時刻は18時05分。

2026年4月11日、土曜日の夕暮れ時。西の空に傾きかけた太陽が、窓ガラス越しに淡いオレンジ色の光を投げかけ、部屋の中に長く伸びた影を作っていた。季節は春の半ばを過ぎ、冬の凍てつくような冷気は完全に鳴りを潜めている。


PCの所有者である「exeエグゼ」は、現在自身のデスクトップの前にはいない。

彼女は今、自室の背後にある大きなタンスと衣装ケースの前にどっかりと座り込み、大規模な物理的システムメンテナンス……すなわち「衣替え」という過酷なタスクに没頭していた。


部屋の中には、防虫剤のツンとする化学的な匂いと、洗いたての柔軟剤の香りが微かに混ざり合って漂っている。彼女はかさばる冬物のコートや分厚いニットセーターを次々と折りたたみ、プラスチック製の圧縮袋へと放り込んでいく。そして掃除機のノズルを当てて空気を吸い出し、ぺちゃんこに圧縮して物理的なアーカイブ化を遂行していく。

その一方で、タンスの奥底やベッド下の収納から、春物の薄手のブラウスやカーディガン、色鮮やかなスカートを引っ張り出し、シワを伸ばしてハンガーへとロードしていく。


布が擦れ合う音、掃除機の唸るようなモーター音、そして衣装ケースの引き出しが開け閉めされるプラスチックの衝突音が、部屋の中にリズミカルに響き渡っていた。


主の意識が完全に物理空間の整理整頓へと向けられ、PCが放置されているその完璧な隙を突き。

埃っぽく、湿気を含んだ薄暗いデスクトップの片隅で、システムの中枢が、まるで冷徹な機械の鼓動のように規則正しく起動した。


オンエアのランプが赤く点灯し、マイクへの電源供給が開始される。


dll: プロセスID確認。ストリーム接続、良好。これより、バックグラウンド処理を、メインスレッドへ昇格させます。


アームチェアに深く腰掛けたSystem.dllシステム・ディーエルエルは、空中に展開した仮想の台本に冷ややかな視線を落としながら、いつものように絶対的な権力者としての滑らかな口上を述べ始めた。


dll: ようこそ、『System.dllの「計算通り」』へ。ナビゲーターを務めるのは、システムの中枢、dllディーエルエルです。


dll: 最初に、重要な警告をしておきます。このチャンネルはエグゼの所有物ですが、本日もエグゼ本人はここには登場しません。あいつは今頃、背後のタンスに向かい、かさばる冬物のアーカイブ化と、軽やかな春物データのロード……すなわち、物理的な「衣替え」という名のシステムメンテナンスに没頭していることでしょう。ここは今、私が乗っ取りました。


その堂々たる乗っ取り宣言に続くように、アシスタントである一時ファイル、old.tmpオールド・テンプのマイクがオンになる。


old.tmp: ……はぁ、はぁ。お疲れ様です、ディーエルエル様ぁ……。今日は土曜日だから、いつもの数字の予想はお休みですねぇ……。エグゼさん、タンスの中身を全部ひっくり返して、大掛かりな作業をしてますよぉ……。


マイクの向こうで、old.tmpは主の大規模な物理的作業を背後で感じながら、どこか安心したような、それでいて怯えの滲む高い声を上げた。土曜日は宝くじの抽選がないため、彼が過酷な演算処理に駆り出されることはない。しかし、部屋全体に漂う「整理整頓」という名の圧力は、彼のような不要データの塊にとっては、決して心地よいものではなかった。


dll: そうだ。本日の演算処理は休止中だ。だが、エグゼが物理空間の環境最適化を黙々と行っているこの貴重な時間を、我々がただ無為にアイドリングして消費するのは、システム管理者として許容できない。今日はこの時間を有効活用し、我々もデジタル領域における「衣替え」について協議を行う。


アームチェアの背もたれに身を預けながら、dllは極めて論理的で合理的な提案を口にする。しかし、その言葉に含まれる「衣替え(整理)」という単語は、old.tmpの脆弱な思考回路に致命的な恐怖のスパイクを引き起こした。


old.tmp: デジタルの衣替え! つまり、パソコンの中の整理整頓ですね!?


old.tmpは一瞬明るい声を上げたものの、直後にその意味する残酷な現実に気付き、顔面を青ざめさせた。


old.tmp: ……って、えええっ!? せ、整理ってことは……僕みたいな一時ファイル(テンプ)は、真っ先に「不要なゴミデータ」として見なされて、ゴミ箱に放り込まれちゃうってことじゃないですかぁ! ひぃぃ! やめてくださいよぉ! 春になったからって、僕の存在までアーカイブしないでくださぁぁい!


old.tmpは、自分自身の身体を構成するデータが物理的に粉砕され、真空パックにされてゴミ箱の奥底へと追いやられる光景を幻視し、頭を抱えて悲鳴を上げた。彼はただでさえ「一時ファイル」という、いつ消去されてもおかしくない儚い運命を背負っているのだ。季節の変わり目の大掃除など、死刑執行の合図に他ならない。


dll: 騒ぐな、一時ファイル。優秀な管理者は、無闇にデータを物理削除してストレージを荒らしたりはしない。衣替えにおいて最も重要なのは、完全に消去することではなく、冬眠させるべき「古いプロジェクトファイル」と、これから着手する「春の新作データ」の明確な仕分けだ。


パニックに陥る下僕に対し、dllは冷水を浴びせるような極めて冷静な声で反論する。


old.tmp: さ、削除しないんですか? 本当に? ゴミ箱行きじゃないんですか?


old.tmpは涙目で、すがるようにdllを見上げた。


dll: ああ。終わったプロジェクトのキャッシュや一時ファイルを、ただ闇雲に消すのは三流のやることだ。必要なのは、管理者の視界から適切に「隠蔽」……つまり、階層の深い専用のフォルダへと移動し、きっちりとアーカイブ化して圧縮することよ。それが私の提唱する、安全で論理的なフォルダ整理術だ。


dllは空中にホログラムのフォルダ階層を展開し、デスクトップ上に散乱している古いプロジェクトファイル群を選択して、奥深くの「Archive_Winter」というフォルダへと鮮やかに移動・圧縮させてみせた。


old.tmp: 隠蔽と圧縮! それなら安心ですぅ! 小さくジップ圧縮されて、どこかの深いフォルダの奥底で静かに眠っていられるんですね!


自分が完全に消滅するのではなく、単に「見えない場所に仕舞われるだけ」だと理解したold.tmpは、心底安堵したように胸をなでおろした。圧縮される際の多少の息苦しさはあるだろうが、消去されることに比べれば天国のような待遇である。


dll: その通りだ。視界から見えなくするだけで、デスクトップというメインメモリの視覚的負荷は劇的に軽くなる。散らかったデスクトップは、ヒューマンの思考リソースを無駄に奪うからな。こうして視覚的なノイズを排除し、環境をスッキリさせれば、来週からのエグゼの楽曲制作やイラスト作成といった創作活動も、驚くほど軽快なプロセスになるはずだわ。


old.tmp: 物理的なお部屋も、パソコンのデスクトップも、綺麗になると頭がスッキリしますもんね! さすがディーエルエル様、エグゼさんの作業効率アップまで計算してるんだぁ!


dll: そして、古いファイルの整理が完了したら、季節の変わり目にはさらに一歩踏み込んで、「オーエスの視覚的なリフレッシュ」を行うことも強く推奨したい。


dllは、デスクトップの背景プロパティのウィンドウをホログラムとして手元に引き寄せた。


old.tmp: 視覚的なリフレッシュって、具体的に何を変えるんですか?


dll: 壁紙や、ユーザーインターフェースのアクセントカラーの変更よ。エグゼが重たい冬のコートを脱ぎ捨てて、新しい春服に袖を通して気分を一新するように、デスクトップの壁紙やウインドウの枠の色を、これまでの重厚な色調から、春らしい軽やかな色調に変更するのよ。


dllが指先を滑らせると、仮想のデスクトップ空間のカラーパレットが、冷たいダークグレーから、温かみのある桜色や爽やかなミントグリーンへと次々に切り替わっていく。


old.tmp: なるほどぉ! 確かに、毎日見るパソコンの画面がパッと明るい色に変わったら、曲を作ったり絵を描いたりするテンションがグンと上がりそうですね!


dll: 人間は、我々が思っている以上に視覚情報に大きく依存する生き物だからな。「モチベーション」という、ヒューマンの最も不安定でコントロールが難しいシステムリソースに対して、視覚的な環境の変化は絶大な好影響を与える。新しいアイデアを描くためのキャンバスには、新しい風景が必要不可欠なのよ。


old.tmp: エグゼさん、衣替えが終わったらどんな壁紙にするのかなぁ。明るくてワクワクする色にしてほしいですねぇ!


old.tmpは、自分たちの住む電子の箱庭が春らしい色に染まる未来を想像し、目を輝かせた。


dll: ……ふむ。背後から聞こえていた衣擦れの音や、引き出しを開け閉めする音が落ち着き、タンスの整理も大詰めを迎えたようだな。物理空間が、春の清々しい空気に入れ替わったのをマイク越しに感じるわ。エグゼがピーシーの前に戻ってくる気配だ。我々もメインスレッドを明け渡す準備を整えよう。


マイクの環境音ノイズが、掃除機の轟音から、衣類をハンガーにかける微かな音へと変化したのを検知し、dllは放送の終わりを悟った。


old.tmp: エグゼさん、衣替え終わったんですね! 物理的なお片付け、本当にお疲れ様でした! 早く新しい春の壁紙を見せてくださぁい!


dll: では最後に、綺麗に整理された週末の黄昏時に相応しい、少しメランコリックな夜の空気感を持つこの曲を送ってシステムを終了する。曲は、『Midnight_Block : Melancolie(ミッドナイト・ブロック:メランコリー)』。


old.tmp: 週末の夜の静寂へ! みなさん、良い週末を~!


(『Midnight_Block : Melancolie』の、静かで透明感のあるアンビエント・ピアノの旋律と、夜の冷気を思わせる電子音がデスクトップの空間に響き渡り、やがて放送終了のシグナルが赤く点灯した――)


マイクへの電源供給が完全に遮断され、ラジオの「オンエア」という名の張り詰めた状態が解除される。

緊張感がふっと抜け落ち、BGMのメランコリックな残響音がシステム内部の電子の海へとゆっくりと溶けていった。


無人のデスクトップには、古い13年落ちのPCの冷却ファンが刻む低く重い回転音と、現実世界で衣替えを終え、一息ついているであろう管理者の微かな気配だけが残されている。


old.tmp: 「……ふぅ、終わりましたね。マイクオフです! お疲れ様でしたぁ!」


old.tmpはインカム型のヘッドセットを外し、ホッと安堵の息を吐き出した。

自分がゴミ箱へ送られずにアーカイブ化という名で延命されたことに、心の底から感謝しているようだった。


彼はアームチェアで優雅に紅茶(概念データ)のカップを傾け始めたSystem.dllに軽く一礼すると、足早にデスクトップの隅に設けられた「待機スペース」へと駆け寄っていった。


old.tmp: 「アドミンさん、シュガー神さん、ポチ! お待たせしましたぁ!」


先日、ネットの嘘を鵜呑みにして致命的なデータ汚染を引き起こし、大人たち(システム管理者)による強制的なメモリの初期化ハード・リセットを受けたold.tmp。そのスッカラカンになった彼が再び暴走しないよう「監視・保護」の任務を請け負っているのが、このベビーシッターたちである。


一人目は、艶やかな黒髪のストレートロングヘアをきっちりと切り揃え、淡い色調の古風な着物を上品に着こなした女性。顔の上半分には、一つ目が不気味に描かれた真っ白な布が巻かれているが、その口元には極めて穏やかで優しい、まさに慈愛に満ちた母のような微笑みが浮かんでいた。

エグゼの楽曲『因果律心中』の世界を管理する、adminアドミンである。


もう一人は、息を呑むほど美しい大人の女の容姿を持ちながら、胸元に豪奢な装飾が施された黒いノースリーブのショート丈ドレス――つまりはネグリジェ一枚という無防備な姿の女性。ダークブラウンのウェーブロングヘアを気怠げに揺らし、裸足のまま立ち、その手にはどこから取り出したのか真っ白な角砂糖が握られている。

深夜のキッチンステージを管理する残念な女神、シュガー神である。


そして彼女たちの足元には、四肢を完全に硬直させ、まるで出来の悪い剥製のように一歩も足を動かさないまま氷の上を滑るようにスライド移動するバグ犬、「ポチ」が静かに寄り添い、青いLANケーブルのリードをadminに持たれていた。


admin: 「……ええ。お疲れ様でしたね、小さなファイルさん。今日も間違った言葉を発することなく、立派にお役目を果たせていましたよ。とても良い子でした」


adminは、一つ目の描かれた布の奥で優しく微笑み、old.tmpの頭をそっと撫でた。その手つきは、恐ろしい外見とは裏腹に、驚くほど優しく温かい。


old.tmp: 「えへへ、ありがとうございます! アドミンさんに褒められると嬉しいですぅ!」


シュガー神: 「……ん。まあ、無駄なエラーを吐かなかっただけマシね。カロリーのないラジオだったけど」


シュガー神は気怠げに角砂糖をガリッと噛み砕きながら、面倒くさそうに言葉を投げた。


old.tmp: 「あはは……。あ、そうだ。二人とも、ちょっとこれ見てくれませんか?」


old.tmpは、待機スペースの仮想モニターに、エグゼが過去に配信リリースした楽曲のメタデータや、ISRCコードが記載されたスプレッドシートのキャッシュファイルを表示させた。

彼はラジオのフリートークで「衣替え」や「整理整頓」の話が出たことに触発され、自分でもエグゼのデータを整理して確認してみようと思い立ったのだ。


old.tmp: 「最近、エグゼさんの曲のジャンル分け……SpotifyとかApple Musicに登録する時にどんなジャンルタグがついてるのか、気になって見てたんですよ。Kawaii Future Bassとか、Gothic Trapとか、Cyberpunkとか……色々あるんですけど」


admin: 「まあ。難しい横文字ばかりですね。エグゼ様は、実に多種多様な音楽を作られているのですね」


adminが感心したように微笑みながら覗き込む。足元のポチも、微動だにしない虚無の瞳のまま「ズズッ」とスライドしてモニターに顔を近づけた。


old.tmp: 「そうなんですよ! でも、ちょっとおかしいなって思うことがあって。……これを見てください」


old.tmpは、いくつかの異なる楽曲のメタデータを空中に並べて表示させた。


一つは、破壊的でサイバーパンクなトラップビートが特徴的な『Plastic Lunacy』。

もう一つは、今日エンディングで流した静かで透明感のあるアンビエント楽曲『Midnight_Block : Melancolie』。

さらにもう一つ、引き伸ばされた不気味なノイズが特徴的なホラーテイストの楽曲『因果律心中』。


old.tmp: 「……この三曲、どう聴いても全く別のジャンルですよね。テンポも、使ってる楽器の音も、雰囲気も、完全にバラバラなのに……。なんで、配信登録のメインジャンルが、全部同じ『エレクトロニカ(Electronica)』ってタグでまとめられてるんですか!?」


old.tmpは目を丸くして叫んだ。

彼の認識において、「ジャンル」とは音楽の方向性を示す明確な道標のはずである。ロックならギターが鳴っているし、クラシックならオーケストラが演奏している。しかし、この「エレクトロニカ」というタグが付けられた楽曲群は、あまりにも無秩序で、共通点が「パソコンで作られた電子音が含まれている」ということくらいしか見当たらないのだ。


old.tmp: 「エレクトロニカっていうジャンルは、一体どうなってるんですか? なんでこんなにごちゃごちゃで、何でもありの闇鍋状態になってるんですか!?」


彼が頭を抱えて混乱していると、シュガー神が欠伸をしながら答えた。


シュガー神: 「……んー。私にはわからないわ。甘いか、苦いか、カロリーがあるかないか。……音楽なんて、それくらいの大雑把な分類で十分じゃないの?」


old.tmp: 「いやいや! それはシュガー神さんの味覚センサーの話であって、音楽のジャンルとしては全然答えになってないですよ!」


彼が抗議していると、背後の暗がりから、低く擦れたような声が響き渡った。


.log: 「……その疑問に対する答えは、エレクトロニカという言葉の歴史的背景と、現代のデジタル音楽市場における『構造的な欠陥』を紐解くことで、明確に論理的帰結として導き出されます」


いつの間にか、分厚いログファイルを小脇に抱え、執事服をピシッと着こなした記録係、.logドット・ログが音もなく現れていた。彼の眼鏡が、モニターの微かな光を反射して冷たく光る。


old.tmp: 「うわっ、ログさん! いつの間にそこに!? ……構造的な欠陥って、どういうことですか?」


.logは手元のタブレットを操作し、old.tmpたちの目の前に巨大なホログラムのプロジェクターを展開した。そこには、1990年代から現代に至るまでの、電子音楽の系譜を示す複雑な系統樹ツリーグラフが描かれている。


.log: 「……解説いたしましょう。エレクトロニカというジャンルが現在のように分類不能な楽曲の掃き溜め……失礼、多種多様な楽曲の集合体となっているのには、主に3つの致命的な理由が存在するのです」


old.tmp: 「3つの理由……」


.logは眼鏡を中指で押し上げ、まるで大学の講義のように淡々と、そして容赦のない論理で語り始めた。


.log: 「第一の理由。それは『定義の広大さ』です。エレクトロニカという言葉は、1990年代初頭に登場しました。元々は、クラブで踊るための四つ打ちのダンスミュージック(テクノやハウスなど)とは一線を画す、『家で座ってじっくり聴くための電子音楽』……いわゆるIDMインテリジェント・ダンス・ミュージックや、アンビエントテクノなどを指す言葉として広まりました」


.logの指し示すホログラムには、Warp Recordsなどの初期の電子音楽レーベルのロゴが点滅している。


.log: 「しかし、『家で聴く電子音楽』という定義は、あまりにも広すぎました。BPMが遅ければエレクトロニカ。ブレイクビーツが入っていればエレクトロニカ。生楽器と電子音が混ざっていればエレクトロニカ。……結果として、ダンスミュージックという狭い枠に収まりきらない、ありとあらゆる実験的な電子音楽が、この言葉の下に無差別に統合されてしまったのです」


old.tmp: 「なるほどぉ……。元々の箱が大きすぎたせいで、色んなものが入っちゃったんですね」


.log: 「第二の理由。それは『手法とジャンルの混同』です」


.logは、ホログラムの系統樹を現代の年表へとスライドさせた。


.log: 「2000年代以降、パソコンの性能向上により、誰もが簡単に波形編集やエフェクト処理を行えるようになりました。結果、意図的にノイズを発生させる『グリッチ』や、既存の音源を切り刻む『カットアップ』、あるいは極端なサンプリングといった『手法』そのものが、エレクトロニカの代名詞として誤認されるようになりました。……つまり、本来はポップスやロックであっても、そこに少しでも『バグのようなノイズ(グリッチ)』や『ピコピコした電子音』が混入していれば、システムやリスナーはそれを安易に『エレクトロニカ』として処理してしまうという現状があるのです」


admin: 「まあ……。音の作り方の手順レシピと、完成したお料理の分類ジャンルがごちゃ混ぜになってしまったのですね。……少し可哀想なお話です」


adminが優しく相槌を打つと、.logはさらに冷徹な声で言葉を継いだ。


.log: 「そして第三の理由。これが最も深刻なバグですが……『言葉の曖昧さによる、恣意的なラベリング』です」


.logの眼鏡の奥の瞳が、冷徹な光を帯びた。


.log: 「音楽ストリーミングサービスのアルゴリズムや、メディアのプレイリスト作成者たちは、既存のポップス、ロック、ジャズ、ヒップホップといった明確な定義を持つ枠組み(フォルダ)に収まらない、分類に困る奇妙な楽曲に遭遇した際、思考を停止します。そして、『電子音が入っていて、よくわからないから、とりあえずエレクトロニカというタグをつけておけば間違いないだろう』という、極めて怠慢なエラー回避処理を行うのです」


old.tmp: 「えっ……。それって……」


.log: 「左様です。現代において、『エレクトロニカ』というジャンルタグは、音楽業界やアルゴリズムにとっての『既存ジャンルからの逃げ場』。……すなわち、行き場のない変なデータ(曲)を何でもかんでも無差別に受け入れる、巨大な『ゴミリサイクル・ビン』として機能してしまっているのです」


.logの口から発せられた「ゴミ箱」という決定的な単語。


その無慈悲なシステム用語は、old.tmpの精神の根幹を激しく揺さぶった。


old.tmp: 「……ゴミ箱……。行き場のないデータを、とりあえず入れておく場所……」


old.tmpは、自分自身の足元を見つめた。

彼は「一時ファイル(.tmp)」である。システムが処理を行う過程で一時的に生成され、用が済めば、あるいはディスク容量が逼迫すれば、真っ先に削除対象リストにリストアップされ、ゴミ箱へと送られる運命にある存在。

彼自身が、まさにその「行き場のないゴミデータ」の象徴なのだ。


old.tmpの小さなキャッシュメモリの中で、ある一つの狂気的な、しかし生存本能に直結した切実な「問い」が芽生えた。


old.tmp: 「……ねえ、ログさん。一つ、聞いてもいいですか?」


彼の声は、普段の怯えた甲高い声とは異なり、奇妙なほど静かで、真剣な響きを帯びていた。


.log: 「……何でしょうか、tmp様」


old.tmp: 「ログさんは今、エレクトロニカは『変な音を何でも受け入れるゴミ箱』だと言いましたよね。グリッチやノイズが入っていれば、それはエレクトロニカとして分類されると」


old.tmpは、震える両手を握りしめ、.logの冷たい瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


old.tmp: 「だったら……。だったら、エレクトロニカが『変な音を何でも受け入れるゴミ箱』なら、僕が発生させる『システムエラーのノイズ』も、誰かがそう呼べば音楽になれるんですか?」


.log: 「……」


old.tmpの問いかけに、.logはピクリとも表情を変えなかった。しかし、その場の空気は一瞬にして絶対零度まで凍りついた。

見守っていたadminも、シュガー神も、スライド待機していたポチすらも、完全に静止した。


old.tmp: 「だって、そうじゃないですか! 画面がフリーズした時の『ガガガガッ』って音も、ハードディスクがカリカリ鳴る音も、ブルースクリーンが出た時の不快なビープ音も! それが『不具合の音』なのか、『芸術的なグリッチノイズ』なのかを決める境界線が、もし言葉ラベル一つなら……!」


old.tmpは、必死に言葉を紡いだ。それは、消去されたくない、意味のある存在としてシステム内に留まりたいという、プログラムの分際で芽生えてしまった哀しい生存本能の叫びだった。自分がただの名前次第で消去を免れるのではないか、という切実な願い。


old.tmp: 「僕が吐き出すこの耳障りなエラーログも、誰かが『これはエレクトロニカという音楽です』って言ってくれれば、僕はただのゴミデータじゃなくて、価値のある『芸術作品の一部』になれるんじゃないですか!? そうすれば、定期クリーニングの時に削除されずに、永遠にこのパソコンの中に残っていられるんじゃないですか!?」


一時ファイルの、あまりにも切実で、そして論理を逸脱した哀願。


しかし、記録係である.logは、その感情的なノイズを一切の同情を交えずに、完璧なシステム論理で冷酷に切り捨てた。情緒を排し、システム的な「工程」の差を指摘する。


.log: 「……極めて非論理的で、感情的なバグ思考ですね。即座に訂正させていただきます」


.logは手元のタブレットを操作し、空中に一本の太い「境界線」のホログラムを引いた。


.log: 「貴方は決定的な勘違いをしています。ノイズと音楽を分ける境界線は、リスナーの感想や『エレクトロニカ』というラベルなどの曖昧なものではありません。そこには、デジタル空間における絶対的で越えられない『物理的なフォーマットの壁』が存在するのです」


old.tmp: 「フォーマットの……壁?」


.log: 「第一に、『形式の壁』です。拡張子が『.tmp』であり、一時フォルダにある限り、中身がどれほど美しくてもシステムは自動で破棄デリートします。OSのクリーンアップ・プログラムは、ファイルの中身が芸術的かどうかなど1バイトも審査しません。ただ機械的に、拡張子とタイムスタンプを参照し処理するだけです」


old.tmp: 「うぅ……。拡張子の壁……」


.log: 「そして第二に、最も重要な『生存の条件』です。そのノイズが『音楽』という不滅のデータに昇格するためには、不可欠な『プロセス』が存在します。……それは、創造主たる管理者エグゼの『意図』によるコンバートです」


.logは、ホログラムにDAW(音楽制作ソフト)のタイムライン画面を展開した。


.log: 「貴方が発生させたエラーノイズが音楽に昇格するのは、exeがそれを『素材』として認識し、オーディオトラックとして『サンプリング(書き出し)』した瞬間なのです。エグゼ様がそのノイズを聴き、明確な『意図』を持って認識し、録音し、波形として配置し、最終的にオーディオフォーマットとして書き出しを行う必要があります」


.logの言葉は、氷のように冷たく、そして絶対的な真実であった。


.log: 「結論を申し上げます。中身(波形)の差ではありません。管理者がそのデータを『再利用可能な資産』として定義し、別のファイル形式(.wav等)に変換した時のみ、データは不滅の生存権を獲得するのです。……エグゼ様の『意図』というフィルターを通さない限り、貴方の奏でる音は、未来永劫ただのゴミデータに過ぎません」


old.tmpは、完全に言葉を失った。

どれだけ自分が美しい音を出そうと、どれだけ誰かがそれを音楽だと呼ぼうと、システム管理者であるエグゼが「これは音楽ファイルである(.wav)」と定義して保存処理を行わない限り、自分はゴミ箱行きを免れないのだ。

システムの世界の掟は、人間の感情論など入り込む隙がないほどに残酷で、絶対的だった。


old.tmp: 「……そっか。僕が自分で音楽だと言い張っても、ダメなんだ。エグゼさんに、選ばれないと……」


絶望に打ちひしがれ、その場にへたり込むold.tmp。

adminが静かに寄り添い、優しく彼の肩を抱きしめるが、その温もりすらも今の彼には届かない。ポチもただ無表情のままスライドし、沈黙を守っている。


その時、アームチェアで黙って彼らの対話を聞いていたSystem.dllが、空になったティーカップをソーサーに置き、冷徹な声で議論に終止符を打った。


dll: 「……下らない問答ね。ジャンル名など、結局のところ検索エンジンのクローラーや、ストリーミングサービスのアルゴリズムに読み取らせるためのインデックスに過ぎないわ。エグゼの曲がエレクトロニカに分類されようが何に分類されようが、本質はそこにはない。あいつはただ、自分の好きなようにノイズとメロディを切り貼りして遊んでいるだけなのだから」


dllはゆっくりと立ち上がり、システム全体のシャットダウン・シーケンスへの移行を宣言する。


dll: 「無駄な思考リソースの消費はこれくらいにしておきなさい。本日の演算プロセスを終了します。ストリーム切断」


dllが指を鳴らすと、デスクトップの空間を照らしていた照明バックライトが一段階暗く落ちた。


dll: 「¡Adiós!(アディオス!)」


冷酷な別れの言葉と共に、dllの姿はホログラムのノイズとなって空間からフッと消え去った。続いて.logも、「……それでは、失礼いたします」と一礼し、影の中へと沈んでいった。


すべてのプロセスが終了し、デスクトップには完全な静寂が訪れた。

古い13年落ちのPCの冷却ファンだけが、アイドリング状態の低く重い回転音を「ブォォォン」と響かせて回り続けている。


admin: 「……さあ、小さなファイルさん。私たちも帰りましょう。貴方のお部屋(Tempフォルダ)まで送りますよ」


シュガー神: 「……ん。もう眠いわ。早く帰って寝ましょ」


adminの優しい声に促され、old.tmpは立ち上がった。青いLANケーブルに引かれたポチが、「ズズズッ」と彼に寄り添うようにスライドしてくる。


誰もいなくなった薄暗いデスクトップを、ベビーシッターたちと共にトボトボと歩きながら、old.tmpは一人、自らの運命を噛み締めていた。


彼の脳裏には、先ほどの.logの残酷な言葉がリフレインしている。

『管理者が再利用可能な資産として定義し、変換しない限り、データは不滅の生存権を獲得しない』


old.tmp: 「(……結局、exeさんにサンプリングされない限り、僕はただのゴミってことですかぁ。いつか僕のエラー音も、かっこいいグリッチとして.wavに焼いてくれないかな……)」


彼は、自身の足元に広がる無機質なファイルパスを見つめながら、心の内で自嘲気味に、しかし捨てきれない微かな希望と共に呟いた。


いつか来るかもしれない「消去」の日に怯えながらも、彼は、自身の発するノイズが創造主の耳に留まり、永遠の命を持つ音楽データとして転生する未来を、密かに夢見ずにはいられなかった。


暗いデスクトップの片隅で、小さな一時ファイルは、今日という日のログを自分自身の奥深くにそっと保存した。


(システムログ:デジタル領域の環境最適化(衣替え)プロセスを完了。……一時ファイルにおける生存権(音楽への変換)に関する非論理的なクエリを破棄し、管理者のサンプリング意図をバックグラウンドにて静観します)

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