6-6 信濃 倉見城付近3
幸松にははっきりと言わなかったが、総大将の最も重要な役割は「ここに総大将がいる」と知らしめることだ。
そう、味方だけではなく敵に対しても。
総大将さえ討てば勝ったも同然。そうとも言い切れない場合はもちろんあるが、たいていの場合はそこで勝敗が決まる。
特に経験不足で非力な総大将など狙い目だろうし、おそらく武田や芦田がそう思うのは織り込み済みだった。
囮にするなどと、そんな事を意図したわけではない。
そうなるのが必然というだけだ。
雨の降る中、小高い丘になった場所で、いくつもの軍旗とひときわ目を引く馬印とを高らかに揚げる。
ここが本陣だ、総大将がいるのだと、敵味方すべてにわかるように。
「始まったな」
孫九郎がそう言うと、子供たちの誰かがゴクリと唾を飲みこみ、呼気が荒くなるのが聞こえた。武者震いだと言い訳する必要はない。怖いのは大人も子供も武士も農民も同じだ。
おそらくは谷や渋沢、槍を持てば負け知らずの父でさえ、戦慣れしていない頃は怖かったはず。……たぶんだけど。
「幸松」
こわばった表情でやけに姿勢よく立っていた幸松が、一瞬間を置いてから「は、はいっ」と返事をする。
その表情にあるのが恐怖よりも緊張だと見て取って、孫九郎は頷き返した。
「前に立て」
雨の音に交じって聞こえるのは、大勢の人間が戦う音だ。
鋼が触れ合い、怒声が飛び交い、悲鳴も、何かがぶつかり合うような音も聞こえる。
暗がりで何が起こっているかはっきり見えない分、想像力が仕事をしてなおのこと恐怖をあおった。
孫九郎とて怖い。
戦は命のやり取りであり、一度始まってしまえば二度と引き返せない道だと知っているからだ。
だが、ここで臆するわけにはいかない。
「名乗りを上げよ」
大丈夫。皆が側にいる。幸松の背後では、大勢が気合を入れて守りを固めている。
一際大きな怒声が響き渡った。
山の北西側、あのあたりにいるのは二木らだ。奇襲兵相手に伏兵を仕掛けたのだが、気づかれてしまったのだろう。
「早う」
二木、ということは福島軍だ。
皆が歴戦の兵であり、おいそれと後れを取る事はないはすだが、相手は数で勝る。地の利もある。
任せっきりにするのではなく、こちらも予定通りに敵の目を引かなければならない。
もう一度促そうとしたところで、幸松がガシャリと鎧の音をたてながら前に一歩踏み出し、「すう」と大きく息を吸った。
「我こそは、今川軍総大将福島幸松である! 我らの前に立ちふさがる者どもよ、ことごとく踏み潰してやるゆえ覚悟して参れ! 御屋形様の御名にかけて、一歩たりとも引かぬ! 皆の者ッ! 向かってくる者に容赦はするな!」
おおおう、鼓膜がキーンとなったぞ。土井並みにバカでかい声だ。
だがこれぐらいでなければ、無線も携帯もない時代、周囲の全方向に意志は伝わらない。
この時代における声の大きさは、戦場においての必須要素なのだ。
体格もそうだが、そういうところも孫九郎よりはるかに素養が高い子だ。
「よう申した!」
孫九郎が、耳を塞ぎたい気持ちを我慢しながら言うと同時に、どっと周囲から歓声が起こった。
ドンドン! と大地を踏みしめ、今川の兵たちが鬨の声を上げる。
兵を鼓舞するというのは、なかなかどうして、馬鹿には出来ない。
「来るぞ!」
孫九郎は幸松に向かってそう声を掛けながら、よく見えない前方を見据えた。
雨が顔に吹き付けてくる。
目をこらしても見えるのは、夜の闇と、雨と、時折見える鋼が打ち合う火花だけだ。
どうしよう。こんなに暗いとは思わなかった。これでは敵も味方も判別できない。
同士討ちが発生してしまうのではないか? いや絶対に皆無ではないはずだ。
不意に、何かを感じて視線を横に向けた。
何を感じたのか、具体的に言葉にするのは難しい。
殺気? いやそんなものを察知できる特殊技能などない。
孫九郎が感じたのは、おそらく弓弦の音か、矢羽根が風を切る音か。あるいはこちらを狙い定める掛け声だったのかもしれない。
そんなもの、この雨と剣戟の中では聞き分けるなど無理のはずなのに、はっきり左手の斜面から「来る」とわかった。
だが動いたのは、孫九郎ではなかった。
幸松が孫九郎の前に立ちふさがったのだ。
思わず舌打ちしてしまった。
幸松にしてみれば、重い鎧兜を着ている分孫九郎よりは防備が固いので、盾になろうとしたのだろう。
だが、弟に守られる云々はさておき、総大将がするべき行動ではない。
幸松は孫九郎よりも体格が良く、鎧兜を着ているので小柄な成人男性並みに嵩がある。
そんな体重マシマシな身体で突進されて、吹き飛ばされなかったのは幸運だった。
ぶつかる寸前、かろうじて身体を捩じって勢いを逸らせたのだ。
同時に矢が目の前を通過した。
幸松と孫九郎との丁度中間あたりだった。
勢いあまった幸松が、手を伸ばして支えようとした小姓らを巻き込んで体勢を崩した。
鎧兜は重いから、バランスを崩せばそのまま勢いをつけて転んでしまう。
だが見ていたぞ。
谷……お前今、幸松の足を引っかけただろう。突っ立っていては的になるだけだという理屈はわかるが、足元はぬかるんだ斜面なんだぞ。そのままゴロゴロと行きつくところまで転がって、骨折などの大怪我をしたかもしれない。
更に追加で矢が降り注いだが、多くはなかった。
すぐに飛んでこなくなったので、射かけた奴らは早々に封じたのだろう。
想定は、本陣に突っ込んでくる奇襲部隊を四方から叩く、というものだったのだが。
矢が飛んでこなくなったのを見計らってから、足元で泥まみれで転がっている幸松に手を差し伸べた。
とりあえず立とうか。これだけの雨だから、泥汚れもきっとすぐに流れ落ちる。
油断していたつもりはない。
だが、遠距離武器である弓の攻撃は不発に終わり、ほっとしてしまったのは否めない。
「兄上!」と幸松が叫んだ。
孫九郎は、勢いよく身体をひねりながら、その場を飛びのいた。
今回は、背後だと察知した理由がはっきりしている。
大勢の視線が、その方向に向いていたからだ。
視界の隅に、雨をはじく鋼のぬるりとした光沢が見えた気がした。




