10-2 駿河 今川館 始動2
孫九郎が居室にしているのは、先代がかつてそうしていた一室だ。
病に倒れてからではなく、バリバリに前線に出ていた頃。正室と側室を複数抱え、公私ともに最も忙しく働いていた頃だ。
長らく使われていなかった部屋だが、広さがあり、表にも近く、何より素晴らしいのが庭の眺めだ。
孫九郎は豪雨ですら絵画の一要素に見えてくる風景に見入り、かつてこの部屋にいた先代に思いをはせた。
病に倒れ、実際にお亡くなりになるまでに何年もあり、その間権力を握り続けていたにもかかわらず、どうして「見守る」という選択をしたのだろう。
今更その真意を聞くことはできないが、重い役目を押し付けられた者として、せめてもう少し家内を整理しておいてほしかったと思わずにはいられない。
孫九郎には、異母兄弟が多い。
欠片も身内意識を持てない連中だが、一応分類としては兄弟だし、身内と言ってもいいと思う。
今回の問題は、そこからの煙だった。
いや、煙といってもいいものか。火のない所になんとやら。すでに立派なボヤになっている。
厳重な見張りをつけてある者たちは動いておらず、その周辺からの付け火だ。
「付け火は死罪」と言われたのは江戸時代だったか? 今回もそれに倣えばいい気がする。
せっかく平穏になりつつある国内を、欲のためにかき乱すのは勘弁してほしい。
いや本人たちにしてみれば、孫九郎のような庶出の者が今川家を継いだのは不当だという思いがあるのだろう。
あるいは、孫九郎が許されるのであれば、より年長者である己がその立場でもよかったはずだと考えているのかもしれない。
どちらにせよ、自身にこそ正当性があると信じ、それを国の法よりも優先させたのだ。
再び文机に目を戻す。
中断したところから読み進め、なかなかうまくやっているなと顔をしかめる。
絶対に文官の中に手助けをした者がいる。
これまでなら忖度されていた案件だからかもしれない。あるいは、その者にとっての主筋で身内が仕えているのかもしれない。
年貢の数字をごまかしたり、村人の人数に統合性がなかったり。
むしろ気づいてくれと言いたげな帳簿の弄り方だった。
孫九郎と奥平が目を掛けて育ててきた者たちは、身分こそ低いが優秀だ。結束力も堅い。そんな中での小細工は、むしろ悪目立ちし、周囲からの怒りを招くだろう。
不正に気付いた瞬間に奥平に進言があり、奥平はそれをしばらく「泳がせる」という対処を取り、いよいよというラインを越えてきたので孫九郎への報告となったようだ。
「年貢を誤魔化し、新田開発を申告せず。こそこそためたお金で武具を買い、近隣の村から兵を集めている? 馬鹿だろう」
「それはまあ、気づかれるはずはないと思うておられるのでしょうから」
奥平の口調は、取りなしているようにも聞こえたが、実際のところはかなり腹を立てていると思う。これらの法を率先して目録にしたのはこの者だからだ。
今川家の広大な領地を規律よく治めるために、皆で知恵を絞って試行錯誤しながら現行の仕組みを作った。
具体的には、揉めがちな土地の問題やら、揉め事が発生した場合の仲裁のルールなどだが、つまるところ、「喧嘩両成敗」あるいは「喧嘩するなら全部取り上げ」あるいは「揉めているなら半分こで解決」などを明文化したものだ。
要するに、県や市などが独自で出している法令をイメージしてくれるといいが、それよりもっと拘束力は高い。
ちなみに、草案を考えたのは下級文官たちだ。
どれだけ身分が上の者の理不尽に涙をのんできたのかがわかる。
あとは細々、「勝手に主君を変えてはならない」や「年貢を払わなかった場合は土地差し押さえ」やら、都度都度作成して精査して追加している段階だ。
一番最近作られたものが、「勝手に他国の者との婚姻を結んではならない」という一文で、これはきっと、父の再婚話が孫九郎のあずかり知らぬところで進みそうになっていた一件をもとに誰かが加えたものだろう。
ともあれ、公布してはいるものの、まだ変更の余地がある作りかけの法だ。
これが年々増えて行くの見て、己らの権威が阻害されると感じた者が動き出すのは予想していた。
真っ先に動いたのが先代の庶子だとは思わなかった、というだけだ。
「目録に触れるとわかっていてやっているな」
「手心を加えてもらえると信じているか、押し切れると思うておられるか」
奥平がちらりとこちらを伺うように見る。
問題を現在進行形で起こしているのは、桃源院様の腹心の家系に養子入りし、最近家門を継いだ男だ。
見逃してもらえるだろうと安易な考えでいるのは、跡を継いだばかりの慢心からか。
「武装を整え、何をするつもりだ?」
監視監禁中の桃源院様の身柄を取り戻す? あるいは孫九郎に物申す?
いやどれも無理だ。
国内の不平分子にはおおよそ監視をつけているし、見張られている者たちもそれに気づいて気を配っている。
今の孫九郎に逆らっても、事を大きくする前に気づかれ止められそれを口実に処罰されるとわかっているから、おとなしく時を待っている状態だと思う。
孫九郎的には、この先十年二十年……あるいは一生待っていて欲しいものだと思っている。
手元の分厚い冊子を閉じる。
しばし再び虚空を見上げ、雨の音に耳を傾ける。
もう二年か。
ふと過ったそんな思いが運んできたのは、燃え上がる城の煤けた臭いの記憶だった。
「桃源院様にお会いしてみよう」
孫九郎のそんな言葉に、奥平は渋い表情をする。
この男は長くあの御方に仕えていたから、今はおとなしくしていてもずっとそのままだとは思えないのだろう。
だがよく考えろよ。
いずれ今川家を先代の嫡流の手に戻したいのだとしても、それは今ではない。
孫九郎が大きな失策をした、あるいは身体を壊すなど問題が発生してからだと思う。
そもそも、孫九郎の代わりになり得る人材が育っていない。
すべては、先代が生きておられたときに、嫡男以外を養子、あるいは僧籍に入れたからだ。
「桃源院様の口から諫めて頂いて、それでも無理ならば」
続きの言葉を飲み込み、孫九郎もまた奥平同様渋い顔をした。
誰だって、身内を粛清したいとは思わないだろう。
だが、彼らに対して身内という感覚がない孫九郎にとっては、ただの反逆者でしかなかった。
我ながら……薄情なことだ。
かな目録的何かを作ろうとしているようです




