3-4 遠江 国境砦1
福島軍が北遠の国境に到着し、砦のひとつに入ったのは翌日の正午過ぎだ。
それほど待たず現れた天野殿は、相変わらずひょろりとした体格で、顔だけがやけに長かった。
一時伸ばしていてやめた顎髭がまた復活していて、それがまた茄子にヘタがついたようなちょび髭で、ついそこに目が行ってしまう。
「御屋形様」
天野殿は見覚えのある家臣を従え、砦入り口で出迎えた孫九郎の前で片膝をついた。全体の雰囲気が温和で、武装よりも野良着が似合いそうな朴訥とした男だが、見た目通りのコミカル要員ではない。
孫九郎が頷き返すと、天野殿が立ち上がる。その背後の者たちは、じっと膝をついて頭を下げた姿勢のままだ。
端の雑兵までもの一糸乱れぬ統率ぶりは、相変わらず見事だった。
率いてきた兵の数は千ほどだろうか。半日もかからず集めたにしては粒ぞろいで士気が高い。
「急にすみません」
孫九郎がそう言うと、茄子顔がふわりとほころんだ。
「いえ、お声がけいただき浮き立つ心持ちでおります」
……どういう意味?
孫九郎が首を傾けると、天野殿は「ははは」と間延びした声で笑った。
「こちら、倅の小四郎にございます」
そういって紹介されたのは、天野殿よりもがっちりとした体格の丸顔の青年だった。
孫九郎より五つ六つ年上だろうか。
茄子顔ではない事に少しがっかりしながら「元服したと聞いた」と言うと、小四郎は朴訥とした表情でニコリと微笑んだ。
容姿は似ていないが、雰囲気は天野殿似だな。
「祝いの品を持ってこようと思うていたのだが……急な事ですまぬ」
安心して、つい声を掛けたくなってしまうのはこの親子の人徳か。
ちなみに茄子顔天野殿も仮名は小四郎だ。だが官途である宮内右衛門尉を名乗ることが多い。
天野家は色々とややこしくて、簡単に説明すると総領家と呼ばれるものがふたつあり、頻繁に御家騒動が起こっている家系なのだ。
どちらが本家だとか分家だとか、心底どうでもいい事だが、北遠が落ち着かないのは困る。
だが、孫九郎が「天野殿」としか呼ばない事により、もう片方がおとなしくしているそうだ。……官名が長いからそう呼んでいるだけなんだけど。
山深い砦の近くに、福島の家臣たちが多く眠る塚がある。
孫九郎が参りに行くと言えば、付いてくるものが大勢いた。
そこで家族の誰かを失った者もいるだろうし、誠九郎叔父を直接知っている者もいるだろう。
孫九郎は手土産の酒瓶を片手に、緩やかな山道を歩いた。
歩いている道もだが、たどり着いた塚も、二年前より整備されているように見えた。
うっそうと茂っていた雑草が刈り取られ、墓石の周辺の石なども取り除かれている。
誰かが手入れをしてくれているようだ。
叔父の首は土方へ連れ帰ることができたが、首から下はまだここに埋まっている。
首と身体に分かれた躯の、どちらに叔父の魂が宿っているとか、そういう考え方をしているわけではない。
ただ、葬った場所に来ると、亡き人を強く身近に感じるのだ。
せっかく来たのだからと、酒を手土産にあいさつに出向くような、軽い気持ちだった。
だがこの場にいると、否応もなく二年前の記憶が蘇ってくる。
……そう、あの父ですらここで敗戦を味わった。
国境の複数の砦を同時に守らなければならなくて、後手後手に回らざるを得なかったのだ。
後から聞いたところによると、敵は意図して父がいない場所ばかりを攻め、福島軍の動きを攪乱したそうだ。
敗因は兵の少なさだけではなく、敵の動きを把握しきれなかったことにもあるだろう。
あの時、忍びの半数が孫九郎の方についていた。
タラレバを言っても仕方がないが、索敵する人数がもっといれば、結果は少しは違ったと思う。
孫九郎は大きめの岩の前で足を止めた。
同時に、背後の足音も止まる。
幸松はここに来るのは初めてだろう、そう思い口を開こうとするより先に、ざっと土を擦る音がして、振り返ると、幸松他、付いてきていた者たちがその場で膝を折っていた。
幸松に事の顛末を話した覚えはないが、誰かから聞いたのか、今知ったのか、その神妙な面持ちから正しくこの場の意味を理解しているのが伝わってくる。
「幸松」
孫九郎は墓石の岩に向き直り、その前に酒瓶を置きながら言った。
「叔父上に酒を。お好きだったのだ」
「はいっ」
伸びやかな大きな声が、深い山中に響き渡った。
それに驚いた鳥たちが、バサバサと飛び立つ。
膝立ちのまま前に出てきた幸松が、迷いのない所作で酒瓶を開け、猪口というよりは湯飲み、いやどんぶりサイズの器に、なみなみと濁り酒を注いだ。
「どぶろく」ではなくある程度濾した「濁り酒」は辛口で、叔父がたいそう好んで飲んでいたものだ。
孫九郎はしばらく黙って、器ギリギリまで注がれた酒を見つめた。表面張力でたわむ濁り酒に、木々の隙間から降り注ぐ陽光が眩しく反射する。
そっと目を閉じ、黙祷する。
源九郎叔父とその子らを守ってくださいと、ひそかに願いながら。
山の天候は変わりやすい。
先程までは晴れていたのに、砦に帰りつく頃にはぽつぽつと雨が降り始めた。
嫌な兆候だ。
特に梅雨時期は用心しなければならない。
この六年で、大雨による被害を聞かない年はない。今の時季から梅雨明けまでが最も危険だ。
孫九郎は、次第に雨足を強めていく空を見上げた。
ぶ厚い雲の間から落ちてくる雨は、刻一刻と雨粒を大きくしていく。
一行は速足に砦の門をくぐった。
このまま雨が続くようなら、国境を越えるのを見送るべきか。あるいはいったん出城まで退くべきか。
迷っているうちにも雨が強くなってくる。
山小屋のような造りから、多少の城らしさを醸し出し始めた砦だが、それでも千五百人以上が常駐するには狭すぎる。
このまま夜まで雨なのだろうか。信濃に入っても雨は続くのだろうか。
そんな不安に苛まれていた孫九郎だが、砦の中は打って変わった熱気に包まれていた。
そこかしこで威勢のいい声がしていて、わずかな軒先に集まった兵たちが焚火を囲んでいる。
この時代は二食が基本で、朝飯を食べたら次は夕方だ。
だが、焚火を焚く許可を誰かが出したのだろう、そこかしこで煮炊きが始まっていた。
まだ夕刻には少し時間があるが……
ぐううぅ
ものすごく大きな腹の音がした。
孫九郎がちらりと横目で見たのは谷だ。
小さい身体のどこにそんな大きな虫を飼っているのか、この男の遠慮ない腹の虫にもすっかり馴染みだ。
「……腹が減りました」
谷は皆に見られても平然としていて、いい匂いを漂わせた集団を凝視している。
孫九郎はそっと息を吐いた。身体から自然と緊張が抜ける。
「そうだな」
あの匂いは味噌焼きか? 誰かが握り飯を焼いていそうだ。
孫九郎がそう言うと、付き従う者たちもいくらか緊張を解く。
気を張る必要はあるが、しすぎるのは良くない。
谷に……いやその腹の虫にそう諭されたような気がして、可笑しくなって思わず笑った。




