4-4 信濃山中
ハニートラップとまではいかなかったが、こういうこともあると知れたのは良かった。
的を幸松にしたことへの負い目はあるが、トータルとしては上出来だろう。
遠山氏からの支援により、「山の民」の協力を得ることができた。
……お互い顔を見た瞬間、知らぬふりをしたのは、まあ。
ともあれ、千五百の全軍が抜けるルートの確保はありがたい。
和田を発ち、予定していたのとは違う道を選択した。
当初天野殿は反対した。素性も知れぬ輩を信じるより、多少遠回りでも安全な道を選ぶべきだと。……正論だ。
だが二木は「遠山殿の顔を立てて」と押し切って、おそらくは諏訪の街道よりも早い抜け道を選択することを支持した。
孫九郎はノーコメントで。
じっとこちらを見ている「山の民」……竹細工や木工細工を作っている木地師の一族?
うん、見たことがある顔が混じっている。駿府の町中で、万事の隣で握り飯を食っていたヤツで間違いない。つまりは……サンカ衆だ。
彼らと関わってもう六年。約定を交わして以来、遠江駿河で仕事をしたという話は聞かない。そういう、約束をしっかり守ってきたという実績は大きい。
孫九郎は、余計な知恵を得た気がした。いや、知識に余計なものなどありはしない。天啓を得たと言っておこう。
……そうか。そういう伝手も有効なのか。
深夜。その日は月が分厚い雲に見え隠れする暗い夜だった。
雨は降っていない。
ただ時折、遠くで雷のような音が聞こえる。
今日は山中の洞窟がたくさんある場所で野宿だ。意外と快適だと皆の評判はいい。
こういった、軍勢が野営できる場所を探すのも、本来はとても苦労するものなのだ。
孫九郎はふらりと寝床を抜け出し、集団便所で用を足したあと小川で手を洗っていた。
ふと空を見上げ、ぶ厚い雲に顔を顰める。
「……雨になるか」
「明日の昼頃までもつでしょう」
誰もいないはずの暗闇から声が返ってきた。
昼間聞いたよりもトーンの高い、どこか楽しそうな声だった。
孫九郎は振り返りもせず、「そうか」と言って懐から手ぬぐいを取り出した。
「諏訪兵がどこにいるかわかるか」
「……ええまあ」
「かち合いたくない」
「こちらとしても信用問題なんで、十分気を付けますよ」
その返答に納得した。きちんと金を払った分は働いてくれる。単純明快だ。
「……昼までにどこまで行けるか」
明日は行軍速度を上げて距離を稼ぐ予定だった。雨が降り出す前に行程をこなせるだろうか。
遠山家が兵を出すタイミングと合わせなければ、陽動の意味がない。
「そのあたりはお任せを、近道があります故」
この楽しそうな声は本音か? 芝居か?
本当に楽しいのだとして、ただの道案内のどこに楽しむ余地がある?
そもそも信濃の山の中で顔見知りに出会うという偶然を、偶然だとは思えないのだが。
「名は何という」
「レンジでさぁ」
電子レンジを連想した。絶対違うだろ。
どうも最近、何でも疑ってかかる癖が抜けない。間違ってはいないが、度を超すと良くない。以前なら、山の民なら山にいて当然だろうと考えていたはずだ。
孫九郎は、気を取り直して息を吐いた。
ざわり、と夜風が山の木々を揺らした。
孫九郎はその風に背中を押されるようにして、ゆっくりと振り返った。
暗い影が動いたのは、月がちょうど雲から出てきたからだ。
暗がりに慣れた目でも、よく目をこらさなければわからない位置にレンジはいた。
両手を上げて、首筋には鈍色の鋼を突き付けられて。
「……おっかねぇ」
いや、こちらこそ怖いよ。何をしようとした?
これだけの距離があるのに、弥太郎が動いたという事は……懐に手でも入れたか?
手ぬぐいを懐に戻した孫九郎は、レンジに向かって歩を進めた。
お忍び途中であっても、護衛なく無防備なわけではない。いやむしろ、近づいてくる者への警戒度合いは高いだろう。
確かに護衛の武士は減ったが、忍びは倍増だぞ。いや倍どころではない。
「用があって来たのだろう。早うに話せ」
数歩の距離まで近づくと、さすがに身を引かれた。
仕方がないだろう、帰り道を塞ぐ位置にいる方が悪い。
こちらを凝視するその目には、見間違えでなければ若干の緊張。
「……遠山様からのご依頼、道案内するのは危ういという意見が多かったんでさ」
切っ先を首に突き付けられているのに、恐れている様子はない。死を達観している風にも、こちらが本気ではないとわかっている風にも見える。
「旨味がないと」
案内するだけで何かの見返りがあるのではないのか?
少し考え、レンジが言っているのは、これが諏訪やその他の国人領主に知れた時の事かと思い至った。確かに、敵を連れてきたと思われたら今後に障るだろう。
「わかった」
孫九郎は頷いた。
「働いたぶんはきちんと報いる」
レンジが言っているのはもしかすると、金銭的見返りではないかもしれない。
千五百の兵だ。道案内だけさせて口封じされる事も考えているのだろう。
互いに全幅の信頼を置ける関係ではないのは仕方がない。
「褒美は何が良いか、考えておけ」
「安請け合いしてよろしいので?」
「働いたぶんと申した」
少し考えて。
「そうよな、駿河への販路というのはどうか」
よく見えないその表情を覗き込み、そう言うと、レンジの口が「は」と音を発して開いた。
「木地師としてだぞ」
山賊が入り込んで仕事をされるのは困るが、技術者としてなら出入りは歓迎する。
際限なくというのも不安だし、管理もしにくいから、拠点を与えておくのもいいかもしれない。山間部に木地師の村があってもおかしくないだろう。
もちろんそこまで口に出して言ったわけではないが、これまで禁じていた駿河への出入りが許されるのは、彼らにとっても大きいだろう。
すれ違いざま、軽くその腕に手を置くと、レンジはまるで火傷を負ったかのように飛びのいた。首筋に刀を突きつけられているのに危ないな。
「励め」
孫九郎はそう言い置いて、立ち尽くす男を置いてその場を去った。




