7-7 信濃 海野平5
丁寧に頭を下げる武人に、誰もが警戒を隠さなかった。
まあ確かに、この男なら無手であろうと子供の細首をひねりつぶすなど簡単だろう。ぶっとい足で蹴るだけでもいい。華奢な背骨がポキリと折れる未来が見える。
「安中殿によりますと、村上家は和睦を希望。条件についてはご当主直々に話をしたいとの事です」
二木が不遜さを隠さない口調で吐き捨てた。更には、客人の前でチッチと舌打ちまでしやがった。
そうか。そんなに気に入らないか。
二木が不服な理由はわかっている。戦の決着がつかないままの不完全燃焼だからだ。
勝てそうな戦に、途中で相手から「待った」をかけられた。
だが、そもそも今川家だけが戦っているこの状況がおかしいのだ。
「二木」
孫九郎がちょいちょいと手招くと、二木はむっと唇を尖らせた。
それでも命令に従って近づいてくるだけマシだ。この男は基本、父のいう事しか素直に聞かない。
ガシャリガシャリと鎧の音を立てながら近くに来た二木の鼻先で、孫九郎は予備の扇子をパチリと閉じた。
「うっ」と声を漏らし顎を引き、鼻を押さえたところをみるに、今となっては遥か昔に、鼻の穴に扇子を突っ込まれて大出血した事を思い出したのだろう。偶然にもあの時と似た真っ白の扇子だし。
「行儀良くしろ」
「……は」
二木の引き結ばれた唇は、まだ不服の意を漂わせている。仕方がない奴だ。
孫九郎は溜息を飲み込んで、近くまで来はしたがふてくされてそっぽをむいている男に顔を寄せた。
「これは我らの戦ではない」
さりげなく口元を隠し、安中殿には聞こえない程度の音量で囁く。
「むしろお前の得意分野だろう。後れを取るな」
兜で影になっている二木の凝視が孫九郎を射抜いた。何を驚いているんだ。しっかりしてくれ。
脳筋集団福島家を、前線で運用し続けほぼ負け知らず。
父という派手な槍働きをする主君の影になって目立ちはしないが、この男がいなければもっと勝率は悪かったはずだ。
かなり父の尚武の気質に引っ張られ、本人も妄信が過ぎるところがあるが、二木の本領はその緻密な軍略だ。
ちょっと考えるとわかりそうなものだが、ここで今川軍が戦って得るものは何だ?
海野の肩代わりをして、兵をすり減らす気などないぞ。
「海野は何故出て来ない?」
今度は、安中殿にも聞こえる音量で口を開いた。
「よもや我らに戦わせて高みの見物か?」
「……」
二木の視線が若干泳いだ。
戦いに勝つことに主眼を置きすぎて、ここに何をしに来たか忘れていたとか言わないよな?
二木はしばらく……といっても十秒ほどだが押し黙って、その間に考えをまとめたようだった。
「和睦の話し合いは、太平寺城にてという事に致しましょう」
「海野殿は籠城しているようだが」
「我らに村上と戦わせて城に籠っているのもおかしな話です。源九郎さまであれば、海野殿を説得できるでしょう」
孫九郎は軽く二度ほど頷いた。
それでいいと目配せをすると、二木は寸前とは打って変わって冷静な表情で安中殿を振り返った。
「刻限は一刻後でいかがか」
二時間というのは長いようで短い。そもそも太平寺城が大手門を開くかも……ああそうか、二木お得意の恫喝か。
村上と今川の双方からせっつかれたら嫌とは言えまい。
「それではいったんの休戦でよろしいか」
こちらのやり取りを興味深げに見守っていた安中殿が、鷹揚に笑みを浮かべて言った。
体格に見合った太く低い声だ。
「いったんもなにも既にもう」
孫九郎は、余計な事を言いそうになった二木の足を思いっきり踏んだ。固い踵がないから革足袋の上から小指の先を狙った。さすがに痛そうだった。……反省しろ。
「かまわない。村上殿によろしくお伝えください」
じっと見つめられて、こちらも見つめ返す。
孫九郎がニコリと笑顔を浮かべると、安中殿もふわりといい感じの笑みを返してきた。
……見習えよ二木。これが「社交辞令」ってやつだぞ。
引き上げていく後ろ姿を見送っていると、あちこちから長く息を吐く音が聞こえた。
そうだよな。怖かったよな。
穏やかそうに見えて、妙な圧のある男だった。
「囲っている村上兵はどうしますか」
今川軍のほのぼの担当天野殿が、若干の間延びした声で言った。
孫九郎はその朴訥とした顔を見上げて、安中殿と天野殿の奇妙な共通点に気づいた。
ここにいる者は、血まみれで戦う天野殿を知っている。
ほのぼのと笑いながら、返り血を拭う様を何度も見た。
安中殿は傍目にもわかる歴戦の武士だ。あの穏やかな表情のまま、敵の首を刈り取るのだろうか。
……うわ、今ぞわっと鳥肌が立ったぞ。
「お勝殿?」
「ああ、うん。とりあえずはそのままで。和睦が成立するか否かはまだわかりません」
孫九郎は両手で腕を擦った。
「それより急ぎ対処しなければならない問題があります」
「何でしょう」
どこからどう見ても近所のおじちゃん、気のいい農夫のような面立ちを見上げ、同じ癒し系枠ならこっちの方がいいなと納得する。
「一刻後ということは、すぐにも川をわたる用意をせねば」
天野殿はその小さな目をきょとんと瞬かせ、細長い顔を傾けた。
彼にはわからなかったようだが、それを聞いた孫九郎の側付きたちが一斉に慌てたように動き始めた。
……そうなんだよ。小柄な子供が川を渡るって、結構大変なんだ。




