10-4 駿河 清水湊
決断ではなく、覚悟だな。
孫九郎は雨に打たれながらそう思った。
ここで手控える方が、後に響く。
兵をいくら集めるべきかとか、どういう仕置きをするべきかとか、色々頭を悩ませているうちに、寺から随分離れたところまで来ていた。
傘のない時代だから、雨除けは笠と蓑だ。当然だが視界が悪い。
豪雨に打たれていると自然と視線は足元に向き、進む速度も鈍る。
そんな中、駆け足で寄ってくる人影があった。
「御屋形様!」
声を掛けてきたのは土井で、その口調がひどく緊張したものだったから、襲撃でもあるのかと身構えたが、違った。
「山肌が割れて水が吹いているそうです。しばらく様子を見たほうがよさそうです」
崖崩れが起きそうだという事か?
「いや、急ごう」
駿府まで、晴れている日には視認できるほどの距離なのだし、ぬかるんでいるこの辺りを抜ければ馬ですぐだ。
「足元が悪うございます」
正直な所、無防備な状態でこんなところで立ち往生したくはなかったのだが、雨量を危惧した側付きたちの進言を受け入れ、結局、夜の移動は控えることにした。
「まあ、宿を探すなどと水臭ぅございます」
そう言ってころころと笑う女性は、丁度清水湊に滞在していた興津家の里殿だ。
急な訪問にもかかわらず、快く一行を迎え入れてくれた。
二年前に夫を亡くし寡婦となった里殿だが、すぐに熱烈なアプローチを受けて再婚した。
同じ興津家の傍系で、清水湊の取りまとめをしている男だ。
興津本家は里殿の長男が跡を継ぎ、里殿は宗家から離れ最近は湊での仕事を手伝っていると聞く。
息子の方は今川館につめていて、わりと頻繁に会うが、彼女の顔を見るのは年始の挨拶を受けてから半年ぶりだった。
孫九郎はまじまじと長身の里殿を見上げて、幸せそうなことに安心した。
本家及び分家の多くを失った傷跡は、一年二年でどうにかなるものではない。
だが、里殿が笑っている姿を見ると、大丈夫だと思える。
「世話になる」
「ええはい。歓迎いたします」
大勢で突然転がり込んだにもかかわらず、皆が温かく出迎えてくれた。
暗くなる前だったので、まだ大勢が陣屋にいて、ハチの巣をつついたかのような騒ぎになった。……申し訳ない。
かつて曳馬城の城主をつとめていた興津とよく似た顔立ちの男が、形よく整えた髭を指で撫でた。
顔は似ていても体格が一回りは小さく、下手をすると里殿よりも小柄なこの男が、彼女の新しい夫の善之助だ。
「……瀬名殿ですか?」
里殿が食事の支度をするからと下がり、男だけが残って話をする中、瀬名の動向について何か知らないかと尋ねると、にこやかだった善之助の表情がたちまち渋くなった。
つまり、そんな表情になるだけの、何か予兆なものがあったのか?
「そういえば、近隣の領地から農民を集めているそうで、それについて苦情を言ったらすげなく追い払われたと聞きます」
ひそかに開墾をし、人手が不足なのだろう。あるいは、雑兵の頭数をそろえるつもりか。
「瀬名家によると、前線へ槍働きに行く故兵をそろえねばならぬそうで。そう言われてしまえばどうにもできぬと悔しそうになさっておいでした」
「どうにもできぬわけがなかろう。他領から民を攫うなど……それに、駿河衆はかなり手薄だ。今のところ戦に向かわせる予定はない」
「そうなのですか? 噂では、そろそろ伊豆の決着をつけるのではとのことでしたが」
孫九郎は、きょとんとした善之助の顔を見て、「伊豆」と呟いた。
頭の片隅で、ほんの少しだけ、瀬名家が伊豆に色気をだしたのではと希望的観測をしたのだ。
だがどんな理由があろうとも、「許可なく近隣から人を攫ってはいけない」という決まりだ。ここで手控えていては、誰も法に従わなくなるだろう。
「禁じた事をしてもよいと、何故思った」
瀬名は駿府から数時間の近距離だ。かつては井伊谷にも近い二俣城を居城にしたこともあるようだが、先代の頃から勢力を陰らせ、今は細々と瀬名村周辺を勢力下に置くだけになっていた。
先代瀬名当主はそれを受け容れて大人しくしていた。だが当代は違うということか。
「そのような思い切ったことをするほど血気盛んな御方ではないのですが」
「知己か?」
「ええもちろん」
駿府から近いということは、ここからも近距離、お隣さんレベルなので、知り合いなのは当然か。
「……ここだけの話」
善之助が声を潜めて身を乗り出した。
ふわりと漂ってきたのは……なんだ? タバコの臭いか?
「今の当主が瀬名に養子に出ると決まった時に、ひと揉めありまして」
その揉め事というのも、瀬名の先代の戦での失態や、それの責任を負わされる形での今の領地への押込め、更には邪魔な庶子の鳥かごとしての役割など、はた目にもまあいいように使われていたのだそうだ。
ちらりと、桃源院様の顔が脳裏をかすめた。
一門衆だと誰もが認識している瀬名家に対するこの扱い、そんなことができる人間の数は限られている。
そうか、わざと庶子に力をつけさせないよう仕向けたのか。
力を削ぎ近場に置いたのも、監視の役割と同時に、今川家に後継が産まれなかった場合の保険にしたかったのかもしれない。
孫九郎は無言で眉間を揉んだ。
瀬名の当代が意を決して立ち上がろうとした理由はなんとなくわかった。
その鬱積した気持ちは理解できなくもないが、何故「今」だ?
桃源院様が仰っていたように、遅すぎるのだ。
二年前の混乱の時に名乗りを上げなかったのは、先代瀬名当主がまだ生きていたからなのかもしれないが、だったらそのまま大人しく、もしかすると失策に至るかもしれない孫九郎の治世の行く末を待つべきだろう。
その時を待つことができず、孫九郎が国元を離れた瞬間を狙ったのか?
あるいは、ほかに何か理由があるのか?
人の心のうちなど分かるはずもない。
わからないなら……本人に聞くべきかもしれない。
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