3-5 遠江 国境砦2
信濃は古い国だ。十か国と国境を接した広大な国でもある。
だがその広さゆえか、やたらと山が多い地形故か、今現在、一国に支配を及ぼすような強力な大名がいない。
国内の勢力があまりにも拮抗しすぎているのだ。
歴史の流れとしては、こういう中から生き残った家が一国を支配するようになり、戦国大名として名を上げる。
ただ寡聞にして、孫九郎にはそれを聞いた記憶がない。
信濃といえば真田家ぐらいしか覚えておらず、それも武田の家臣としてだ。
つまり史実では、いずれ信濃は武田の支配下に置かれることになるのだろう。
「たぶん」「おそらく」としか言えないのが歯がゆい。
だが空っぽの頭をどんなに振っても、学んでこなかった事が出てくるわけがない。
ただひとつ言えるのは、武田が信濃にまで勢力を拡大するのは「今川にとって良くない」という事だ。
源九郎叔父の事がなくとも、好戦的な隣国をこれ以上大きくしたくなかった。
「弥彦」
孫九郎が名を呼ぶと、中肉中背の男がはっとして振り返った。
この時間帯に夜番を見かけるのが珍しくて声を掛けたのだが、こちらを見たその表情は思いのほか深刻だった。
素早く頭を下げるが、雨の山間を見据えていた固い表情は隠せていない。
「……申し訳ございませぬ」
ややあってそう言った彼は、馬伏塚城主浅羽殿の次男で、二年前から孫九郎の側付きをしている。
井伊谷よりもご近所さんなので、かなり前からの知己でもあった。
「いかがした」
孫九郎が問いかけると、しばらく黙り、やがて長く息を吐き出した。
「父が……何も考えず励めと」
「伊奈衆には話をつけた。其の方に言いたいことがあるならば機会を設けてやるし、会いたくないのなら後方におればよい」
「いえ。某を見たとしても気づかぬでしょう」
馬伏塚城主浅羽殿は、正式には小笠原の姓を持つ。幼少期から虚弱体質で、それ故に嫡男の座から追われ国を出されたのだと聞いている。……そう、信濃守護小笠原氏の出なのだ。
息子としては、「信濃守護」を名乗るべきは父だったのにと、不条理に感じているのかもしれない。
だが戦国の世では多くの地で同様の事が行われている。他ならぬ今川家、孫九郎とてそうだ。
強くなければ生き延びることができない。それは同族間でも同じなのだ。
弥彦も分っているのだろう、顔は伏せたままだが、極めて朗らかな口調で言った。
「御心配には及びませぬ。問題は起こしませぬ故」
それはそうしてくれるとありがたいが。
「……信濃の噂を聞くたびに、相変わらず小競り合いばかりをしている有象無象よと思うようにしております」
「いやそれは」
冗談のように言われたので、苦笑で返した。
だが声は笑っているのに、こちらを見た弥彦の表情はまだ固い。
視線がぶつかった後、自然な形で双方が遠い山並みに目を向け、しばらくの間は沈黙が続いた。
「御屋形様」
しばらくふたりで並んで雨が降るのを眺めていたが、やがて弥彦がはっきりした口調で言った。
「小笠原の現当主の母親は、海野の出です」
それは知らなかった。いや、前にも一度聞いたか?
「父の母は、武田の出だったそうにございます」
弥彦の声から徐々に硬さが抜け、普段の穏やかな口調になる。
「信濃の国人衆は、複雑に絡み合った姻戚関係にあります。思わぬ横槍がはいるものと思うた方がよいかと」
「それは、伊那小笠原家の事か? 確かに高遠と同盟して国境を脅かしているが」
「伊那小笠原家と本家とは反目しあっておりますが、同族です」
孫九郎は、弥彦の言いたいことをそれとなく察した。
信濃は小国が乱立する土地柄ではあるが、他国から攻め込まれたら彼らなりのつながりで一致団結する可能性があるといいたいのだろう。
「父が廃嫡されたとき、味方になってくれる者はいなかったそうにございます」
その身に武田の血が流れているのを厭われ、ほぼ着の身着のまま放逐されたそうだ。
病弱な浅羽殿は親族に助けを求めたが誰ひとりとして聞く耳を持ってもらえず、それは争っている伊那の分家でも同様だった。
どういう経緯があって遠江で城持ちにまでなれたのかわからないが、常日頃からの態度を見るに、今川家への篤い恩義を感じているようで、血筋を鼻に掛けることなく粛々と家臣として勤めている。
「……弥彦」
「はい」
「ついて参れ」
孫九郎はそう言い置いて、踵を返した。
建物の中に戻ると、雨の音が途端に小さくなった。
砦は別の意味での心地よい喧噪に満ちている。
雨が小降りになってきたので、いよいよ越境する準備にはいったのだ。
昼過ぎには雨はやむだろう。
二木と新之助殿のその見通しに従って、やみ次第国境を越える予定でいる。
そして日が落ち切る前までに、ひとつ目の目的地まで進めると踏んでもいた。
話をしていた二木が、部屋に入ってきた孫九郎を見て首を傾げた。
体力的に不安がある孫九郎ら子供組は、出立の直前まで休んでいるようにと言われていたのだ。
休んでいろと言われても昼間なので、そう眠れるわけもないのだが。
二木はおそらく、背後にいる者たちを孫九郎の側付きと護衛だけだとみなしただろう。
間違いではない。
孫九郎が最後尾にいた弥彦を手招き、戸惑い顔の彼を前に押し出すと、二木の表情がますます訝し気になった。
弥彦が小笠原の血族だというのは知っているはずだ。
「出陣までに、問題点を洗い出しておきたい」
「……はぁ」
いつもの、聞く者によっては「馬鹿にしているのか?」と怒られる返答をしてきた二木を一瞥してから、孫九郎は床に広げられた図面に歩み寄った。




