3-3 遠江 福島本陣3
慌ただしく本陣が動き始めた。
陣をたたみ、すぐにでも出立できる準備にはいったのだ。
呑気に羽を休めているように見えても、歴戦の猛者たちの行動は素早い。おそらくは日没と同時に寝る体勢に入っていた者もいただろうが、すぐに物々しい気配が全軍を包んだ。
何が起こったのかなど、ほとんどの者にはわからないだろう。
だが、彼らが孫九郎を見る目に逡巡はない。
「兄上!」
幸松が、陣幕を畳み始めた本陣に駆け込んできた。
「いったい何が」
孫九郎よりも大柄な幸松は、小具足姿で手には刀を握っていた。
まだまだ少年のあどけなさは抜けないが、すぐに父のように体格に恵まれた武将になるだろう。
孫九郎はこの先の言うべきことについて迷った。
国境にとどまらせるか、掛川に戻すか、旗頭とするか。
年齢的にはあまりにも幼いが、それを言うなら、細川軍と対峙した時の孫九郎の方がもっとあどけない子供だった。
基本的に、元服を済ませていないなら軍を率いる大将にはなりえない。
だがそれを含めての使者役だった。
刀を握る幸松の表情に、夜釣りの話をしていた無邪気さはなく、凛々しく緊張している。
「諏訪と村上が同盟を組んだ。兵が動くようだ」
孫九郎はまっすぐに幸松を見上げて、隠すことなく言った。
「叔父上をお救いせねばならぬ」
頭一つ分大柄な少年が、すうと息を吸う。
「はいっ」
迷いのないその返事は大きく、気迫に満ちていた。
見ろよ、大人ども。幸松は間違いなく父上の子だぞ。
「困るんですけど」
そう言って、ほぼほぼ片付けられた陣幕の向こうから現れたのは二木だ。
「戦になるかもしれません。お子様はお戻りを」
皮肉を隠さずそういう二木は、すでに鎧兜を身にまとっている。
その物々しい姿に、ますます切迫した状況なのだと幸松の表情が緊張した。
「いや! わしは父上より命じられたとおり海野へ行く」
「物見遊山じゃないんですけど」
「足手まといにはならぬ!」
「……いや、あのですね」
二木は助けを求めるように孫九郎を見た。
そしておそらく、小具足姿でさえない小柄な孫九郎に感じるものがあったのだろう。
ぎゅうと眉間にしわが寄る。
孫九郎が武装してもコスプレ感しかないので、普段通りの直垂姿なのだ。
「はぁ」
……なんだよ、その溜息は。動きづらくなるし、笑えるほど似合わないんだから仕方がないだろう。
がっくりと肩を落とした二木の態度に、幸松がむっと唇を引き結んだ。
「海野荘まで徒歩で何日かかる?」
大将が副将に喧嘩を売るところを、周囲の兵たちに見せるわけにはいかない。
幸松が何かを言う前に、孫九郎はそう問いかけた。
「強行すれば三日。普通に行軍するなら五日でしょう」
険しい山道だからそれぐらいは掛かるか。
孫九郎は頷き、雨が降らなかったらだな……と、分厚い雲が張り始めた夜空を見上げて顔をしかめる。
「では四日だ。新之助殿と行程を話し合ってこい」
「まさかお勝様まで一緒に向かわれるなんてことは……」
孫九郎が手に持っているのは、刀ではなく扇子だ。
それを軽くパチリと鳴らすと、何故か二木の背筋がひゅっと伸びた。
「早う行け」
二木の視線がうろうろと孫九郎の周囲をさまよった。
きっと逢坂や藤次郎らに諫めてもらおうとしたのだろう。
だが、孫九郎が扇子を片手に思案を始めると、藤次郎が背後に向けて何やら指示を出した。
逢坂もため息をついて、首を横に振るだけだ。
孫九郎が苛立ちを込めてもう一度扇子を開閉すると、二木は慌てて踵を返した。
信濃において七百の軍勢は決して見劣りする数ではない。
だが、誠九郎叔父が戦死した国境での抗争で、福島家側が五百、しかも父が率いていて苦杯を嘗めたのを忘れてはならない。
「天野殿に伝令」
「はい」
予期していたのだろう、藤次郎が片膝をついて、筒状になった紙と携帯用の筆を差し出してくる。
さらさらと、簡単に用件だけを書き記した。
伝令役は、最近はもっぱら逢坂の孫の喜三郎だ。逢坂家で近年一番馬の扱いが上手い男らしい。谷と同じぐらいに小柄だが、ベビーフェイスの谷とは違って苦み走った渋顔だ。
「喜三郎」
「はい」
「返書は国境の砦の方へ」
赤が基本色の逢坂家だが、伝令なので黒の羽織を羽織っている。
すでに笠までかぶっていて、五人全員出立する準備万端だ。
夜の早駆けになるので、松明をいくつも用意して従者が掲げ持っている。
「気を付けてな」
「……はい」
孫九郎がそう言うと、喜三郎は口角だけを上げて深々と頭を下げた。
伝令たちは黒の雨除け羽織を身にまとい、黒の三角笠をかぶり、目立つ白と青の今川の旗指物を背に負っている。
喜三郎が片膝をついて書簡を受け取り、しっかりと懐深くに収めた。
一斉に立ち上がった五人が、改めて孫九郎に礼を取り、足早に陣を離れていく。
孫九郎はそれを見送ってから、戻ってきた二木を振り返り「さて」と呟いた。
もうすぐにも出立できそうな身なりの新之助殿が、目を大きく見開いてこちらを見ている。
「双子のどちらか、あるいは両方を福島家の養子に引き取るため、迎えに兵を出します」
孫九郎がはっきりとした口調でそういうと、新之助殿が戸惑ったように口ごもった。
「……いやそれは」
「我が叔父を婿養子にもらっておいて、随分な扱いをしてくださっているようで」
はっと息を飲む音がして、新之助殿の大きな目が孫九郎を凝視する。
それに小さく頷き返すと、「……お勝殿」と震える声で名を呼ばれる。
新之助殿が過たずこちらの意図をくみ取ってくれたのが分かった。
そう、あくまでもこれは建前だ。
国境を越えるのは海野との揉め事に対処するためであり、他国に侵略しているわけでは断じてない。
「不要だと言うのなら、叔父もその子らも、連れ帰らさせていただきます」
そういう目的で、福島家がそれなりの大軍を率いて海野荘に派兵しても、文句を言えるのは当の海野家だけだ。
そんな揉め事の最中に、諏訪村上は海野荘に攻め込んでくるだろうか。
ウダウダやっている間に、父が甲斐戦線に復帰する。
国境から兵を引いたタイミングを考えても、武田が諏訪らと計って海野家を落とそうとしているのは確かだと思う。
彼らにとって頼みの武田は、今川が甲斐に侵攻を開始したとなれば、早々に信濃から手を引かざるを得なくなる。
三方から攻め込まれては対処するのは難しいが、信濃国内のみの諍いにとどまるのであれば、戦は必要以上に拡大しないだろう。
なかなかいい手だと思う。うまくいけば、血も流れずに済むだろう。
あまりにも目に余るようだと、叔父たちを連れて遠江に帰還すればいいだけだし。
短い時間で考えたにしては納得の策。
孫九郎は莞爾と微笑み、うんうんと頷いた。




