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春暁記  作者: 槐
断章2

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304/304

一条愛 東宮御所1

 今川の治部大輔様。

 御所内では、たいそう恐ろしい荒くれ武士だと噂されている。身丈六尺を越える偉丈夫で、敵にも味方にも冷酷非道だと。

 女房たちはおしゃべりなので、好き勝手に言うけれども、"あにさま"がそのような御方ではないと、まなは知っている。

 最後にお会いしてから、もう四年になる。

 四年もあれば、背丈も伸びる。

 お人柄はお変わりないと思うけれど、愛が大きくなったように、あにさまの背も伸びているだろう。……六尺というのはさすがに言い過ぎだと思うけれども。

 見上げるように大きくなられたお姿を想像してみるのだけれど、うまくいかない。

 "あにさま"などと、親しく呼べた日はとても遠くて、今なお胸の奥が小さく疼く。


「姫様、宮様のお仕度が整いはりました」

「はい」

 呼ばれて、控えめな声で返事をする。

 ここは東宮御所。本来は東宮様おひとりの御座所であるはずの場所だが、今は違う。帝の御子の幾人かが、棟ごとに分かれてお住まいになっている。

 今日は、許嫁として初めて二人きりで対面する日だった。

 再び御所が大火に見舞われ、愛が嫁ぐ日は延び延びになっている。本来ならば、もっと早く進むはずの話であったのに、いまだ婚儀の日取りは定まらぬままだ。

 摂家の姫が入ること自体、久しくなかったと聞く。それゆえにこそ、皇家の威を世に示すのだと、父は語っていた。

 宮様がいずれ東宮に立たれ、そののち畏き座におつきになられれば――愛の行く末もまた、それに連なる。そう言い含められてきた。

 本当に長らく、その座は空いたままだったのだ。

 愛は複数の手を借りて立ち上がり、重い装束を引きずるようにして部屋を出た。

 穏やかな風が頬を打ち、ほっと息を吐く。

 これから始まる御所での日々は、きっと窮屈なものになるのだろう。

 土佐で過ごした数年が、いや、その前の、あにさまと歩いた外の世界が、色鮮やかな記憶として、今も胸の裡に息づいている。

 華やかさに乏しい御所の、庇の奥は薄暗い。

 愛にとってそれは栄達というよりも、どこか身を縛るもののように感じられた。

 ――いいや、そんなふうに考えてはいけない。

 愛は、自らの許嫁の顔を思い浮かべる。

 四年前の怪我から臥せりがちになってしまった宮様とは、これまで言葉を交わしたこともなかった。珍しいことではない。けれど、あにさまと比べてしまうのは、どうしようもない。

 嫌いというわけでは、もちろんない。これから夫婦として生涯を共にするお方なのだから。

 土佐には、折に触れて宮様から書簡が届いた。そのどれもが、気遣いに満ちた優しいものだった。

 それなのに、心の片隅にもう一人の影を残したままでいることに、申し訳なさがある。


「ようきはった」

 宮様は、俯いて歩く愛を迎え入れ、静かに頷かれた。

 優しい声だ。

 緊張していた愛は、「はい」と細い声で答える。

 東宮御所でもっとも日当たりの良い一棟、その広間に、宮様と愛が向かい合って座る。

 まだ正式な夫婦ではないため、密室というわけではない。だが、周囲には几帳が巡らされ、声の届くところに人の気配はない。

 優雅な香と、真新しい畳の匂い。

 遠くから聞こえる人の声と、かすかな気配が、この開かれた密室にいっそうの静けさをもたらしていた。

「土佐から無事に戻られたと聞いて、安心しました」

 丁寧で穏やかな口調に、勇気をもらい、顔を上げる。

 目が合って、細面で色白の宮様が淡く微笑まれる。

「はい」

 愛は頷き、少し安堵した。

 書簡の印象どおり、穏やかで優しそうな御方だと思ったからだ。

 このお方に嫁ぎ、生涯を共にするのだ。

 改めて、それを現実のものとして受け入れることができた。

「床上げをしたばかりとお伺いしました」

 愛が土佐から戻ってすでに半月は経っている。顔合わせの予定も、ずいぶんとずれ込んでいた。軽い風邪と聞いていたのだけれど……。

 宮様は少し困ったように息を吐き、頷かれた。

「迷惑を掛けます」

「いいえ、そのようなことは」

「姫が京に着かはったことも、同じ御所においでやということも、臥せっていたので知らされておりませんでした」

「……まあ」

 宮様が少し寂しげに仰ったので、愛は小さく首を振った。

 だが、それを当然のことのように受け止めておられるご様子が、胸に引っかかった。

「あの――」

「そろそろ、よろしいでしょうか」

 不意に、几帳の陰から声がかかった。

 少し前までは、確かにそこには誰もいなかったのに。

「宮様はお疲れでございます。また日を改めまして」

 柔らかな声の若い女房が、姿を見せる。

「朝霧」

 宮様が、ほっと表情を緩めた。

「宮様、お顔の色が悪うございます」

 愛は、問いかけようとした言葉を飲み込んだ。

 宮様の呼吸は浅く、顔色も青白い。向かい合っていた間、それに気づかなかった己を恥じた。

 あわせるように、さっと女房たちが現れる。足音も立てずに、愛を取り囲んだ。

 重い装束を着て、ひとりで立ち上がることもできない。

 そのもどかしさを抱えたまま、ゆっくりと腰を浮かせる。

「姫……すまない」

 青白い顔の宮様が、疲労のにじむ声で言う。

 その言葉が、体調のことなのか、あるいはそれ以外の何かを含んでいるのか……愛には判別がつかなかった。

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― 新着の感想 ―
夏颯記の方とごっちゃになりそうですが、こちらでは会ったのが2年前では? あと、春雷記では「幼馴染」とあったのですが、ここではほとんど初対面のような感じが気になります。
> 本来ならば、もっと早く進むはずの話であったのに、いまだ婚儀の日取りは定まらぬまま それは…時空を越えた読者の念が妨げているのではないかと思います!
宮様、やはり優しい御方のようですね。 しかし強さはあまり感じられないような・・・
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