次郎三郎4(8-7 8-8)
もはやこの城は、今川家の支配下にあった。
誰がなんと言おうとも、たとえば人員の総数で海野の方が勝っていようとも、本丸に高々と軍旗を掲げられ、大広間まで武装した本隊を踏みこませた。それはつまり……城が落ちたという事だ。
殿と三輪御前は言葉もなく項垂れている。若殿ははじめ半数の海野衆が、まだ状況が呑み込めていない様子だ。
これは……どうなるんだ?
あまりにも鮮やかな、あっという間の出来事だった。
すぐにも武田が援軍に来てくれるという楽観があったのだろう、主だったところが武装すらしていないのが、心構えの甘さを示している。
千曲川の下流沿いからどんどんと村上に下り、その軍勢が迫っていた。
海野平の守りの多くを担っていた父が死んだ。
こんな状況だから武田にすがったのだろうが、それで海野が救われると考えるのは安易すぎる。
次郎三郎の記憶にある、城が攻めたてられている時の肝が冷えるような恐怖。
これだけの村上軍と、味方とも断定できない今川軍に城を囲まれているのに、太平寺城にはまったくその気配がない。
籠城? 討って出ないのが籠城というわけではないぞ。
顔からの出血が止まったらしい源九郎殿が、今川の殿に向かって丁寧に頭を下げた。
それは甥に対しての気易いものではなく、己より上位者に向ける丁寧かつ敬意のこもった一礼だった。
ふっと、今川の殿の表情がほころんだ。
それはこれまでの形だけの笑みではなく、親しい者へ向ける心からの微笑だった。
「行ってあげてください」
そう言った声色も、軟らかく穏やかだ。
部屋の隅にいるのをいいことに、まじまじとその表情を見つめて、不躾にも瞬間的に不安を覚えた。
弱みを見せれば噛みつかれる。柔らかな部分を見せるのは得策ではない。
案の定、相手を与しやすい子供と感じたのか、根津様が声を上げた。
はっと息を飲んだのは、次郎三郎とその周囲にいる老練な武士たちが幾人か。
これだけの数に刃を向けられていて、なお強気な態度をとるなど正気とは思えない。
一見おとなし気にも見える今川の殿は、大勢の大人たちに一斉に責め立てられても表情を変えず、むしろその目がきらりと楽し気に瞬いた。
「では根津殿が滋野三家の筆頭に名乗りを上げると?」
「我らのことは我らが決め申す。口出しはお控えくださいますよう」
違和感がないほど自然に上座に座っていた今川の殿が、くるりと扇子を手で弄んだ。
「望月殿の御意見は?」
「……根津殿がそうしたいと申されるのであれば」
名指しされ顔を上げた望月様は、床に視線を据え両手をついたまま低い声で言った。
「えっ」と声を上げそうになったのは次郎三郎だけではないだろう。
明らかに今川方である望月様が根津様の意見に同意するとは思わなかったからだ。
「村上の相手をしてくれるというのなら、願ってもない事です」
しかも、かなり怒っている。
「ただし……当家の助けは期待しないでいただきたい」
いや「かなり」ではない、「相当」だ。
望月様はゆっくりと顔をあげ、険しい表情を最上座に向けた。
「望月殿っ」
方々から非難の声が上がるが、頑としてその方向は見ない。
「我らを武田の餌にしようとしたように、次はそちらが村上への盾になってくれるのでしょう」
次郎三郎は、ガツンと頭を殴られたような気がした。
武田への……餌?
大広間にいる大勢が、望月様が言っている言葉の意味がわからなかったようだが、次郎三郎には心当たりがあった。
武田兵が海野まで進軍してくる途中で、佐久を通るのなら、当然乱取りされる恐れはある。
それは何も武田だけではなく、兵糧が乏しくなればどの軍も行う事ではあるが、次郎三郎は今まで己がそのことを考えてもいなかったのに気づいた。
もしかすると武田は望月領を荒らしたのか?
海野はそれを回避する手立てを講じていなかったのか?
いやそもそも、佐久を通ってくる間に武田に乱取りをさせないようできなかったのだろうか。それを許容しての援軍なら、望月様がおっしゃるように「餌」にしたと責められても否定しようがない。
己の立場から見た物事しか思い至れない大人たちが、自分勝手な言い分を繰り広げる。
そのまとまりのなさに、だからこそ海野は松姫様と御子らを人質に出してまで武田と結ぼうと考えたのだとわかった。
あまりにも頼りにならない。
村上軍が城の外にいるのだぞ。いやこの城はすでに今川の手に落ちたのだぞ。
誰ひとりそれを指摘しないところか、現状に不満を漏らす者もいるほどだ。
不満を漏らしてなんになる? 口だけでどうにかなる状況ではすでにない。
次郎三郎には、望月様の怒りがよく理解できた。
身内とはいえ、許容できないこともある。
望月様にとってそれは、勝手に武田と結ぶことであり、次郎三郎にとっては、武田と結びたいが故に真田を切り捨てようとしたことだ。
「次郎三郎」
不意に名を呼ばれ、顔を上げた。
今川の殿が扇子を振り、側に来るよう手招いている。
大広間の視線の過半数がこちらを凝視した。
顔見知りが多い。
父が生きていた頃はよくしてくれた者たちだが、今は怒りと懐疑心に満ちた表情をしている。
そんな目で見られるようなことなどしていない。
真田は海野の一門衆だ。それを切り捨て、いらない者扱いしたのはそちらの方だ。
ふつふつと込み上げてきた怒りを上手く飲み込めないまま、今川の殿が指し示す場所まで進み、頭を下げた。
「其の方の父と叔父とを死地に追いやった者どもだ。どうしたい」
礼をして顔を上げ、目が合った瞬間、何かを試されているように感じた。
「命で贖わせてください」
一度深く息を吸ってから、はっきりした声で応える。
浴びせかけられる非難や抗議の声は、意図して聞き流した。
何より、「どうしたいか」と意思を聞かれたことに感謝した。
「一応は其の方の親族であり、主家でもあろう」
「主家であれば何をしてもよいと? 受け入れがたい事でも辛抱せよと?」
今川の殿は、それに対して是とも否とも答えなかった。
「二年後、村上軍が満を持して海野平に攻め込むだろう。焦らずとも望みは叶う」
「ですが、太平寺城に手出しはせぬとの約定があると聞きました」
「太平寺城には……な」
実際それは、ただ甘いだけの実ではない。
だがこれ以上望むべくもない、二年という猶予を与えてくれる。
今川の殿は軽やかに笑い、扇子の先を口元に当てた。
「其の方は駿河から高みの見物をしておればよい」
次郎三郎がその言葉を飲み込むまでに、しばらくかかった。
この地を離れるなど想像もしていなかったからだ。
駿河? 駿河に行くのか? 松姫様とその御子らだけではなく?
目からうろこ。ぱっと目の前が開けたような気がした。
真田を捨てようとした海野を、逆に捨ててもよいのだ。
丁寧に本編別視点を追っています(当社比)
断章でちょろっと書くなら飛ばしていたシーンです
次の、魚釣りの所を書きたかったので!




