8-6 信濃 小県 太平寺城6
望月殿はもう一度丁寧に孫九郎に向かって頭を下げた。
それはさながら、主君に対する臣従の礼のように深々としたものだった。
そう思ったのは孫九郎だけではないようで、今川勢以外の者たちが不安と不審の表情で顔を見合わせている。
「しばし時間を頂けぬでしょうか」
床に向けて放たれた声は、幾分くぐもってはいたが、はっきり聞き取れた。
「必ずやご期待にお応えいたします」
「望月殿!」
上座の方から、非難の声が上がった。
「……」
望月殿はそれには反応せず、じっと平伏し続ける。
やがて騒めいていた大広間が、再び息をのむような沈黙に覆われた。
孫九郎は無言でその頭を見下ろし、ややあってため息をついた。まずはここまで言う望月殿に真意をたださねばならない。
だが、口を開く前に動いた者がいた。
「……ま、待たれよ」
大きな声ではなかった。
それどころか、まともに発語もできていなかった。
舌が張り付いたような口調。たった一言でわかる、病的なたどたどしさ。
水を打ったような大広間の、そこかしこから息を飲む声がした。
さすがの望月殿もぎょっとして身体を起こし、最上座へと顔を向ける。
海野殿は肩で数回大きく息をしてから、胡坐をかいていた足を立てて腰をうかせようとした。
だがその身体がぐらりと大きく傾ぐ。
「父上!」
隣に座っていた嫡男が慌てて手を伸ばしたが、海野殿は身振りでそれを遮った。
完全に足腰が立たないというわけではないようで、多少まごつきはしたものの、なんとか自力で立ち上がる。
ただその右腕は身体の前で固まったままで、先程からずっと腕組みをしていたのはそれをごまかすためだったようだ。
こちらに近づこうと歩き始めたが、右足を引きずっている。
明らかな右側の半身麻痺だ。左脳付近に深刻な問題があるのだろう。
現代医学なら脳腫瘍やら他にも原因を探れたかもしれないが、この時代ではその手の症状の病は大概「卒中」と呼ばれる。
他ならぬ孫九郎の実父、先代の今川当主が長年苦しんだ病でもあった。
海野殿の顔色はそれほど悪くもなく、痩せ衰えているという感じではない。
つまりは急性のものではなく、しばらく前から徐々に症状が重くなってきたという事だろうか。それとも、発作が起きたのはかなり前で、そのことをずっと隠してきたのだろうか。
どちらにせよ、ここまで悪化しているのを、家臣に悟られないようにするのは大変だっただろう。
海野殿は慎重に足を進め、孫九郎のそばまで来た。
そして、倒れ伏している三輪御前を庇うような位置で、崩れ落ちるように腰を落とす。
「……殿っ」
「もうよい」
柳眉を逆立て、何かを言おうとした三輪御前を制し、海野殿はゆっくりとした動きで頭を下げた。
「大変、もっ、申し訳なかった」
聞き取り辛い口調だったが、その忸怩たる思いが伝わってきた。
長くその体勢を取り続けることができないのだろう、海野殿はまた苦労しながら顔を上げた。
「し信頼を……うう裏切るような真似をして」
舌を動かすのも大変そうなたどたどしさで、伝えようとしているのは……言い訳か?
「だが……これより先は、うう海野家の問題だ」
余所者が口を挟むなと? 叔父の立場も心遣いも無駄にしておいて? 代わりに村上と戦ったのはどこの軍だと思っているのだ。
できるだけはっきり喋ろうと悪戦苦闘している様は同情できなくもない。
だが、病に侵されていることは何の理由にもならない。
海野衆から見た今回の村上の侵攻は、結果だけを見れば、なんとか軟着陸できたと言えなくもない。
今川が軍を率いてくるなど計算できるはずもなく、本来は武田軍にその役目を担ってもらう予定だったのだろう。
自らが先頭に立って戦うことができないことと、村上を防ぎきるのは兵力的にも困難だということ。
その二つの現実を前にして、海野が生き延びるために武田と組むことにしたのならば、やはり源九郎叔父の存在は邪魔だ。
武田殿の妹が生む子に海野を継がせることが条件に入っていないはずはなく、なにより源九郎叔父は武田にとっての宿敵、福島家の出なのだ。
城から出して外に屋敷を構えさせたのも、もしかすると、穏便に出て行ってもらおうという意図があったのかもしれない。
だがわかっているのだろうか。武田と組むということは、その軍を小県まで入れるということだ。
道中にある佐久が乱取りの憂き目にあう可能性は十分に予想できたし、実際その通りになった。
つまり村上の侵攻を防ぐために、それを良しとしたのだ。
望月殿にとって、一連の海野の動きは裏切りでしかないだろう。
「滋野三家のとりまとめは、望月殿がなさったほうがよさそうです」
数秒のうちにそれらの事を読み取って、孫九郎は結論を出した。
これ以上言うことは何もない。今川家は関わらない。
言外にそう告げると、ふらつく父を支えようともせず、上座でおろおろとしていた嫡男が、顔色を変えた。
……いまだに誰からもその名を聞いていないということだけでも、すべての関係者からものの数に入れられていないのがわかる。
海野殿も三輪御前も、病床にいたほうがいいと素人目にもわかるこんな男に、今の情勢がさばけると本気で思っていたのだろうか。
まあ、その任せた結果が今の海野衆なのだろう。
つまりは、「及第点には遠く及ばず」だ。赤点だよ赤点。
現代日本では、何かに失敗しても挽回の機会があった。だがここ戦国の世においては、一度の失敗が許されないこともある。
孫九郎は今更こちらへ駆け寄ろうとした嫡男から、ふいっと視線を逸らせた。
病だとか、刀を持って戦えないとか、そんなことは言い訳にもならない。
極端な話、当主が最前列で戦う必要などないのだ。
孫九郎しかり、先代の今川家当主しかり。
三十路になるまで、そのハンデを何とかしようとしなかったことこそが問題だろう。
「二年の猶予があります。待ち構えるつもりで支度なされよ」
望月殿は、やけに昏い目つきで海野殿を見据えていたが、孫九郎のその言葉にハッとしたようにこちらを向いた。
「……御温情ありがたく」
しばらくの沈黙の末、望月殿は静かにそう言って、両手を前についた。




