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春暁記  作者: 槐
信濃編

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43/304

5-10 信濃 佐久前山集落外

 天野殿が陣を敷いているのは、佐久の盆地を見渡せる川の近くだ。

 小高い丘のようになっていて、丁度いい感じに四方に目を配る事ができる好位置でもある。

 前山集落を背に守り、武田の本隊が去っていった川上方向にも、広がった盆地の方向にも、動きがあればすぐにわかる。

 孫九郎は見慣れた萌葱の陣幕を目印に、足早にまっすぐ進んだ。

 遠くからでも、その一部に赤い騎馬隊が混じっているのが見える。兵糧を積んだ小荷駄隊もいる。

 ほっとしながら歩を進め、それぞれの顔が判別できるほどの距離まで近づいてから、漂ってくる血の臭いに気づいた。

 頭を過ったのが、逢坂が本陣ではなく、天野殿のところに来てくれと言った理由だ。

 まさか負傷したのか? だがその危惧は、馬の影からのっそり出てきた見慣れた赤い鎧兜姿に薄らいだ。

 大きな負傷はなさそうだ。そう思いながら気を緩める寸前、真っ赤な鎧兜を彩る赤黒い色に目が留まる。

「……何があった」

 襲撃があったのか。どこで? 誰からの?

 諏訪が追ってきたのだろうか。ルートに含まれる芦田が待ち伏せていたのだろうか。あるいは……

「おそらく武田です」

 孫九郎が問いたいことを正確に察した逢坂老が、しわがれた声で言った。

「佐久衆の中に、武田に迎合する者がいます」

「伴野もそうだったが、関係を切られたのではないのか」

 孫九郎は、血まみれの逢坂と距離を詰めた。

 兜の影になって見えなかったその皺深い双眸が、ひどく険しいことを見て取り、呑気にミツバチの事など考えていた自身に歯噛みした。

「前山をすぐに立ち去るべきです」

 緊迫感のある口調でそう言われ、三四郎殿の顔が脳裏をよぎった。

 迷ったのは、集落を守る兵がもはや百にも満たず、非力な女子供ばかりが大勢いるからだ。

「囲まれるやもしれませぬ」

 一段低くなった逢坂の声に、みぞおち辺りに冷たいものを押し付けられたような、覚えのある危機感に見舞われた。

 孫九郎はさっと周囲を見回した。

 馴染みの顔ばかりだ。

 遠江とも駿河とも全く関係のない場所まで連れてきた孫九郎には、大きな責任がある。

 物見遊山に来たわけではない。死なせるために来たわけでもない。

「どこで、何者に、どれだけの数で襲われたか詳しく話せ」

 鎧のない部分に手を伸ばし、ぎゅっと掴んだ。固く筋張った腕だ。まだ露骨に気が立っているのがわかる。

 そして……やはりそうか。指先に触れる小具足の袖の部分が、生暖かく湿っている。

「……手傷を負ったな?」

「浅手です」

「すぐに陣払いの支度をさせる。弥太郎」

「はい」

「逢坂の治療を。土井」

「はっ」

「本陣を引き払う。皆に伝えよ」

 孫九郎は指示だけをして、一斉に動き始めた周囲とは逆方向に進んだ。

 出迎えてくれたのは天野殿だ。

 その本陣の卓の上には手書きの地図があった。

 視線が合って、頷くと、天野殿も険しい表情で頷いた。

「一気に海野荘まで行くべきです」

「囲まれないか? 逢坂が危惧している」

「武田が乱取りで荒らしております。反発する者も多いでしょう。ですが、乱取りを逃れるために膝を折るところもあるかと。用心は必要です」

 土地勘がないし、各国人領主たちの人柄も知らないから、どういう対応をしてくるかわからないのがやりにくい。

 孫九郎が地図を睨み据え、どこを通っていくべきかと迷っていると、天野殿は「下手に山を背にせず、見晴らしの良い川沿いを通った方が良い」と言う。

 だがそれでは、武田に背後を突かれる可能性に加えて、予想外の多数に囲まれる危険がある。

 ともに武田を前山集落から追い払った仲ではあるが、昨日の味方がそのまま今日も味方だとは限らないのだ。

 しばらく無言で地図を見ていると、日差しが卓上に斜めに差し込んだ。

 鮮やかな明るさが、木の枝を縫って斜めに紙の上を横切る。

 不意に、天啓を受けた様に、その部分に視線が吸いついた。


 しばらくして、手当てを終えた逢坂が戻ってきた。

 謝罪しようとするのを手を上げて遮り、兜を外した皺深い顔が、先程よりは血色がよい事をちらりと横目で見て取る。

 無言のまま、扇子の先で、光と影がくっきりコントラストを作っている部分を示すと、逢坂老は大きく二度ほど首を上下させた。

「……正体はわかりませんが、芦田家の領地のうちではありました」

 やはり立科のあたりで襲撃を受けたようだ。

 あらかじめ領内を通ることは知らせてあったし、それについて了承の返答をしてきておいて、寡兵とみるや兵糧を奪おうとしたのか。

 果たしてそれは欲に駆られてか、武田に命じられてか。

「相手は名乗らなかったのか?」

「他国の兵糧を奪おうなどという輩は、堂々と名乗りはしませぬ」

「だが、襲撃を受けた場所が立科だったというだけでは弱い」

「旗指物もございませんでしたし、武装も貧相なものでした」

 幾人かは生き残って、孫九郎らにその事が知られると見越してか。

 山賊だったとでも言い張るつもりか? ……やってくれる。

 そちらがその気なら、いいだろう。売られた喧嘩を高値で買ってやろう。

 孫九郎は、コンコンと音を立てて地図を叩いた。

「まずは立科、それから海野だ」

 通行の了承をしたのだから、通っても構わないよな?

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― 新着の感想 ―
逢坂老は身内認定だからね、傷付けられたらスイッチ入るよね。舐められたら後で手痛い目にあうから徹底的にね!
[一言] 堺雅人がここで、「倍返しだ!」 って信繁登場にはまた早いですな この物語を読みながら、頭の中で映像化しています。 誰が誰を演じたら良いだろうとか。 逢坂老は西岡徳馬が良いだろうなーとか
[一言] 芦田は武田に調略されていたのかね。 佐久衆がまとまらないように。今川の介入を知ってからはその妨害に使われたか。 芦田としては武田が優勢と判断して少数の今川軍輜重隊を襲ったけど、不幸にも直後…
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