3-6 遠江 国境砦3
床の上に広げられているのは、例によって例のごとく、子供が見よう見まねで描いたような地図が複数。
福島軍が進む予定のルートとその周辺をデフォルメしていて、川とか山とか、下手したら文字で「山」と書かれている場所もあるぐらい簡易なものだ。
現代だと、日本国地図のデフォルメを書ける日本人は多いと思う。だが、長野県の形状を簡易的にでも思い出せる人間はどれぐらいいるだろうか。
もちろん孫九郎とて同様だ。
日本のほぼ中央にある山岳地帯だという事は知っていても、詳しい形状までは覚えていない。
とはいえ、この時代の者よりも感覚的には掴みやすいとは思う。
新しい紙と筆とを用意させ、簡単に頭の中の長野県を描いてみる。
もちろん細かな部分はわからないが、駿河遠江の形状は把握しているので、そこに甲斐を付け加え、三河と美濃も足す。
若干記憶の中にあるものより細長くなった気がするが、まあ、違っていてもさほど問題はない。
孫九郎は顔を上げ、感心したように地図に見入っている大人たちを見回した。
「武田は海野に側室を入れた。仲を深めようとしたのだろう。にもかかわらず今回派兵した理由は? 甲斐と近いは近いがその間には諏訪があり、佐久もある」
しきりに顎を擦っていた二木が、地図上の佐久の位置に小さくバツ印を入れた孫九郎を見下ろして口を開く。
「大井は村上の風下にあり、笠原は諏訪の庶流です」
つまり佐久郡の主だったところへは、南の諏訪と北の村上の勢力が及んでいる。
そのあたりはしっかりリサーチ済みの二木が、何という事はないという口調で言った。
「諏訪と武田が合力するのであれば、佐久は甲斐兵を通すでしょう。いやそもそも、諏訪を通って海野荘へ向かえます」
少し言葉を切って思案してから続ける。
「海野の側室の件は……そういえばまだ表沙汰にはなっていませんね」
二木は少し首を傾げ、生まれてもいない子供の話をされてもという表情をした。
確かにそれはそうなのだ。この時代の出産は現代よりもずっと危険が伴うし、なんとか生まれたとしても無事育つかわからない。
故に二木が懐妊をさほど重要視していないのは知っている。問題になってくるのは、生まれた子が男児であり、かつ無事に三歳を超えたあたりからだろう。だが……
「武田が攻め入る先は、まことに海野だと思うか?」
孫九郎の問いかけに、二木の細い目がパチパチと瞬きするのがわかった。
同盟国だから増援を向かわせるというのは、当たり前のことすぎて、孫九郎も当初はそこに疑問を持たなかった。
「……諏訪と武田は同盟を結んでいます」
しばらく二木は考えて、用心深げに口を開いた。
甲斐と国境を接した諏訪にとっては武田側から攻め込まれない為の、駿河に食指を伸ばしている武田にとってはその逆を防ぐのが主要な目的だ。
弥彦の話によると武田は信濃との関係を婚姻により深めようとしていたようだが、よそ者の血を排除しようとしているのか、彼らの内側になかなか踏み込めない。
血で融和を図れないとなれば、いずれは敵とみなすのは自然の流れだ。
当主が病で倒れ、支配の弱まった河東は狙い目だった。だがそこが攻めるに難いとなれば、次に狙うのは……
「諏訪とは同盟しているが、佐久は違う」
「武田の狙いは佐久だと?」
二木の声色は疑わし気だが、基本的にこの男はいつもそんな喋り方だ。
「其の方も思わなかったか? 何故武田は海野に側室をいれたのだ」
孫九郎の再度の問いかけに、二木も渋々とそこに思いを巡らせたようだ。
「それは」
諏訪と同盟を組んでいるのなら、そこと反目している勢力に側室を入れるなどありえない。海野がそれを受け容れた事も、よく考えるとおかしな話だ。
「海野に攻め入ると聞きつけた武田が、援軍を出すという名目で、佐久を取ろうとしているのではないか」
「……つまり、武田は海野の援護に向かっていると?」
二木が、眉間にしわを寄せながら言った。
約定破りは忌避されるが、実際は同盟破棄など珍しい事ではなかった。同盟を遵守して不利な状況に陥るのなら、迷いなく手切れを選ぶところは多いだろう。
「武田の意図を正しく突き止めるのは難しいでしょう。極端な話、戦況によって動きを変えるやもしれません」
「そうだな。……弥彦」
「っ、はい」
急に呼ばれるとは思わなかったのだろう。弥彦がややつっかえながら声を上げた。
孫九郎は書いたばかりの信濃の地図に、紙を何度も折って作った駒を立てた。武田軍だ。
「其の方は諏訪と村上、あるいは佐久の国人衆の気持ちになってどうするか考えよ」
弥彦は訳が分からないという困った表情をしたが、対照的に二木は興味深げに身を乗り出してきた。
「何をなさるのですか?」
「……それぞれの立場になって、軍を動かしてみよう。そなたは武田を頼む、同盟破棄か継続か、まだ決めかねている態で動け」
「駒をもっと作りましょう」
いや、遊びじゃないんだが。
孫九郎は軽いディベートのつもりだった。
だが二木は思いのほか乗り気で、それは周囲の側付きや護衛たちも同様だった。
今の今まで部屋にいなかったはずの新之助殿までが顔を並べて、「それでは海野を某が」と、海の字を書かれた駒を小県のある場所に置いている。
……いい大人が楽しそうだな。
娯楽が少ない時代だからかもしれないが、これは実際に起こりえる戦なんだぞ。
とはいいつつ、白熱した駒運びは中々に充実したものだった。
もう一度もう一度とせがまれて、結局最初から五回もやってしまった。
だが興味深い結果になった。
五回のうちの四回が、武田の勝利での海野の消滅に終わった。そのうちの三回では武田は佐久までの勢力を拡大し、一番うまくいった回では諏訪まで攻め落としていた。
攻め手の武田を二木が動かしている為かもしれない。
前提条件が、父を含めすべての福島軍を考慮しないこと、としていた為でもあるだろう。
だが、武田の動きを危ぶんでいてすらこういう結果になってしまうのは……つまりそういうことなのだ。
「……なるほど」
ややあって二木が、感心したように二度三度と頷いた。
「こうやって見ると、武田にとってぶら下がった食い時の柿なんでしょう」
「そうだな。色々と時期も合い過ぎだ」
二木と孫九郎の意見が一致した。
父上が甲斐戦線から引くのと時を合わせたように、諏訪と村上が海野という標的に牙をむいた。諏訪村上にしてみれば、このところ戦勝続きの海野の力をそぐのが目的だろうが、武田の狙いは……。
「偶然でしょうか」
二木が首をひねる。
「柿が熟すのをじっと見ていたのかもしれぬ」
偶然を引き当てた時に、素早く動く決断をしただけかもしれない。
だが二木も孫九郎もおそらくこの場にいる多くの者も、武田がこの図面を描いたに違いないと思っていた。
つまりは、父に戦線離脱をさせるための情報操作から、すべてその手のひらの上だったのだ。
難しいパートは終わり!




