8-4 信濃 小県 太平寺城4
孫九郎はゆっくりと上座に向かって歩いた。
行く手を遮ろうとしたのはごく少数だ。その者たちも、孫九郎の顔を見ると気圧された様に後ずさる。
大広間とはいえ、せいぜい教室ふたつ分ほどの広さなので、ゆっくり歩いてもすぐに上座に到着する。
「待て!」
その半ばまで進んだところで、三輪御前に呼び止められた。
だが孫九郎は、視線をまっすぐ前に据えたまま気にせず進む。
背後から慌ただしく床を蹴り、裾をさばく音がした。
「ああっ」
おそらくはこちらに来ようとして行く手を遮られたのだろう。
木の硬い床に転ぶ痛そうな音と、哀れを誘う悲鳴。
三輪御前が転んだところで腰を浮かせた嫡男と、ピクリとも動かない海野殿の表情が対照的だ。
孫九郎は、上座に座る親子から数メートルの距離で足を止めた。
変わらず座り続けている海野殿の視線が、鋭く強い。
さすがは老練な戦国の男という感じだが、体調がすぐれないのがはた目にもわかった。
視線が重なって数十秒、沈黙が続く。
「なるほど、それが海野の答えか」
孫九郎の問いに、海野殿はやはり無言を保つ。
緊迫した沈黙は長かったが、それによりはっきりわかったことがある。
海野殿の決意は固いということだ。
「海野とは、たった今をもって手切れとする」
孫九郎のその言葉に、大広間に集まっていた男たちにどよめきが走った。
そもそも海野が今川と結んだという事実はない。福島家から婿養子をとったから、自動的に今川とも縁続きになっていただけだ。
「新之助殿を無意味に失い、我が叔父上ももはや勝手には使えぬ。せっかく和睦の話も出ているのに、それも流すか」
そちらがそう出るのであれば、物別れで終わりでいいだろう。
孫九郎は「そんな」「何ゆえに」と今更慌てる海野衆の様子に、彼らが何も聞かされてはいなかったのだと察した。
彼らがどんなに村上に囲まれても慌てなかったのは、今川だけではなく武田も援軍に駆けつけると聞いていたからか。
「一応言うておくが、武田は佐久から敗走した。海野平へ援軍を出しはしないだろう」
孫九郎が冷ややかにそう言うと、海野殿が初めて表情に強く渋いものを浮かべた。
家臣たちには隠しておきたかったのか? 海野殿自身、武田の血を引く子が跡継ぎになるのであれば、援軍を出してくれると信じていたのかもしれない。
「嘘です!」
ずいっと鮮やかな女性ものの着物が視界に過った。
三輪御前が孫九郎の前に立ちふさがったのだ。
誰かが止めたはずなのに、振り切って来たらしい。
怒り心頭の表情で上から見下ろし、肩を大きく上下させている。
「他国者の子供のいう事など信じてはならぬ!」
声は甲高く、必死だった。
それは、物知らずやプライド故に我を通しているというよりは、何かを庇うような表情に見えた。
「下がれ」
髪は乱れ、固く結んでいたタスキは解け、ある意味憐れを誘う風情だったが、孫九郎はまったく心を動かされなかった。
新之助殿や叔父の顔面を殴りつけたというだけでも、そこにどんな理由があろうと同情はできない。
孫九郎は、平手打ちしようと振り上げられた細腕を見上げた。
真正面からその見開かれた双眸を覗き込み、確信がより強まった。
「なるほど」
孫九郎の平然とした口調に、三輪御前は手を上げたまま凍り付いた。
「夫と息子の不始末を一身に負う気か」
「な、なにを」
彼女はわかっていてやっている。ヘイトを自身に集め、今川を切り武田と結ぶという失策をうやむやにしたいのだ。
「だが残念ながら、尻ぬぐいするには遅すぎる」
「……っ」
意を決して振り下ろされた手は、さすがに避けさせてもらった。全力を込めていたのだろう、勢い余って身体のバランスが崩れる。
三輪御前の痩せた身体は、再び勢いよく床の上に打ち付けられた。
転んだというよりは、孫九郎の護衛たちにより容赦なく撃退されたのだ。
普段よりマイルドな対処法だったのは、さすがの谷も空気を読んだのだろう。……どこがマイルドかって? 背中を踏んだり後ろ手に組み伏せたりしていないからな。
「義母上さま!」
悲鳴のような女の声が上がった。
駆け寄ってくる青い打ち掛けが、わざとだろう、孫九郎を突き飛ばさんばかりの軌道で大広間に駆けこんできて、三輪御前に縋りついた。
「非力な女子に手を上げるとは、なんと酷い!」
更には失笑したくなる戯言を言ってきたので、「殴られかけたのはこちらのほうだが」と突っ込んでおいた。
そもそも非力な女子なら、薙刀を振り回して男の顔面を殴りつけたりしないだろう。
「ああ、血が出ておりまする! どこかお怪我を」
「叔父上の血だ」
この手の言いがかりは、たわごとだと聞き流しても事実のように流布されるものだ。
言いがかりを一つ一つ丁寧に潰して、睨みあげてくる女を見下ろし、ため息をついた。
薹が立ってはいるが美しい顔立ちのその女は、嫡男の正室だろう。名前は知らない。
女には女の戦い方があるのは知っているし、それが間違っているとは思わないが、同じ土俵で戦ってやる気はない。
「悪あがきをしても無駄だ。既に事態は決した」
悔しそうに歯噛みしているのは、いまこの城が置かれている状況を、周囲の海野衆より理解できているからだろう。
孫九郎は再び海野殿とその嫡男に目を向けた。
嫡男はやはり腰を浮かしているが、海野殿はこの期に及んでもなお腕組みをしたまま動いていなかった。
「決戦をして滅びたいのであれば好きにすればよい。我らが付き合ってやる義理はない。叔父とその妻子は引き取らせてもらう。不要なのだろう真田の一族ももらい受ける。文句はないな」
「お、お待ちください!」
孫九郎が言い放つと、海野衆の前列にいた男が叫んだ。
「和睦とは! 村上との和睦とはどういうことですか!」
やけに大きなその声は、絞められる寸前の悲鳴のようだった。
……そこからか。
強引に何とかしようとするのではなく、まずは彼らに相談するべきだった。
失策だったと素直に認め、頭を下げていればまだよかったのだ。
見ろ、懐疑の目が海野親子に向いている。
古くからの主従でも、いったん信頼を失えば、それを取り戻すのは難しいんだぞ。
叔父や新之助殿に対してもそうだ。人質を取ったり刺客にするなどという真似をせず、「どうか力を貸してくれ」と頼んでいれば、無下にはされず解決方法を共に考えてくれただろうに。
もはや何もかもが遅い。
下手なプライドに邪魔をされ、失策を受け容れることができなかったがために、おそらく海野の命運は二年と持つまい。
「も、申し上げます!」
広間の前で大声を張ったのは、胴丸を身に付け刀を手に握った若い武士だ。
急を告げたはいいものの、刀を持っているので今川勢に警戒され、中腰の偉いさんたちの凝視も浴びて、顔面から血の気を失せさせている。
状況はわからなかっただろうが、かろうじて、やるべきことは忘れなかった。
「も、望月様、根津様がいらっしゃいました!」
若干裏返ったその声に、大広間に再びざわめきが走った。




