10-5 駿河 清水湊2
「それでは、二千でよろしいでしょうか」
藤次郎が筆を片手にそう問いかけてきた。
孫九郎は頷きかけて、ちょっとまてよと首を傾げる。
現在、五千の兵が甲斐攻めをしている。
信濃から戻って来て真っ先にしたのは、その人数の見直しで、梅雨明けまでに追加の兵を送る予定だった。
今のところ甲斐に目立った動きはないが、前線をかなり上げているので、時期を見て敵も領地を取り戻そうと動くだろう。
今のラインを保持するために、二千の増兵をする予定でいたのだが……
「伊豆ではなく、甲斐に送るというのはどうだ?」
「瀬名様のことですか? 甲斐戦線に出向きたいと名乗りを上げている方は大勢います。不服が出るのでは」
孫九郎は、戦果を挙げた者への褒賞を惜しまない。
武士の花形は戦場だと、一旗揚げたい者たちが列をなしている状態だ。
まあおそらく、甲斐を切り取るという前提でのことだろうが。
「一度目は警告、二度目は叱責、三度目は処罰。この線で動くのであれば、戦果を挙げるやもしれぬ戦への参加をお認めにならぬ方がよろしいかと」
それもそうか。
孫九郎は納得して頷いて、ではどういう仕置きが順当かと頭をひねる。
警告はすでにしていて、それに対しての申し開きを待っている状況。
おそらく改める気はないのだろうから、何がしかの処罰を考えなければならない。
それに先立って、瀬名のやっている事をつまびらかにする必要があり、下級文官の調べで足りない部分を忍び衆が今調査している。
なにぶん目と鼻の先の瀬名村なので、報告は頻繁にやってくる。
その内容を聞くたびに、やっていることがいちいち杜撰だと、ますます首をひねりたくなる。
瀬名についての疑惑の発端は、今川館に収められた冊子の年貢の数値だ。
その年貢とは、瀬名家に任せていた今川家直轄領のものであり、瀬名の領地についてではない。
怪しいと感じた下級文官が奥平に報告を上げ、そこから調査が入り、瀬名が兵をあつめている事が明らかになってきた。
すでに出回っている噂では、近隣の領地からの無理やり農民を連れて行くというものだったが、それは正確ではなく、新しく田畑を開墾するかという名目で人を募る、つまり引き抜きだということだ。
もちろんそれも、当該領主の許可がなければ許されないことだ。
だが、農民本人の同意があるというのが、また微妙なところ。
瀬名村だけでは、年寄りや子供を含めても二百ほどの兵しか集めることができないはずなのに、すでに領内には若手の兵が五百もいるというのだから、やり方が強引なのは確かだと思う。
瀬名が兵を集めている表向きの理由は、伊豆への参戦。今川館にその旨を申告する準備すらしていた。
駿府と目と鼻の先にある瀬名村で、大胆な増員をすればすぐに露見する。
つまりは、いつかは知られることを前提に動いていたのだろう。
武士の勤めを果たしたいが、今の瀬名家の状況では満足に兵を集めることができず……そんな感じで、最終的には情状酌量を狙うつもりだったのではないか。
今、一番問題視されているのが、瀬名家に任せていた直轄領の年貢の誤魔化しだ。
きっと、そちらへの申し開きもできるようにしているのだろう。
そうすることで、兵の増員から目を逸らそうとしている?
それが通ると本気で思っているのだろうか。
甘く見られている? ……あるいは、よほどの覚悟があるのか。
ここで、この時代の武士の収入の仕組みについてざっと説明しておく。
駿河遠江の国主は今川家だが、その下には家臣たちがいて、扶持(給料)で雇っている者もいれば、領地を与えている者たちもいる。
年貢というのは、直接その領地を与えられた者の懐に入るものであり、それが彼らへの扶持にあたるのだ。
領地持ちの家臣たちは上がってくる年貢で鎧兜や武具、馬などの支度をする。戦に連れて行く者たちの食い扶持も、そこから出ている。
こういう理由から、自領は自分たちのものだという考えは、この時代の武士には根強い。
ちなみに孫九郎のところに入ってくるのは、直領地からの年貢と、家臣らの領地から上がってくる役銭……いわゆる税だ。
たとえば、商人が関所を通る時の銭。田畑の広さに応じた税。大きな建物に対しての税金もある。
与えた領地の年貢については、主君といえども口を挟む権限はないが、新しく開墾すればそれが課税対象になるから、申告は必須だ。
今川家では石高に応じての兵役を課しており、兵役に参加しない場合はその分の税を納める仕組みになっている。
多くの課税料を石高をもとに決めているから、そこを誤魔化すという事はかなり悪質だと言ってもいい。
「申し上げます!」
土井の大声が廊下の端から聞こえてきたときに、瀬名が兵を動かしたのだろうと思った。
もしかすると、孫九郎の命を狙って清水に五百の兵を進めたのかもしれない。
だが、こんな大雨の日に?
ご苦労な事だと渋い表情で顔を上げる。
だが、土井の口から発せられたのは予想外の言葉だった。
「し、承菊様がいらっしゃいました!」
「え?」
あまりに驚いたので、表情を取り繕うこともできなかった。




