5-10 信濃 佐久前山集落外
天野殿が陣を敷いているのは、佐久の盆地を見渡せる川の近くだ。
小高い丘のようになっていて、丁度いい感じに四方に目を配る事ができる好位置でもある。
前山集落を背に守り、武田の本隊が去っていった川上方向にも、広がった盆地の方向にも、動きがあればすぐにわかる。
孫九郎は見慣れた萌葱の陣幕を目印に、足早にまっすぐ進んだ。
遠くからでも、その一部に赤い騎馬隊が混じっているのが見える。兵糧を積んだ小荷駄隊もいる。
ほっとしながら歩を進め、それぞれの顔が判別できるほどの距離まで近づいてから、漂ってくる血の臭いに気づいた。
頭を過ったのが、逢坂が本陣ではなく、天野殿のところに来てくれと言った理由だ。
まさか負傷したのか? だがその危惧は、馬の影からのっそり出てきた見慣れた赤い鎧兜姿に薄らいだ。
大きな負傷はなさそうだ。そう思いながら気を緩める寸前、真っ赤な鎧兜を彩る赤黒い色に目が留まる。
「……何があった」
襲撃があったのか。どこで? 誰からの?
諏訪が追ってきたのだろうか。ルートに含まれる芦田が待ち伏せていたのだろうか。あるいは……
「おそらく武田です」
孫九郎が問いたいことを正確に察した逢坂老が、しわがれた声で言った。
「佐久衆の中に、武田に迎合する者がいます」
「伴野もそうだったが、関係を切られたのではないのか」
孫九郎は、血まみれの逢坂と距離を詰めた。
兜の影になって見えなかったその皺深い双眸が、ひどく険しいことを見て取り、呑気にミツバチの事など考えていた自身に歯噛みした。
「前山をすぐに立ち去るべきです」
緊迫感のある口調でそう言われ、三四郎殿の顔が脳裏をよぎった。
迷ったのは、集落を守る兵がもはや百にも満たず、非力な女子供ばかりが大勢いるからだ。
「囲まれるやもしれませぬ」
一段低くなった逢坂の声に、みぞおち辺りに冷たいものを押し付けられたような、覚えのある危機感に見舞われた。
孫九郎はさっと周囲を見回した。
馴染みの顔ばかりだ。
遠江とも駿河とも全く関係のない場所まで連れてきた孫九郎には、大きな責任がある。
物見遊山に来たわけではない。死なせるために来たわけでもない。
「どこで、何者に、どれだけの数で襲われたか詳しく話せ」
鎧のない部分に手を伸ばし、ぎゅっと掴んだ。固く筋張った腕だ。まだ露骨に気が立っているのがわかる。
そして……やはりそうか。指先に触れる小具足の袖の部分が、生暖かく湿っている。
「……手傷を負ったな?」
「浅手です」
「すぐに陣払いの支度をさせる。弥太郎」
「はい」
「逢坂の治療を。土井」
「はっ」
「本陣を引き払う。皆に伝えよ」
孫九郎は指示だけをして、一斉に動き始めた周囲とは逆方向に進んだ。
出迎えてくれたのは天野殿だ。
その本陣の卓の上には手書きの地図があった。
視線が合って、頷くと、天野殿も険しい表情で頷いた。
「一気に海野荘まで行くべきです」
「囲まれないか? 逢坂が危惧している」
「武田が乱取りで荒らしております。反発する者も多いでしょう。ですが、乱取りを逃れるために膝を折るところもあるかと。用心は必要です」
土地勘がないし、各国人領主たちの人柄も知らないから、どういう対応をしてくるかわからないのがやりにくい。
孫九郎が地図を睨み据え、どこを通っていくべきかと迷っていると、天野殿は「下手に山を背にせず、見晴らしの良い川沿いを通った方が良い」と言う。
だがそれでは、武田に背後を突かれる可能性に加えて、予想外の多数に囲まれる危険がある。
ともに武田を前山集落から追い払った仲ではあるが、昨日の味方がそのまま今日も味方だとは限らないのだ。
しばらく無言で地図を見ていると、日差しが卓上に斜めに差し込んだ。
鮮やかな明るさが、木の枝を縫って斜めに紙の上を横切る。
不意に、天啓を受けた様に、その部分に視線が吸いついた。
しばらくして、手当てを終えた逢坂が戻ってきた。
謝罪しようとするのを手を上げて遮り、兜を外した皺深い顔が、先程よりは血色がよい事をちらりと横目で見て取る。
無言のまま、扇子の先で、光と影がくっきりコントラストを作っている部分を示すと、逢坂老は大きく二度ほど首を上下させた。
「……正体はわかりませんが、芦田家の領地のうちではありました」
やはり立科のあたりで襲撃を受けたようだ。
あらかじめ領内を通ることは知らせてあったし、それについて了承の返答をしてきておいて、寡兵とみるや兵糧を奪おうとしたのか。
果たしてそれは欲に駆られてか、武田に命じられてか。
「相手は名乗らなかったのか?」
「他国の兵糧を奪おうなどという輩は、堂々と名乗りはしませぬ」
「だが、襲撃を受けた場所が立科だったというだけでは弱い」
「旗指物もございませんでしたし、武装も貧相なものでした」
幾人かは生き残って、孫九郎らにその事が知られると見越してか。
山賊だったとでも言い張るつもりか? ……やってくれる。
そちらがその気なら、いいだろう。売られた喧嘩を高値で買ってやろう。
孫九郎は、コンコンと音を立てて地図を叩いた。
「まずは立科、それから海野だ」
通行の了承をしたのだから、通っても構わないよな?




