4-1 信濃 伊那郡和田1
連なる山並みは、遠江の山よりも険しく、迫ってくるような圧迫感があった。
低い位置にある雲と、遠目にもわかるほどの白い靄が、まるでファンタジー世界のように幻想的で美しい情景を作り出している。
今日は一日太陽の姿を見ていなかったが、遠くにある雲は下側から茜色に染められていて、もうすぐ日が沈む刻限なのだと教えてくれていた。
雨は降っていないのに、身体に水分がまとわりつくような感覚がある。
湿度の高さは雨の予兆だろうか。気温が下がってきたから濃霧になるのかもしれない。
ともあれ、足元が怪しくなる前に目的地に到着できたことにほっとした。
孫九郎がいるのは全軍でみると後方よりだから、後続のすべてが追いつくにもそれほど時間はかからないだろう。
「御父上によく似ておられる! いや、よくぞ参られた」
遠山殿は、想像していたよりも武骨な見た目の男だった。
砦を襲撃され、引かざるを得なくなった時、負傷した父を助けてくれたと聞く。
……いや、助けてくれたと言うには語弊があるか。遠山氏の城をひとつ奪い、それを返すことと引き換えに、無理やり協力を要請したようなものだ。
ともあれ、父が暴れまわったおかげか南伊那に勢力を拡大できたようで、伊那衆にしてはかなりの大身になりつつある。
「この度は快く御受入れ頂き、ありがとうございます!」
幸松の良い所は、あの父に激似の容姿もそうだが、明朗闊達な気質だろう。
父は愛想のかけらもない偉丈夫で、近寄りがたく恐ろし気な印象だが、幸松は違う。
朗らかなその笑顔には、誰もがほっこり笑みを返したくなる。
遠山殿は一瞬戸惑ったような表情をしたが、ややあって目尻にしわを寄せて笑顔を浮かべた。
「じきまた雨になりましょう、さあさ、中へどうぞ」
信濃訛りの強い、だが聞いていて不快にはならない優し気な口調だ。
大きく開け放たれた門の後ろには、頑丈そうなつくりの土塁がある。
ここから見えるだけでも結構な規模の山城で、案内されるのはその手前の館のようだ。
「ご立派なお城ですね」
「いやお恥ずかしい。和田城は最近増築をしまして……」
「そうなのですね! 高天神城にどこか似ています」
無邪気に感心する少年に、懇切丁寧な対応をする遠山殿。
ふたりともニコニコと笑顔で、場違いにほのぼのとした雰囲気だった。
さながら親しい伯父甥のような会話だが……忘れてはならない。今川の兵千五百が今なお後方からぞろぞろと遠山川沿いに集結してきている。
孫九郎は目立たないように周囲の少年たちの間に立って、おとなしく二人のやり取りを聞いていた。
注目はされていない。
福島天野両軍……まあつまり今川軍なわけだが、孫九郎の「こちらを伺い見るな」という指示を徹底してくれている。
多少雑兵たちからの視線は感じるが、遠山勢は幸松を見ていると思ってくれるだろう。
注目されないというのは楽なものだ。普段どれほどの視線を浴びていたのか、今更思い知った。
その分幸松に負わせているわけだが、楽だし……楽しい。
背後から咳払いが聞こえる。逢坂老だ。幸松にではなく孫九郎への物申しだろうが、幸松の笑顔が若干改まり、背筋が伸びた。
「御迷惑にならぬよう、明日の朝には出立いたします。一晩軒先をお貸しください」
「いやいや、ご遠慮なさいますな。一晩と言わず」
「急ぎですので」
なんだろう、幸松のちょっと困ったような、ふにゃりとした笑顔。
ずいぶんと人当たりが良く、この子を嫌う者などいないのではないか。
誇らしく、頼もしくそう思った瞬間に、つい数日前に真逆の事を感じたのを思い出した。
……きっとこの人懐っこさも、幸松なりの生存戦略なのだろう。
幸松が遠山殿に気に入られた為でもあるだろう、その夜は遠山一族から随分な歓待を受けた。
伊那衆は遠江と国境を接している。親しく付き合えるのならそれに越したことはない。
上座で笑顔を振りまいている幸松を横目に、酒好きの天野殿が節制している事に気づいた。
こういう場合は遠慮なく飲むのが礼儀で、酔い過ぎないよう側付きが目を配るのがセオリーだ。もちろん幸松は酒を勧められる年ではないので、代わりに天野殿が杯を受けることになる。
「最近医者に控えろと言われまして」と残念そうに言う表情は、どこからどう見ても人の好い朴訥な男だが、付き合いがそれなりにある孫九郎には用心しているのだと察しがついた。
確かに、危険のあるなしにかかわらず、孫九郎がお忍びで紛れている事を思えば油断はできない。
無礼講の酒宴ともなれば、あっという間に樽が空になるほどガブガブ飲む連中も、行儀よく膳をつついている。天野殿が飲めないから遠慮しています……という態だが、こちらも用心だろう。
孫九郎は下座で膳の御相伴にあずかりながら、周囲のそんな諸々を興味深く観察した。
宴もたけなわ、節制した飲み方でも天野殿の顔が赤らんでくる頃、「失礼いたします」と言って広間に入ってきたのは若い二人の少女だった。
遠山殿の娘かな。挨拶にでも来たのだろうと、最初は特に何も思わなかった。
酒を飲まない幸松が酔うことはない。
たった八歳の子供が、女に惑わされることもない……よな?
ちょっと心配になって様子を見ていると、ちゃっかりと幸松の左右に座を占めて、あれやこれやと言っている。
可愛らしい少女たちの笑い声と、困ったような幸松の返答は、離れた下座にまで漏れ聞こえてきた。
どうやら幸松を挟んで姉妹で張り合っている風だ。モテモテだな。
遠山殿は苦笑しているし、咎めてもいるようだが、強く下がれとも言わない。
別にまあ、幸松が女の子と楽しくおしゃべりをするぐらいはいいのだが……遠目にも、その表情がわずかに困った様子な事に気づいた。
無下にもできないが、親しく談笑するのもちょっと……というところか?
もうすぐ宴もお開きだろうから、適当に流せよと心の中でエールを送り、あえてそちらは見ないようにした。




