17-1 伊豆 韮山城前
行軍速度で数時間ということは、普通に馬だと数十分の距離だ。
こんな事なら、夜道を厭わず直接韮山に向かえばよかった。
大人しく徒歩で付いてくる狩野衆とは違い、当主は猿轡をされていても喚き暴れている。狂ったように暴れる人間を連行するのは容易ではない。
これが三日四日の距離なら時間をかけて落ち着かせることもできるのだろうが、この距離ではまだ気力体力ともに尽きるには早い。
全身全霊で抵抗するその姿を、家臣たちはどういう思いで見ているのだろう。
今川軍は敵ではないんだぞ。穏便に大人の対応をしていれば、こんなことにはなっていないのに。
やがて川沿いに開けた場所が見えてきて、ちらほらと今川軍の旗指物が目に入る。
まだ戦が終わってそれほど経っていないので、落ち武者狩り、あるいは往来する者たちに目を光らせているのだろう。
ひとつ尾根を抜けたところで、巨大な韮山城が見えてきた。
承菊が北条戦に備えて手を入れてきた城だ。城自体というよりも、その規模感に感服する。
今川館の何倍も広大で、守りも堅い。
天守閣はないのだが、山の斜面を利用した石組と土塁がまるで城塞の壁のように見える。
しばらく見ていると、韮山城にのぼり旗が上がった。
白地の旗だ。まだ距離があるので、はっきりと家紋まではわからないのだが、孫九郎を出迎える為だろうから、「丸に二つ引両」……今川家の家紋だろう。
そしてさらに進むと、城の各門からわらわらと大勢の兵たちが走り出てきた。
狩野衆が緊張して身構える。喚いていた狩野青年もさすがに黙る。
孫九郎ら一行は立ち止まった。出迎えにしては大仰すぎるのは、何か考えがあるのだろう。
城から出てきた兵たちは整然と並び、まるで訓練したかのような動きでドン! と槍を立てた。
その列の間からゆるゆると歩み出たのは、墨色の法衣の僧侶。
この距離で男前かどうかなどわかりはしないのに、立ち居振る舞いにさえ端正さを感じる。
その現代人に近いスタイルの良さもズルイと思う。陽光を照り返すつるつるの頭を、扇子でパチパチと叩いてやりたい。
黒い法衣がふわりと風をはらみ、またひとつ美麗なエフェクトを追加する。男前は何でも似合うな、くそう。
やがて、顔が分るぐらいに距離が近づき、承菊はその場で両膝をついた。
狩野衆だけではなく、見守っていた多くからどよめきが走る。
恭しく、これ以上ないほどの丁寧さで頭を下げた承菊に、孫九郎が思ったのは「やりやがったな」のひと言だ。
こいつが殊勝な時には、絶対になにかやらかした後だ。
報連相って知っているか? 事後報告の事では断じてないぞ。
孫九郎は「はあ……」と深くため息をついた。
それを聞いて、傍らの次郎三郎がビクリと怯えたように震えた。……お前のその感覚はきっと正しい。
孫九郎はもう一度息を吐いてから、せかせかと歩き始めた。
近づくにつれて、伏せられた承菊の表情に腹が立ってくる。
こいつの「やらかし」は、行き過ぎているが間違ってはいない。孫九郎の望みと方向性は同じで、結果論としては上手くいっているのが始末に負えない。
だが、いつまでもスタンドプレーをされては困るのだ。
孫九郎は勢いよく法衣の襟をつかんだ。驚いた表情が上手いな。エセ坊主。
「まわりが同じ速さで走れると思うな」
第一声にはふさわしくない言葉だが、何か感じるものがあったのだろう、承菊の目力の強い双眸が大きく見開かれる。
「……かけっこのお話で?」
わかっているだろうに、とぼけた返答にまた腹が立つ。
子供とはいえ十歳の力はそれなりにある。全力でぶつかっていたったのに、微動だにしない体幹の良さにも苛々した。
「三浦水軍の件は聞きました。伊豆衆へ仕掛けられた下策の件も。お手を煩わせてしまい、大変申し訳ございませぬ」
違う。そのことではない。
孫九郎は承菊のきっちりと着こまれた法衣の襟をつかんだまま、三度目のため息をついた。
この分だと、孫九郎の幸運はため息の数だけ遠ざかってしまったに違いない。
そのまま思いっきり揺らしてやりたい気持ちを押さえ、最後に一度、ぐっと着物にしわが寄るほど力を込めてから手を放した。
「まあよい。聞かねばならぬことは多い」
「はい」
承菊はもう一度丁寧に頭を下げてから、両膝を伸ばし立ち上がった。少し距離をあけての対面なのに、露骨な程の身長差に顔をしかめる。
孫九郎は槍兵たちが整然と並ぶ間を歩き、その半歩後を承菊が追った。
「一度その頭を叩いてもよいか」
歩きながら脇に差した扇子に手をやり、憮然と言うと、周囲の者たちはぎょっとし、承菊はこてりと丸い頭を傾けた。
「拙僧の頭でございましたらいくらでも」
「言うたな」
孫九郎は扇子を握る手に力を込めたが、さすがに実行に移すのは我慢した。
……後が怖い。
「道中つつがなくお過ごしでしたか?」
歩きながら、軽い口調でそう尋ねられて「……まあ」とうやむやに返す。
つつがなく、といえばつつがなかったが、起こったことは色々と濃かった。こんなところで話すわけにはいかない事ばかりだ。
「下伊豆に向かわれるのでしたら、もう少し兵を厚くするべきでした。聞いた時にはひやりといたしました」
本心から気にかけていたような口ぶりだが、副音声で「余計なことを」と言われた気がする。
こいつの事だから、北条が南から兵を送ることは予想していただろう。
それを北条についた、ということにして、ざっくり伊豆を切り取るつもりだったのかもしれない。
……ありえそうだ。
ちらりと振り返った先の承菊は、血なまぐささなど微塵も感じさせない穏やかな微笑を浮かべていて、まるで「ちゃんとした」僧侶のようだった。




