望月(6-1)
その背中は小さく、華奢で、同じ年頃の娘よりずっと幼く見えた。
予備知識がなければ、その姿を見過ごしていただろう。
隣にいる立派な身なりの少年や、物々しく武装した将らのただ中に交じれば、わかっていても初陣の小姓にしか見えない。
望月は、見覚えのある老将に気付き目礼した。
立科に続く街道沿いを、今川の小荷駄隊が通るとあらかじめ聞いていたので、幾人かに見張らせていた。
彼らが襲われていると聞き、多少その逃走に手を貸した。言葉は交わしていないが、互いの顔が分かる距離で視線が合った。
負傷していたように見えたので、気にはしていたが、大きな怪我ではなかったようだ。
老将は望月に気付いて、ひとりの幼げな子供に声を掛けた。
当初はこちらに背中を向けていたその少年が、何かを耳打ちされて振り向くまで、本当にその御方が目的の人物なのか確信はなかった。
ひと際小柄な子供だ。再び、幼い望月の娘よりも線が細いと思った。
だが目があった瞬間、あり得ないほど強烈に、報告が事実なのだと悟った。
今川の若き当主は、名乗らなかった。
それは、名乗らずともわかるだろうという傲慢さではなく、わからないのならそれでよいという、ある種の余裕に見えた。
これが駿河の竜か。
伝え聞く噂は荒唐無稽なものが多かったが、あながち作り話だけではないのかもしれない。
挨拶の口上を述べながら、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
「天気も良い、少し歩きましょうか」
こちらがあまりにも緊張して見えたのだろうか。
我が子ほどに年の離れた相手に、気を使わせてしまった。
望月は、うまい具合に言葉が出ない自身の不甲斐なさに歯噛みした。
にこやかにほほ笑むその御方は、どんなにひいき目に見ても荒事向きには見えないし、口調も表情も温和だ。
にもかかわらず、肌にピリピリと伝わってくるのは何だ? ……苛立ち? 怒り?
表面上のにこやかさがむしろ恐ろしく、首筋がやけにスースーする。
望月の方が力も強く、武器さえ使わずともその細首をへし折ることができそうなのに、絶対にこの手は届かないという確信があった。
逆に、視線ひとつでこちらの首が落とされそうだ。
それほどまでに怒らせるようなことをしてしまっただろうか。
……いや、不甲斐ない佐久の現状にこそ、腹を立てておられるのだと思う。
武田の兵が乱取りをしながら周辺を荒らしている事を知っていた。
知っていて、手をこまねいていた。
いずれ来るであろう襲撃に備え、領内の守りを固くすることを優先し、方々からやってくる援軍要請に申し訳程度にしか兵を割けなかったのだ。
やむを得ない、仕方がない。本心からそう思ってはいたが、今になってみればただの言い訳だ。
今川軍は千五百。少ない兵数ではないが、大軍とも言えない。
しかも当初の武田軍よりも劣る兵数だったにもかかわらず、今川軍は迷いなく武田と対峙した。
佐久とは何の関わりもない今川軍が立ち塞がったのに、我らはそうしなかった。何故か?
ただ我らにそうするべきだという信念が足りなかっただけだ。
武田兵は確かに強い。だが、歯が立たないほどというわけでもない。
望月にとって、それは新鮮な気付きだった。
「伴野家にいる三四郎殿とは御親戚ですか?」
あまりにも緊張していたので、何を問われたのか理解するのが遅れた。
「……遠縁ではあります」
伴野の家老を務める望月家は確かに遠縁だが、祖父の代よりも前に分かれているので付き合いはほぼない。
「そうですか。若いのになかなかしっかりした子でした」
この御方が気になさっているのなら、目を掛けるべきだろう。
名を何と言った? 三四郎? 望月家でよくつけられる仮名だ。
話しているうちに、いつのまにか川べりまで来ていて、二人で並んで立っていた。
陽光が水面に影を落とし、その大小でまた相手の小柄さを感じた。大げさでも何でもなく、胸元近くまでしか背丈がないのだ。
出会ってまだ四半刻ほどなのに、何度この事で驚けばいいのだろう。
「手づかみでも取れそうですね」
ひどく穏やかな口調で紡がれた言葉に、やはりそう来るかと身を強張らせた。
「……佐久のことでしょうか」
これ以上無様をさらすわけにはいかないと、奥歯を食いしばりながら問い返すと、小さな顔がこちらを振り仰いだ。
陽光がその色白の容貌を余すことなく照らし出し、眩し気に瞬く双眸がゆるりと細められる。
「違いますよ、魚です」
こてりと傾いた首は細く、その面立ちはあどけないほどなのに、笑みの消えた表情に背筋が凍る。
「……違いますよ」
重ねてそう言われ、ため息をつかれた。
否定するその言葉を、額面通りには受け取れない。
つまりは「今はまだ」ということなのだろう。
その後何故か釣りをする事になり、わざと下手な振りをしてこちらに合わせてくれていることに気づいた時、嵐のようだった望月の心中が、ストンと落ち着くところへ落ち着いた。
目の前の小さな竜は、はるかに年上の愚かな男に、戦い方を教えてくれていた。
限られた場所だけを見ていてはいけない……と。
常識だけに囚われていては、生き残れない。力がないと嘆くよりも、知恵を絞り策を練るのだ。
それこそが、生き延びるための唯一の手段だ。
「正面からぶつかる必要はない」
そう言いながらうっすらと笑う横顔を、瞬きすら忘れ凝視する。
「そろそろ武田の尻に火が付く」
望月は、いずれこの御方が武田を下す事を確信した。
その後に佐久にも勢力を伸ばすだろう。……いや、遠江と接している伊那のほうが先だろうか。
どこまでも大きくなる竜の姿が、目に見えるような気がした。
わざと下手な振り……ではありませんw




