断章2 北条葵(17以降)
父上が破れた。
北条家において、父ほどの武威を誇る武将はいない。
そんな父が破れ、あろうことか囚われの身となった。
それを聞いた時、葵の胸に浮かんだのは怒りだった。
もしこの身が男子であったなら、今こそ一族を率いて父上を御救いするのに。
周囲からの、これみよがしな嘲笑に唇をかみしめる。
何故あの者たちは笑う。
父上が破れたということは、北条家に泥がついたということだ。
北条随一の武将を敵国に奪われ、安穏と笑っているなど危機感に欠ける。
「姫様、姫様」
身を翻した葵を、護衛の市松が追ってくる。
追いつかれないように早足で歩く。
目に浮かんだ涙を見られたくない。
「おや、葵姫ではないですか」
その声を聞いて、血の気が下がった。涙も引っ込み、息すら止めた。
恐る恐る見た庭先に、ひとりの僧形。
派手ではないが、美しい生地の法衣を身にまとう男。
「このようなところで何を?」
声は優しい。姿かたちも、叔父というより従兄弟と言ったほうがしっくりするほど若々しい。
だが葵にとって、この叔父は、本能が「怖い」と囁く相手だった。
ぐっと唇を引き締める。
何かを言わねばならないとわかっているのに、言葉が出てこない。
口の中がカラカラに乾いて、膝が震える。
そんな葵の前に、市松が立った。
護衛らしいその動きに、叔父の近侍たちが不快の表情を浮かべる。
叔父である長綱様は僧侶だが、その周囲には常に大勢の取り巻きがいる。
僧侶もいるが、武士もいる。
彼らは口々に叔父を賛美し、崇拝していることを隠さない。
葵の目には、その陶酔が気持ち悪いものとして映っていた。
叔父は、父上とは違って北条家の嫡流ではない。出家してもいる。
それなのに、家中にこれほどの影響力を持っているなど、おかしいではないか。
ここは小田原城本丸御殿。
確かに葵が出入りを許された場所ではなかったが、わざわざ咎めたてられたことに悔しさが込み上げてくる。
「叔父上様!」
怖い。本当に怖い。
だが勇気を振り絞って声を張る。
「我が母への扱い、あんまりでございます」
葵の母は、小田原城で一番隅にある、古い建屋に押し込められていた。
一応城の中ではあるが、周囲はずっと身分が低い者がいる場所で、作りも内装も質素だ。
それまでは城から少し離れた屋敷に住んでいた。
父が捕らわれたと知らせが来てから、まるで罪人のような扱いで、城に連れてこられたのだ。
叔父は、絵巻物に出てきそうな美しい面をこてりと傾けた。
「何か不自由でも?」
不自由? あるに決まっている。
住まいは古く、変な臭いがするし、虫もわく。女中や端の態度も悪い。
そして何より……
「遠山を遠ざけた理由をお聞かせください」
遠山家は北条家の重要な譜代だ。これまでは父上の側近としてそばにあった。
「ああ、姫のお気持ちはよくわかります」
叔父は、まるで幼子をなだめるような口調で言った。
「ですがご心配には及びません。時がたてば戻ることもありましょう」
それはつまり、戻らないこともあるという意味だ。
葵にははっきりそれがわかったが、この場でそれを指摘することはできなかった。
もしこの身が男子なら。
再びその思いが込み上げてくる。
元服し、父の代わりに家門を率いていける年齢だ。少なくとも女中にまで馬鹿にされることはなかっただろうし、こんなふうに叔父にあしらわれもしないだろう。
「大丈夫ですよ。兄上の代わりに、我らがお守りします」
守る? 葵の胸に、強い反感が過った。
叔父は決して、母たちを守ろうなどと思っていない。
父上のご側室だった佐和殿と茜様が手討ちにされた。遠山も討ち死にした。それは確実に父上の勢力を削ぐ目的のもので、今度は父までもが敗戦の憂き目にあったのだ。
「……まさか」
ふと浮かんだ疑惑に、唇が震える。
父の敗戦も、この男の策なのか?
今川は大国だが、その当主はまだ幼い子供だと聞く。父上が、そんな国に敗れるはずはない。
恐る恐る見た先で、叔父が穏やかに微笑んでいる。穏やかに? ……いや、その目は冷やかだ。
「三の丸まで送らせましょう」
叔父は優しい口調でそう言って、また笑みを深めた。
怖い。怖いが……負けるわけにはいかない。
「叔父上様」
葵は気合を入れて声を張った。
「父上がお戻りになれば……っ」
だがそれも、長続きしなかった。
叔父がふっと、唇の端で笑ったからだ。
「ええ、きっとお戻りになられますよ」
明らかな嘲笑。
葵は臆した。そしてそんな己に、屈辱を感じた。
もしかするとこの男は、今川と手を組んで父を陥れたのかもしれない。
そんな疑惑が沸き起こってきたが、さすがに口にはしなかった。
父上は優しい御方だ。きっとその優しさを利用され、汚い手を使われて、膝を折ったのだ。
許さない。必ず真相を暴いてやる。
そう決意を固めながら、視線を伏せる。
叔父の指示で、六名の武士が前に出てくる。
葵は黙って、促されるままに本丸曲輪から出た。
乱暴な真似はされなかったが、それは明らかに強制的なものだった。
煮える腹に、ぐっと屈辱を飲み込む。
おのれらの顔は覚えた。
いつか全員、父上を嘲笑ったことを後悔させてやる。
葵姫は本能的に長綱が嫌いです




