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春暁記  作者: 槐
伊豆編

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16-7 伊豆 ~狩野郷3

 老練な男が、意図してこの機会を狙ったのか。

 そう確信しなががらも、責める気にはなれなかった。

 ひたすら床に額をこすりつけている半白髪を見下ろし、「そりゃあなぁ」とため息を飲み込む。

 ふてくされてそっぽを向く青年にお灸を据えたかったのか、一歩踏み込んで娘の子を後継にしたかったのか、そのあたりはわからない。

 だがどう見ても、このクソガキに当主の座は荷が重い。

 丁度いい機会と、この頼りなさに発破をかけたくなるのは仕方がないのかもしれない。

 それが悪い事だと断ずることはできない。もちろん、ベストな方法だとも思わないが。

 当主である狩野青年のほうはわかりやすく、年長者の動きを叛意だととらえ、牙を剥いている。

 娘を正室にしたぐらいだから、上手く協力体制を築ける方法もあっただろうに、このままではいい方向にはいかないだろう。

 伊豆の多くが今川に臣従してきたが、狩野家は違う。

 もともと親今川の家系なので、伊豆における有力国人領主として、遠江における天野家のような扱いになるはずだった。狩野家もそのつもりでいただろう。

 だが狩野郷は韮山に近すぎ、そこを主城とする承菊がいる。

 狩野青年がそれを面白く思わないのは、わからなくもない。

 それが理由かどうかはわからないが、気に入らない正室の腹の子を承菊との不義の子だと言い立てるのは、安直というか、浅はかというか。

 中には信じる者もいるのかもしれないが、噂が広まる前に承菊が動くだろう。

 ……酷いことにならないといいが。

 流血沙汰になりそうなら介入しよう。そう思いながら、いまだブルブルと首を左右に振り続けている家老に視線を戻す。

「実際のところは本人に聞く方が良い。腹の子に障らぬようなら、ともに韮山城に参れ」

「そっ、某がでございますか?」

 嫌なのはわかるが、せめて顔に出すなよ。

「狩野殿もな」

 孫九郎は、狩野青年の顔が慌てた風にこちらを見るのを無視して、パチリと扇子を閉じた。

「疑惑は早いうちに晴らした方が良い。次郎三郎、支度はまだか見て参れ」

「お断りするっ」

 その若干ひっくり返った大声に、次郎三郎が中腰の姿勢で固まった。

「ワシを陣中に連れ込むおつもりか!」

「ほう、韮山を敵陣と言うか」

「殿っっ!」

 よく考えもせず発したのだろうその言葉を、孫九郎はすかさず拾い上げ、家老の甚左衛門は悲鳴のような声を上げて打ち消そうとした。

 甚左衛門が……というよりは狩野一族が、今川家に敵意を持っていないのはわかっている。

 だが叫びながら立ち上がろうとした家老の動きを、孫九郎の周囲は許さなかった。

 一番早く動いたのは、もともと中腰だった次郎三郎だ。その踏み出した一歩が、ほかの者たちに伝播した。

「………な、な」

 言葉もなくわなわなと震える狩野青年には、こうなるかもしれないという覚悟などなかったのだろう。


 もともとはありがちな敵対心だったのだと思う。

 僧侶の身で韮山城を預かり、伊豆衆に向けて容赦のない難題を突き付けた承菊に。

 年下の孫九郎への反発もあったはずだ。子供の分際で偉そうに大人を顎で使い、好き勝手しているように見えたのかもしれない。

 そして実際に孫九郎を見た時、そのあまりの小ささと貧弱さに、ますます怒りが収まらなくなったのもわからなくはない。

 武士は強さを是とするところがあるから、弱さは即侮蔑につながる。

 初対面で孫九郎に不遜な態度を取る者が多いのはそのせいだ。

 だが大抵は、内心でどう思っていようとも、すぐに行動を改める。今川家という巨大な勢力に敵対したくはないからだ。

 残念ながら狩野青年には、戦国武士として必須のその感覚が備わっていなかったようだ。

 広間に集まっていた狩野一族はあっという間に組み伏せられ、行動不能になった。

 唯一の例外が狩野青年だが、その首筋には谷が抜いた刀の切っ先が突き付けられている。

「こ、このようなことをして……」

 この期に及んで威嚇しようとしたが、その声は震えている。

 それはそうだ。

 己の発した言葉がブーメランのように返ってきて、胸に突き刺さったのだろう。

 ただですまないのは、狩野家のほうだ。


「お見事でございます」

 戻ってきた原殿の第一声は、感に堪えないというに震えていた。

 席を外している間にさくっと制圧された広間を見て、何を思ったのかだいたいわかるが……違うから。狩野家を下そうとして一晩世話になったわけでは断じてない。

 だが否定するのも何なので、「……まあ、こんなものだろう」と苦笑しておいた。

「支度は済んだか?」

「はい、すぐにも出立できます。この者たちはどうされますか?」

「そうよな……」

 孫九郎は、床に転がり真っ青になっている男たちを横目で見る。

 ひとり耳障りな大声でわめいていた狩野青年は猿轡を噛ませておいたから、制圧済みの広間は静かなものだ。

「とりあえず韮山城に連行する。あとは承菊と話してみよう」

 制圧された狩野衆の表情が絶望で染まる。

 ここまでくると、狩野青年を当主に据えたままではいつ今川に反旗を翻すかわからない。承菊は容赦なく排除しようとするだろう。

 孫九郎に異存はないが、少しだけ……ほんの少しだけ、申し訳ない気持ちにもなっていた。

 若い頃の一過性の反抗だとわかっているのに、それを上手くいなせなかった。誰が悪いかと言うと、それはもちろん狩野青年が一番悪いのだろうが、きちんと対応できていれば防げたかもしれない事態だ。

 無意識のうちに、自身を大人とカテゴライズしているのに気づいて首を振る。

 孫九郎同様、元服を済ませた狩野青年も立場としては大人だ。年少だからという甘えは許されない。

 今の時代に、年齢による配慮などありはしないのだ。

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― 新着の感想 ―
「ワシを陣中に連れ込むおつもりか!」 「ほう、韮山を敵陣と言うか」 陣中ではなく敵陣では?
[一言] 5つも年下の孫九郎の立ち居振る舞いに隙が無いぶん、狩野家当主の言動がより幼稚に感じられてしまう罠。 常人離れしているのは孫九郎のほうで、狩野家当主のような若者は珍しくないのでしょうが、生きる…
[一言] 狩野家が荒れるようだと北条や武田に付け込まれるので改易でも仕方ないのかな。穏便に済ませるなら、生まれてくる子に跡を継がせて、若い当主と家老は墓か寺っぽい? >「こ、このようなことをして………
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