断章2 松永久秀(17以降 佐吉小田原潜入後)
松永が礼をすると、葵姫はツンとそっぽを向いた。
何故そんな態度をされるのかわかっているので、これ以上不興を買わないよう黙っている。
左馬之助様が今川の捕虜になってから、奥方様たちの御立場が一気に悪くなった。
松永はその橋渡し役として働いている。
楽な仕事ではない。
左馬之助様の家臣団の離散を防ぐために、内々に手をまわして兵役をつとめ、江戸にも出陣したし、小田原の防衛でも前に出た。
率先して槍働きをしてきたので、今や三の丸で松永をよそ者扱いする者は葵殿ぐらいなものだ。
「松永殿、松永殿」
足音荒く去って行く葵殿の後ろから、護衛の松田市松が現れて松永を呼び止めた。
「姫様は、ほんとうはそれほど怒ってはおられませぬ故」
細々と気をつかうその少年を見ていると、京の友人を思い出す。
ぺこりと頭を下げて、全速力で姫君の後を追いかける後ろ姿は、まだ若年にもかかわらず、すでに苦労性の気配を漂わせている。
松永はもう一度、頭を下げた。今度は綻ぶ口元を隠すためだ。
いまだに定期的に書簡を送ってくる友人のせいで、松田という姓にはつい親しみを感じてしまう。
十分に足音が遠ざかってから顔を上げる。
静まり返った三の丸の離れは、実際は大勢の見張りの兵に囲まれている。
どこに目があってこの様子を見ていないとも限らないから、行動には十分に注意を払わなければならない。
それにしても……葵姫には困ったものだ。
鮮やかな着物を翻して、ものすごい勢いで走って行った後ろ姿はもう見えないが、遠くからその行動を諫める女房殿たちの声は聞こえてくる。
彼女は、お方様方がおとなしく三の丸に籠っている事を不服とし、それを隠そうともしていない。
度胸があるのか、怖いもの知らずか、単身本丸御殿に乗り込んで、直接北の御方様に抗議をしたこともある。
松永がそれを引き取りに行って、強制的に頭をさげさせるという事態があって、以降葵姫は松永に対してあたりが強いのだ。
さて、職務に戻ろうと背筋を伸ばしたところで、廊下の端で年配の女房殿が頭を下げた。
見覚えのある顔。……遠山家の家人だ。
松永はそれに目配せで返答をし、誰にも見とがめられないうちに三の丸を辞した。
遠山家は、北条の譜代だ。
だが江戸攻めの不振を問われ、とある一斉攻撃の際に先陣を任され、ご当主が討ち死にした。
多くの者が、相模の中央部分にあった遠山家の豊かな所領が狙われたのではと囁いていた。
それはある意味で正しく、ある意味で間違っている。
伊豆を失った北条家にとって、相模の国は虎の子。その豊かな部分を、左馬之助様の重臣である遠山家が持っていることが問題だったのだと思う。
遠山家は所領のほとんどを取り上げられた。
一門の命がすべて刈り取られなかったのは、亡き遠山殿の奥方が、北条の殿の叔母だったからだ。
遠山殿が討ち死にしてから、松永はあえて遠山家とは縁を持たずにいた。
他ならぬ蓮承院様のほうから、そうするべきだと言ってきた。
北条の殿の懐疑心を煽るような真似をすれば、次は左馬之助殿のご家族すべてを手討ちにされかねないからだ。
綱渡りのような日々だ。
周囲からはあからさまに監視されているし、忍びの気配もある。
この先どうなるのか、不安しかない。
松永が何もせずとも、道案内の者が来た。
「これはこれは……松永様」
そう朗らかに呼びかけられ、振り返る。
何度会っても忘れそうな、平凡な顔立ちの商人が頭を下げる。
確か……萬屋草介と名乗っていたな。本名ではないはずだ。
堂々と日中の往来で松永を呼び止め、商売の話をしてくる。
正直、米と炭と味噌を売ってくれるのはありがたい。
だがこの男の本題がそれではないことはわかっている。
「いつも御贔屓にどうも。明日の朝にお屋敷に運ばせていただきます」
人を疑わせない話術。巧みに袖に忍ばされた結び文。
目が合って、一瞬、その冷たさに息が止まった。
結び文には、「子の刻」とだけ書かれていた。
松永は普段よりも暗色の小袖と袴をまとい、明かりの落とした室内で待っていた。
耳を澄ます。
虫の声が聞こえる。風の音も聞こえる。
それがふっと途絶えた。
目を開ける。
闇に慣れた目が、腰高障子から斜めに差し込むわずかな月明かりをたよりに、室内を見渡す。
誰もいない。……いや。
虫の声が止んだ。風も止まった。
松永は、締め切った障子の向こう側に目を凝らした。
もちろん何も見えはしない。だが……
再び、虫の声が聞こえてくる。風が気を揺らす音もする。
その何の変哲もない、夜の気配に耳を傾ける。
すっと木襖が開く音がした。
はっとして振り返る。
廊下に面した障子ではなく、部屋の仕切りの木襖の一部が動いていた。
無意識のうちに、脇に置いていた刀を握る。
「夜分に失礼いたします」
はっきりと聞き取れる小さな声。
顔どころか、木襖の向こう側の人影すらはっきり見えない。
だがその声は、紛れもなく、昼間に聞いた萬屋草介のものだった。
「ご案内いたします」
松永は静かに息を吸って吐いた。
「どこへ」
「おわかりでしょう」
用心深い問いかけに、帰ってきたのは小さな笑みを含んだ声だ。
覚悟を決めるまでにしばらくかかった。
これが罠なら、待っているのは死だ。
松永の中にある判断材料は、この男がどこの御方のもとにいたかという、不確かな記憶だけだった。
フレーバー(笑)
こんな感じにごちゃごちゃ暗躍していたという雰囲気を感じてください
萬屋草介は佐吉です
続く? かもしれない




