4-3 信濃 伊那郡和田3
「失礼いたします」
締め切った襖の外から声がした。三郎だ。
出立の直前、忍び衆に対して必要な指示出しをしていた孫九郎は、ちらりとそちらを見て息を吐いた。
気づかれたとは思っていたが、行動も早い。さすがは志郎衛門叔父の嫡男だ。
孫九郎が頷くと、武家の格好をした弥太郎がすっと襖を開けた。
細目に開けた隙間から三郎がするりと入り込み、顔を下げたままその場に片膝をつく。
「お手を御煩わせしてしまい……」
「三郎」
孫九郎はその言葉を途中で遮り、数歩の距離を詰めた。
肩に手を置くと、びくりと震えた。
一応は従兄弟だぞ。昨晩も一緒に寝た仲じゃないか。
いいたいことは色々とあったが、顔を上げさせ視線を合わせる。
人差し指を口の前で立てた。
もちろん孫九郎が夜這いを誘導したわけではない。
ただ、酒宴での様子を見て、そういう事も起こり得そうだとは思った。
幸松の寝所に彼女たちが入り込めるよう、警備を緩めたのはわざとだ。
間違いが起こるほど近づけるつもりはなかったし、もっと内々に片付くはずだったのだが……
遠山殿に軽い負い目を負わせる予定が、公的に謝罪させるほどのクリティカルヒットになってしまった。
「……まだ怒っているか?」
さらりと終わるはずだったのに、幸松と天野殿の大激怒で問題が肥大化した。
諫めるべき二木でさえ煽っている風だから、収まるものも収まらない。
「申し訳ございません」
いや三郎が謝る事ではない。孫九郎がやりすぎたのだ。
伊那衆の中で大きな勢力になりつつある遠山殿に、ちょっとした圧をかけるつもりだった。軽い負い目でもあれば、こちらに有利な動きをしてくれるだろう……と。
具体的には、諏訪を迂回するための陽動だ。
海野荘に向かうには諏訪領を通る街道を行くのが最も早く近いが、そういうわけにもいかない。
諏訪を煽るつもりはないが、できるだけ早く目的地に着きたいので、その近隣領地を通って行こうと算段していた。
案内人の新之助殿によると、深い山なので素早く行けば諏訪に気づかれないかもしれないとの事だった。
いやすでに今川軍千五百が信濃入りしたことは知れ渡っているだろうから、気づかれないも何もないのだが、どのルートを通るかまでははっきりわからないはずだ。
険悪な仲の諏訪以外の近隣国人には、今川軍が海野に兵を出す故、通してほしいとの通達はしている。
目的は戦ではなく、新しく生まれた子供たちの祝いを持っていくことだと。
内々の話として、叔父とその子らを引き取りたいのだと情報を与え、どちらかというと海野へ喧嘩を吹っ掛けるために出向くと告げている。
苦い顔をするところもあったが、おおむね興味津々で許可してくれたそうだ。
その時にはまだ、諏訪と村上が海野に攻め込もうとしているという情報は、どこにも広がっていなかった。
今川軍の信濃入りがどう影響するか興味深いところだが……その前に。
諏訪をかわして海野荘へ行きたい。
そのための手助けをしてくれそうなのは……遠山家かな? と、意図して国境に近い和田を初日の滞在場所に決めたのだ。
大人組は昨晩の酒宴の後、正式に協力要請をした。その時の返答は即答しかねる雰囲気だったそうだが、今朝の出来事により状況は変わった。
昨晩、ちょっとしたひと押しをするべく策を弄した。あっけないほど上手くいったと、ホクホクしながら雑魚寝して。目覚めた時には……上手く行き過ぎた事を知った。
どう考えても、孫九郎に責任がある。
どうする? 幸松と天野殿に謝罪するべきか?
天野殿ならある程度納得してくれるだろうが、幸松がどう思うか。
表立っては絶対に声は掛けないと、遠江を出るときに決めた。国境を越えてまだ一日目なのに、早々にそれを破るのも……
ちらりと見た三郎は、どこか悔しそうな表情をしていた。
孫九郎の策だと思ったわけではないだろう。酒宴での娘たちの態度を見て、夜這いを予期できなかったことを自省しているのだ。
それは仕方がない。まだ十四歳だ。
だが、学んでいかなければならない分野ではある。
「怒るより先を急ぐべきだと、それとなく示唆してやってくれ」
「直接お声がけいただく事は叶いませんか?」
「……いや」
必死に孫九郎に目を向けまいとしている幸松の態度は、徹底的過ぎておかしいほどだ。
その頑張りに水を差すのは……な。
孫九郎の表情を見て、三郎も少し笑った。ようやく表情がほぐれたその顔は、年相応の少年らしいものだった。
「三郎」
「はい」
「幸松はあれでよい」
誰が何と言おうとも、幸松はあのまっすぐな気性のままでいい。
子供らしくていいんだ。子供なんだから。
そう言い切った孫九郎に、三郎は真摯な目を向ける。
「そのままの幸松でいられるよう、側にいてやってくれ」
見たところ、幸松と三郎の相性は悪くない。
幸松の足りないところを、三郎が補佐していければ、父と志郎衛門叔父のような関係で福島家を率いて行けるだろう。
三郎はきゅっと唇を噛みしめて、それから小声で「……はい」と言った。




