10-1 駿河 今川館 始動1
この時代の建築は、日本の気候に合わせて湿気がこもらないよう配慮されているが、それでも梅雨は梅雨だ。
長雨が屋根を打つ音が現代よりも柔らかく、しとしとと染み込むような感じさえして、雨どいがないのでそのまま軒先から落ち、その音こそがアスファルトに打ち付ける音のようにびしゃびしゃと硬質だ。
とにかく、何もかもがじめじめしている。
湿度が高いと、不快度指数も高くて、実際の気温よりもなお暑いように感じるし、空気が肌にまとわりつくようだ。
おそらくは孫九郎以外にとっては、梅雨とはこんなものだという認識なのだろうが、何年この時代で過ごしても不快なものは不快だ。
除湿器欲しい。エアコン欲しい。無理なら扇風機でも。
ない物ねだり……いや、この愚痴が誰にもわかってもらえないというのが一番つらい。
「白湯をお持ちしましょうか?」
気がかりそうにこちらを見ているのは、信濃から連れてきた真田次郎三郎だ。
汗で髪が額に張り付いている孫九郎と違い、なんでこいつは涼しい顔をしているんだ。
脇息に身を預けながら大きくため息をつき、首を振った。
「濡れ布巾をどうぞ。少しはすっきりしますよ」
そう言って、水の張った盥を持ってきたのは藤次郎だ。手ぬぐいを固く絞って、軽くたたんでから差し出してくる。
孫九郎はもう一度ため息をついて、やはり平気な顔をしている三浦藤次郎を横目で見た。
最近、許嫁ができたこの男はご機嫌だ。
もともと女性からの好感度が高そうな男なのだが、三浦本家から睨まれていたので、これまでは嫁取りどころではなかった。
苦労したのだし、そのぶん幸せになってもいいとは思う。
だがその幸せのおすそ分けを、周囲に振りまこうとするのはやめてほしい。最近破談になった土井がかわいそうじゃないか。
「逢坂様が床上げをなさったそうですよ」
雨音同様じめじめとした表情の土井が、露骨に沈み切った口調で言った。
孫九郎は、そのいい知らせに表情を明るくしたものの、やはり気分は上がらなかった。
逢坂は信濃から戻ってくるなり寝込んだ。逢坂家によると旅の疲れだろうというが、あの男も結構な年だ。医療技術の発達していないこの時代、大きな病を患ってしまえばなかなか根治は難しい。
「しばらく療養させたほうがいいだろうな」
「すぐにお元気な顔を見せてくださいますよ」
藤次郎、たのむからウキウキと語尾を跳ね上げるのはやめてくれ。
土井のゲンナリとした表情に限りなく共感しながら、「そうだな」と無難に答えておいた。
雨が降っている。
ずっと降り続いている。
長雨は、梅雨であれば珍しい事ではないが、この時代ではもうひとつ大きな危険因子となり得る。
水害だ。
治水は孫九郎が今川家を継いで以来、真っ先に手を付けた公共事業だが、まだはっきりとした形にはなっていない。
京から技術者を呼び寄せ、試験的にいくつかの方法を試そうとしているが、シミュレーションゲームのように即座に結果がわかるようなものではないのだ。
「失礼いたします」
奥平が、几帳面な挨拶をしながら居室に入ってきた。
毎度のことだがきっちりとした身なりをしていて、手には大量の紙の束を抱えている。
どうやら休憩は終わりのようだ。
孫九郎は脇息から肘を上げ、背筋を伸ばした。
「以前話に出ておりました造塩についてですが」
紙の束を脇に置いた奥平が、取り出した手ぬぐいで額の汗を押さえた。
……そうだよな。暑いよな。
こんな時期が一番熱中症になるんだぞ。水分補給をしっかりしないと。
あとは塩分。
「かなり順調のようです。梅雨に入ってから本格的に竹の枝を使った方法を試しているそうですが、収量が格段に違うと職人が申しているそうにございます」
それはよかった。
海沿いのわが国では、塩造りは昔から行われているが、砂浜を使った方法は雨になるとたちまち止まるし、その時までの作業が台無しになる。
孫九郎がしたのは、雨でも中断しないために砂以外のものでできないのかと職人に問う事だ。例えば海藻とか、木の枝とか、竹の枝とか。
そもそも、最適解が孫九郎の知っているものだとは限らないのだ。過度に口出しをせず、職人に創意工夫を促すのは大切なことだと思う。
「予算は出す故に、そのまま良い方法を模索するようにと伝えよ」
奥平は汗を拭いた手ぬぐいを袖口に戻しながら、「はい」と大きく首を上下させた。
孫九郎の「予算は好きなだけ出す」という言葉には、その使い道への細かな明細付きという条件が付く。
初手から細かく周知してきたので、それが当たりまえになっていて、不正や癒着などはないと思うが、あくまでも「今のところは」。
後々の為に、監査役の目が光っているのが常態にしておきたくて、現在は皆の意識改革の真っただ中といったところだ。
「視察に行く」と言いそうになって、「いや、やっぱな」と首を振った。
孫九郎が直接目を配っている姿勢を見せるのは必要な事だと思うが、今は時期が良くない。雨だし。
「梅雨明けに一度見に行こうか」
「日程の調整を致します。職人が喜ぶでしょう」
奥平はにこにこしながらそう言うが、それはどうかな。
子供に仕事の邪魔をされたくはないだろう。
「それから、こちらを」
奥平はちらりと新参者の次郎三郎を見てから、懐奥深くに潜めていた書簡を取り出した。
反対側が透けて見えるほどの薄い紙だ。
「二年もたてば、そろそろかと思うておりました」
孫九郎は無言で書簡を受け取って、乱暴に扱えばすぐに破れてしまいそうな紙を開いた。
奥平が担うのは政に関する文書仕事と……今川家の家宰としての務めだ。
「泳がせておりました複数名が動きを見せました。この先については忍び衆の手に任せた方がよさそうです」
「どちらだと思う」
「某の口からは何とも」
孫九郎はさっと書簡に目を通して、その内容に深い溜息をついた。
わかっているはずなのに明言しないのは、この男の気遣いだろうか。
「……弥太郎」
名を呼ぶと、すっと気配を見せたその男に、次郎三郎がぎょっとして身構える。
信濃行きのときは武家の服装をしていたが、やはり薬師の服装のほうが見慣れていてよい。
「まだ泳がせておきたい。だが、こちらに被害が及ぶようでは困る」
弥太郎は両膝をそろえて膝をつき、頭を下げた。
本編続き、今川館編です
そのうちお外にも出してやろうかと思います




