琴浪先輩
年末になるので、琴浪先輩と共に、開運カレンダーを作る作業に回されました。社員全員と、社外に配る品だそうです。社長が直々に書いた運を呼び寄せる有り難い言葉を印刷した、とっても素敵なカレンダーなんだとか。
いらないなあ!と思いかけましたが、やっぱり必要かも!と思い直しました。有難い運、今最も必要なアイテムですからね。
エリィちゃんは、まだいます。窓の外に立っています。カーテンを閉めてみたのですが、窓を叩かれたのでやめました。
開けている限りは入ってこないみたいです。つまりそれってあれです、俺が窓を開けるのを待っている、ということです。最悪ですね。
「先輩、もしかしたらわたくしの勘違いかもしれないのですが、こちらの漢字、間違っていませんか?」
本当にこれで開運になったらいいなあ、と思いながら真剣に眺めていたがために、カレンダーの誤りに気づいてしまいました。
達筆、と言えば聴こえはいいだろう社長の字を眺めつつ、編集ソフトに表示された画像の一点を指差すと、琴浪先輩からは舌打ちと、無言が返ってきました。つまり、無視です。
「先輩! それハラスメントですよ!」
「そうか。デスクで雪見だいふく食ってるハゲにも同じことを言ってやれ」
「いやあ、世の中、わざわざ言わなくて良いことってあるじゃないですか」
「つまり?」
「なるほど」
結論まで行き着いたので、僕は素直に見なかったことにしました。
三分後。様子を見に来た松馬部長が「あれぇ! ここ間違ってるよ! 社長ったらうっかりさん! 琴浪くぅん! ご連絡して!」と言い始めたので琴浪先輩は付箋の束をボールペンで三度刺してから、社長に連絡を入れていました。先輩って社長に直で連絡していい立場なんですね。
社外にも渡す品で社長に恥をかかせる訳にはいかないですからね。まあ、多分先輩はかかせてやれと思っていそうな気がしますが。あるいは全てが部長のせいになればいいのにとも思っているかもしれませんが。この部署には、そういう空気が、あります。
ともかく。
無事に開運カレンダーは完成しました。
珍しいことに定時で仕事が終了しています。なんとめでたいことなんでしょうか。家に帰りたくない僕からすると全くちっともこれっぽっちもめでたくも嬉しくもありませんが、先輩はさっさと帰り支度を始めています。つまり俺も帰らなければならないということです。帰りたくもないのに。
「先輩、忘年会しませんか」
「この時期に今から入れる店は流石にないだろ」
思わず引き止めた僕に、先輩は一拍置いて、『お前と飲みに行きたくなんかないが?』をそれなりのオブラートに包んだ断り文句を口にしました。それはそうです。仰るとおりです。そもそも仕事が終わる予定でもなかったので店なんて取っていませんし、会社の人と飲みに行くだなんて、内向型の僕からすればお断り願いたいシチュエーションです。
でも。
エリィちゃんがいるんです。
家に。
「帰りたくないんです。家に、ファンタジー美少女の化け物がいて」
うんざりした様子で背を向ける先輩に、僕はほとんど思考を通さないままに言葉を投げていました。随分と切実な響きになってしまったものですから、振り返った先輩は心底面倒くさそうな顔こそしたものの、一旦、俺の話を聞いてくれる姿勢に変わりました。多分、これ以上人員が《《飛ぶ》》のは、先輩としても避けたい事象なのでしょう。
「それはお前がサングラスをかけ続けてることと何か関係ある話か?」
「ああいえ。これは全く何も、わたくしの個人的な事情のもとに身につけているだけで、ファンタジー美少女は全く関係ありませんが」
「そうか」
先輩はそれ以上は一ミリも突っ込んできませんでした。聞いたはいいものの、興味が持てなかったのだと思います。あるいは、踏み込まないで済む位置にのみ立つタイプの人なのだと思います。そういう人は大抵、踏み込まれたくない部分を持っているタイプの人でもあります。先輩はまさにそういうタイプのお人でした。どこからどう見ても。
琴浪先輩のことは、初めてみた時からずっと、半分死んでいるような人だな、と思っていました。常に片足を死に突っ込んでいるような人です。僕は生来そういう人を見分けるのが得意なものですから、よく分かっています。片足を死に突っ込んでいる人間は、もう半歩でも転べばすぐに死にます。
もうすぐ死ぬ、と分かっている人間が実際に死んだ時、僕はどうも、自分が責められているような思いがします。何も知らないのならばともかく、分かっていて見ないふりをするのは、何らかの罪に当たるのではないでしょうか。そんなことはない、と自信をもって言い切るには僕の心は随分と弱かったようでして、僕はいつからかサングラスをかけて過ごすようになりました。そうするとまあ、当然ながら、すぐにクビになりますので、鏡を見た時には僕の方が死に片足を突っ込んでいたりしたものです。
この会社は祖母の飲み友達から紹介いただいたものですが、僕には合っている会社だと思います。つまり最悪ということですが、まあ、泥水の中でしか生きていけない魚もいることですから。
そして、琴浪先輩もまた、澄んだ水では死に絶えるような魚であるようでした。
「あの。日誌に小説が連載されていたってお話をしたと思うのですけれど、それで、わたくしそれを持ち帰ってしまいまして、そしたら、家にファンタジー美少女が現れてしまって。エリィちゃんがいるんです。ネクロマンサーで、可愛い子で、一途で主人公想いで頑張りやさんなんですけど、とにかくずっと、ずっと居るんです。エリィちゃんが窓の外に立っていて、窓を、叩いてくるんです」
支離滅裂に、無駄に言葉多く説明する中で、いつか入り込んでくるに違いない、という予想を、僕は口にすることが出来ませんでした。言葉にしてしまったら、現実になってしまう気がしてならなかったからです。
僕の説明を聞いた琴浪先輩は、一度明確に「だから、」と口にし、その後に、全てを面倒だと思っている顔で続けるべき言葉を放棄しました。人間、怒ることにも労力が必要であって、先輩の中にはこれ以上、僕に怒るための感情の残量など存在していないのでしょう。
「お前タクシー代出せるか?」
「え? ああ、はい」
頷いた僕を見た先輩は特にそれ以上の説明もなくスマホを操作しながら部屋を出て日誌を手に戻ってくると、呼び出したタクシーに僕と共に乗り込み、ご自宅に立ち寄ってから、不思議な足音——てちとち——と共に僕の家に向かいました。
***
僕の部屋は三階の角部屋で、窓の外にはベランダの代わりに薄い柵が取り付けられているのみです。外から見た際にはエリィちゃんが浮いている気配はないのに、部屋に入ると窓の外にいるんですから訳が分かりません。
途中で購入したお酒の缶を片手に部屋へと上がり込んだ琴浪先輩は、玄関先からでも見える、真正面の窓に目をやると、無言で一口、開けた缶に口をつけました。一口、と言いましたが嘘です。大分しばらく、でした。てちとちが暴れ回っている気配がしましたが、怖かったので僕は一言も発することが出来ませんでした。ああ、いえ。怖いのはてちとちではなく。もちろん、てちとちも、ですけれど。
エリィちゃんは顔の全面を窓にべったりとつけて、此方を見ていました。
大きく描かれた瞳が、濁ったハイライトを此方に向けています。黒髪のハーフツインは実際のところ髪ではなく糸で出来ているようで、ぼそぼそに乱れたそれが濡れた窓に張り付いていました。雨です。雨が降っていました。開けっ放しの玄関の後ろからは何の雨音もしません。でも。降っています。
後ろを振り返る勇気はありませんでした。かといって、これ以上部屋の中に進む気にもなれませんでした。
そうして、無言のままに立ち尽くすこと数分。
いつの間にやら一缶すべて飲み干していた琴浪先輩は、鞄から取り出した業務日誌を丸めると、勢いよく、窓を叩きました。
僕が自分でも分かる程に肩を跳ねさせたのと、てちとちが止んだのはほぼ同時でした。そして、エリィちゃんは一度、飛び退くように暗がりの向こうに消えました。
夜に呑まれるようにして姿の見えなくなったエリィちゃんは、数秒ののちに、再び、ばんっ、と窓に叩きつけられるようにして戻ってきました。貼り付けられた顔が不格好に歪んで、手足が妙な方向に曲がっています。
落ちてきたのだと思いました。なんとなくです。そう思いました。エリィちゃんは。僕は彼女が窓の外に浮いているのだと思っていましたが。本当はずっと、落ちていただけなのかもしれません。何処から? 何処でしょう。僕は、作者さんが、何処から落ちたのかは、聞いていませんから。分かりません。
吐きそうになっている僕を置いて、先輩は迷うことなく、もう一度日誌で窓を叩きました。一度と言わず、何度か叩きました。何度か、というか、まあ、多分、数え切れない程度に。
その結果、エリィちゃんは暗がりの向こうから戻ることは二度となくなり、代わりに隣の部屋のおじいさんとその更に奥のお兄さんがブチギレながらやってきました。
「馬鹿でかいゴキブリが出まして」
琴浪先輩は丸めた日誌を手に、同じ言い訳を違う言葉で繰り返しました。
「人間サイズの馬鹿でかいゴキブリが出まして」
正気かな? と思うような言い訳を真顔で吐き出し続けました。
「知ってますか? 馬鹿でかいゴキブリ。実在するんですよ人間サイズのゴキブリは。ゴキブリには死が分からないんですよだからボクのような親切な人間がゴキブリに死を教えてやらねばならないんですよ分かりますかゴキブリなんてね死ぬほどデカかったら我々人間は対抗手段もなく死ぬしかないんですよつまりこれは我々に平等に降りかかる危機であってボクたちは一致団結してこの巨悪に立ち向かわなければならないんですよ明日は我が身ですからね此処で出会ったのも何かの縁です馬鹿でかいゴキブリが出た時にはいつでも呼んでください」
正気ではないな? と思ったらしく、おじいさんもお兄さんも、ゴキブリは放っておくと大変だものな、みたいな顔をして去っていきました。僕は先程までとは全く異なる理由でこの部屋に帰りたくなくなりましたが、少なくともエリィちゃんの姿は消えましたし、窓も割れてはいませんでしたので、よしとしました。
てちとちだけが、あまり納得の行っていない様子でてちとちしておりましたが、それも一応、よしとしておきました。




