次郎三郎3(8-1~8-6)
第一印象、苦労知らずな子供だと思った。
誰からも大切にされ、よくないことはすべて周囲が遠ざけてくれるような。
子供というのは本来そうあるべきだし、実際に次郎三郎も、この年頃はまだ両親に守られ安穏と暮らしていたにもかかわらず、強く感じたのは不公平さだった。
温和な表情で微笑む余裕が、今のこの状況にはひどく不釣り合いで、その幼げな声色に反感すら覚える。
己には誰も守ってくれる者はいない。
にもかかわらず、ほわほわと呑気な表情をしているこの子供には、身を挺してくれる大人が何人もいるのだ。
あとで顔から火を噴くほど恥ずかしくなるのだが、その時はただ、「いい所の子」が間違って迷い込んだのだろうと、信じて疑わなかった。
「じぶ」という言葉の意味に思い当たらず、そもそも何故こんな子がここにいるかもわからずに、闇雲に睨みつけるしかできなかった。
このまま追っ手に捕まってしまうのか、そう思うと悔しくて。
逃げ出そうとしても易々と捕縛され、叔父がもう戻ってこないと聞かされて……涙がこぼれた。
―――嘘だ!
否定したいのに、衝撃のあまり声にならない。
それが本当のことだと、無意識のうちに信じてしまった自身が許せなかった。
子供はこの場の切迫した様子など毛ほども気にしていない様子で、静かにこちらを観察し、小さく首を傾けた。
「次郎三郎」
―――馴れ馴れしく呼ぶな!
反射的にそう怒鳴り返そうとしたが、舌を噛んでいたのですぐに言葉にはならなかった。
「……やろうとしたことはわかるが、悪手だ」
―――何も知らないくせに、わかったような口を!
次郎三郎は低く唸りながら、なおも強く押さえつけてくる手を跳ねのけようとあがいた。
だが、背後にいる男の手はびくともしない。
逆手にひねられた腕が痛い。その痛みですら、目の前にいる小奇麗な子供のせいだと思い込み、憎しみばかりが肥大した。
「望みは」
近づいて来たその子の言葉に、せめてもの抵抗を見せ睨みつける。
望み? そんなものひとつしかない。
……あの女。
あれだけ大勢が見ていたのに、打ち掛けに火をつけたのが次郎三郎だと言い張っているのは、真田を海野から排斥したいからに違いない。
松姫様らを武田に人質に出し、真田も排斥する。
あの女の頭の中には、腹にいる子を海野の嫡男にする事しかないのだろう。
たかがそんな事の為に父を殺したのか? 叔父を死地に追いやったのか?
ふたりとも海野の跡目など望んではいなかったのに。
「父と叔父を殺した女の首」
「そうか」
憎悪のあまり声が震えた。
だが子供は、たいして表情も変えずに数回頷いた。
「……ならばついて参れ。途中で口を挟まぬという条件を飲むのなら、ことの行く末を見せてやろう」
何故ついていかなければならない。
事の行く末? こんな子供に何かができるというのだ。
「因果応報だ」
うつぶせのまま、頭を軽く叩かれるという屈辱的扱いに、拳で返してやろうと両手を握りしめたが、ゴキリと音が聞こえるほど強く腕を捩じられ叶わなかった。
顔から血の気が引いている。
その場にいるほぼ全員の顔が真っ青で、その中に次郎三郎も含まれる。
殿と並ぶ御身分の望月様が、額を床に擦りつけるように頭を下げているのを見て、そこで初めて、こんな空気の中で普通の顔をしている子供が、ただの「呑気」でも「苦労知らず」でもないということを知った。
駿河遠江の守護今川家が、代替わりしたという話は聞いたことがある。
次郎三郎よりも若い、新しい当主だ。
ではこの御方が?
改めて盗み見た横顔は、先程と同じく温和そうなものだった。
次郎三郎が想像する通りの御方なら、あまりにも非常識かつ礼儀のなっていない扱いに、激怒していてもおかしくない。
青ざめ震えている三輪御前に目を向ける。
三輪御前は厳しい方だが、理不尽な強権を振るってくる御方ではなかった。
周囲に厳しいが、自身にも厳しい。
唯一手が緩むのは、病気がちな若殿に対してだが、次郎三郎が知る限りそれも問題になるほどのものではなかった。
そんな御方の正気を疑う言動の数々に、海野衆の誰もが口を開くこともできず呆然としていた。
何故そんな振る舞いを? どうしてそうする必要があったのか?
突き詰めて考えた時に、思いつくのは「武田」の二文字だ。
母は、源九郎殿の「甥」が今川軍を率いてやってくると言っていた。
お尚の方たちは、そんな源九郎殿の妻子を、武田に人質に出すつもりのようだった。
あれがお尚の方の独断ではなく、海野家の総意だとすれば?
武田と今川が長年国境で戦を続ける天敵同士だというのはよく知られた事だ。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだ。
源九郎殿の怪我を含め、今川側が殺気立っているのも無理はない。
海野は、そんな武田に今川家当主の血筋の者を差し出そうとしていたのだ。
いや、まだ御存知ではないかもしれない。
今なら隠し通せるかもしれない。
次郎三郎はふと、母がお守りしていた松姫様の顔を思い出した。
あの御方は三輪御前の御実子だ。我が子と孫を武田に渡してまで海野を守ろうとしたと言えば聞こえはいいが、それは果たして正しい事だったのか?
現に今、太平寺城を囲んでいるのは村上軍と今川軍であり、武田の姿はどこにもない。
「滋野三家のとりまとめは、望月殿がなさったほうがよさそうです」
冷淡でも厳しくもない、ごくありきたりな口調だった。
子供らしい高い声で、無邪気に笑っているようにすら聞こえる。
今となっては、それこそがひどく恐ろしいもののように感じた。
「二年の猶予があります。待ち構えるつもりで支度なされよ」
あの望月様へ気負うこともなく命じ、望月様もそれを当たり前のように受けている。
どういうことだ?
望月は今川に下ったのか? 海野はどうなる?
―――因果応報。
囁く声が耳に蘇ってくる。
次郎三郎は大広間の中央に立つその姿を、震えながら見つめた。
ああ、この御方はすべて御存知なのだ。
そう悟った瞬間、全身から力が抜けていく。
「……御温情ありがたく」
ややあってそう言った望月殿の声は、静かな広間に重い響きを伝えた。
この時点ではまだ、母と弟たち、松姫とその子供たちが無事保護されたことは知りません
心情もまだ海野寄りです
憎しみを向けている相手はお尚の方のみです
どうしよう、この子の話がどこまでも書ける気がしてきたw




