8-5 信濃 小県 太平寺城5
孫九郎は海野殿から視線を離さずにいたので、その渋い表情がわずかに緩んだのに気づいた。
同胞たちが援軍に来てくれたと思っているのか?
海野ほどではなくとも、その息子の露骨に安堵の表情を見れば、彼らの中で事態がどのようにとらえられ、おそらくは最後の勝負に勝ったとでも思っているのが伝わってくる。
海野の一族は古くは滋野と言い、大きく三つの分家に分かれた。
そのうちのひとつが望月であり、望月殿が前日夜に向かった根津もそうだ。
同じ血を受け継ぐ三家ではあるが、ここまでの劣勢の中、無条件で味方に付いてくれると思うのは楽観的過ぎる。
実際のところ、望月殿を呼び寄せたのは孫九郎であり、海野が望むような援軍ではない。
「おお! 望月殿! 根津殿!」
嫡男の声は早口で細かった。よろめきながら腰を浮かせ、張り付けたような歓迎の笑みを浮かべる。
「よう来てくだされた、こちらへ……」
孫九郎へは挨拶のひとこともなく、礼を尽くすどころか非礼の嵐だったのに、同族に対してこれはない。
たとえば今川とはここで物別れになるのだとしても、最低限の礼儀というものがあるだろう。
孫九郎はいまだ立ち尽くしたままだ。挨拶どころか声すら掛けられていない。
……人として当たり前の礼儀すら必要ないと思われているのなら、「そうか」としか言うことはないが。
誰が何かを命じたわけでもないが、孫九郎と源九郎叔父を除く今川側の全員が、刀あるいは槍に手をかけ身構えた。
それは海野の態度に腹を立てたというのもあるし、後方から来た望月殿ら数名を警戒したというのもあるだろう。
孫九郎は止めなかった。
広間を埋め尽くしているほとんどが海野衆であり、連れてきた今川勢の多くは大広間の外だ。
この場面だけを切り取れば、状況は海野有利に違いないのに、下座方向にいた海野衆が一斉に逃げ腰で身を引いた。前列にいる家老格たちも、青ざめた顔ですぐに動けるよう膝立ちになっている。
立ち上がりかけていた嫡男が、言葉を飲み顔から血の気を引かせた。
「こ、これはどういう」
状況が呑み込めなかったのだろう、望月殿の後ろから大広間に入ってきた男が、困惑したような声を上げた。
海野殿より少し若く、小柄で痩せた男だ。根津殿だろう。
新たに大広間に登場した、望月殿も根津殿も後続の数名も、しっかりと鎧兜を身にまとっていて、ますます海野衆の軽装が異様に見えた。
「ああっ、根津殿! 望月殿!」
そこで嫡男の正室が計ったように憐れな声を上げ、ボロボロと涙をこぼすものだから、更に大広間は微妙な空気で満たされた。
まだ続けるのかと辟易しながら一瞥すると、怯えた様に身を縮ませ嗚咽が大きくなる。……いや、無理があるだろう。
だが非力な女の涙というのは武器だ。初見でこの状況をどう思ったのか、来訪者たちは誰を咎めればいいのかわからないといった表情で大広間を見回している。
その中の唯一の顔見知りである望月殿が、何かを言おうとした根津殿を制した。
むせび泣く声が大きくなったが、孫九郎は表情を変えず、望月殿は苦虫をかみつぶしたような顔をしている。
何とも言えない数秒の間の後、望月殿が歩を進めた。大勢がひしめく大広間の真ん中を、迷いのない足取りで近づいてくる。
望月殿は孫九郎から少し離れた位置で立ち止まり、その場に胡坐をかいて座った。
そして、床に額を押し付けるほど深く頭を下げる姿に、周囲からどよめきが上がる。
「も、望月殿」
上座から、咳払いと同時に声を掛けられたが、望月殿は顔を上げなかった。
「大変申し訳ございませぬ。ここへ来るまでに手間取りました」
「……そうだろうとは思っていました」
ここまで低頭されると、怒りのボルテージも収まってくる。
孫九郎は「ふう」と息を吐いて、若干肩から力を抜いて望月殿に向き直った。
「和睦の条件を勝手に決めさせてもらいましたが、不服なら村上方に申し出てください」
ありのままに和睦の条件だけを語った結果、返ってきたのは安堵のため息が過半数。
視界の隅で、裏を読んだ二木が口に手を当てた。
こんなところで素を出すなよ。爆笑するのは後にしてくれ。
過半数の安堵の空気とは真逆に、海野殿の顔色は悪い。
「ともあれ今川は信濃から引き上げますので、和睦を受けいれる事をお勧めします」
「待って下され!」
根津殿が引きつった表情で声を上げた。
「二年の猶予はありがたいが」
「これ以上あてにされても困ります」
そのにべもない応えに、根津殿はこちらをまじまじと見て、孫九郎が元服しているようにも見えない少年だという事実を改めて認識したようだった。
ぽかんと口をあけて、誰かに助けを求めるように周囲を見回し、いまだ頭を下げている望月殿を見てさっと顔から血の気を失せさせる。
今川家当主が太平寺城に来ていると聞いても、本心から信じてはいなかったのだろう。……それはそうか。
望月殿がゆっくりと顔を上げた。
その厳しい表情が、この男が事態を正確に理解したのだと告げている。
海野家は確かに同じ血の一族だし、望月から見れば総領家なのだろうが、だからといって許容できないこともある。
「村上との和睦の件、某が直接出向いて了承して参ります」
「……それがよろしいでしょう」
孫九郎は、真顔の望月殿にじっと視線を返しながら頷いた。




