3-7 遠江 国境砦4
福島軍が海野荘に向かおうとしている事は、はたして武田の策のうちに含まれているのか。
さんざん議論したが、結論はでなかった。
父が早々に甲斐国境に戻り、前線を押し上げる事は、おそらく考えには入っていないと思う。
もしかすると、信濃に兵を進めるのは父だと思われていたかもしれない。
少なくとも、千を超える軍勢が信濃にはいるとは想定していなかっただろう。
それらの意見に、孫九郎は同意した。
だが同時に、念のためにともう一つ手を打っておくことにした。
「勘助にこの書簡を」
二木の前で勘助の名を出すと、いつもものすごく嫌そうな顔をする。
それは勘助の方も同じだから、互いに同族嫌悪みたいなものがあるのだろう。
もちろん何を書いたかについて隠し立てしなかった。
内容は、信濃へ進軍する可能性があるので準備しておくように、というものだ。
勘助は今川家で正式に雇い入れたが、今あの男がいるのは三河だ。
今川館にいては遠すぎて、事が起こったときにすぐ動くことができない。
故に三河方面は勘助を、伊豆方面は承菊を置いて、軍略面での対応を任せている。
甲斐戦線は孫九郎自身が目を光らせ、次はどう軍を動かすべきかを考えている。
広い国というのは、そういう意味で手が回りにくい。
国境を接している国とは常に緊張があり、攻め込まれた場合に備え、現地にある程度の裁量を任せなければならない。
古い幕府が遠国を上手く治めることができず、あの細川家でさえ分裂し衰退していった理由はそのあたりにあると思う。
信頼できるからといって、何もかも相手に丸投げというのは、よくないのだ。
統括する者が目を光らせ、常に何が起こっているかの把握をしておかなければならない。
故に、勘助とも承菊とも井伊殿とも朝比奈殿とも、頻繁に書簡でやり取りをしている。
一か月に一度などではなく、もはや文通を超えメル友レベルだ。
ラインほどリアルタイムで繋がる事は出来ないが、忍びの足で三日と掛からず届くというのは、この時代ではまだ近い距離だと言える。
対三河に当たらせている勘助から、父の継室にという松平からの申し出について報告は来ていない。
つまり、これまで以上に松平の動きから目を離すわけにはいかない。
だが、三河から信濃へ入ることも可能で、今川がその気になれば二方向から信濃を攻略することは難しくなかった。
何より、南信濃の木曽氏は今川家との友好関係を重視している。
三河側から信濃へ兵を進めるハードルは高くないのだ。
「あの男に献策を?」
二木が嫌そうに言う。
「いや、問題があった場合にすぐに兵を動かせるよう準備させる」
「三河から海野荘まで、かなりかかりますが」
だったら遠江からもっと兵を集めたほうがいいと言いたいのだろう。
「念のためだ」
遠江の動きは見張られている。おそらく動きは筒抜けだろう。
「武田が想定していない切り札があると思えば、気持ちも楽だ」
まっすぐに二木を見上げる。
だから気張って頭を絞れ。武田に後れを取るな。
視線の意味を察したのだろう、二木の背筋が伸びる。
「行軍については天野殿に任せろ。策を考えるのは勘助ではなく其の方だ」
「……は」
孫九郎は二木の表情を見ず立ち上がった。
色々と扱いの難しい男だが、頼んだことに期待した以上の結果を持ってくる。
そういう意味で、二木の才覚を信じていた。
「兄上!」
建物から出ると、すっかり準備の整った幸松が、緊張した面持ちで待ち構えていた。
待っていたのは幸松だけではない、今回信濃へ向かう者たちが、今にも出立できる様子でこちらを見ている。
天野親子と目が合った。
今回嫡男は砦に残る。国境の守衛につき、合図を受け取った場合に追加の兵を率いてくる役割だ。
国境を越える兵士の数は千五百。
総大将は福島家嫡男幸松。
副将は天野殿と二木。
副将たちは、幸松のお役目の後見人の役割を称している。
お役目というのは、源九郎叔父とその家族を連れ帰るというものだ。
孫九郎? ひっそりとその中に紛れていくとも。
はた目には幸松のお付きの小姓に見えるだろう。武装もしていないし、装束も地味だ。
事前に起こり得るすべてを話し合ってきたので、行動の決定は副将組に任せて、孫九郎は見守りに徹する予定だ。
砦に残るべきだとさんざん言われたし、そうかもしれないとは思う。
そもそも、たとえ最悪の状況になったとしても、孫九郎が役立つ場面などありはしない。
だが、あまりにも不穏すぎる状況、幸松一人を信濃に送る事はどうしてもできなかった。
もちろん本当の意味で一人というわけではないのは重々承知だ。二木や天野殿への信頼がないわけではなく、いざという時には孫九郎自身よりも役立つだろう。
ただ、共に行くべきだと、当たり前のようにそう確信していただけだ。
この騒動が大きくなると、どこかで予想していたのかもしれない。
「お勝だ。そう呼べと申したぞ。……皆もな」
孫九郎はそう言って、同じく軽装の非元服組に目を向けた。
今回の信濃行きで、孫九郎と同じ扱いをされる面々だ。幸松も小具足姿までだし、彼らも重装備ではない。
孫九郎の側付きや護衛たちは、そのまま幸松を守る態で随身している。
うちの者たちは完璧主義者が多いので、幸松の側付きたちにもいいお手本になるだろう。
幸松のキラキラした目が孫九郎を見ている。
若いその側付きたちも同様だ。
そこにある崇拝に似た色に居心地の悪さを覚えながら、こちらをじっと見ている天野殿に頷きを返す。
「騎乗!」
茄子顔のわりに、声だけ聞くと歴戦の武士だ。いや顔は関係なかった。
その命に従って、騎馬組が馬に乗る。
孫九郎は子供組のうちの年少組として、お目付け役の武士とタンデムだ。
砦の大門がギシギシと音を立てながら開き、全軍がゆっくりと動き始めた。




