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春暁記  作者: 槐
信濃編

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1-1 駿府 今川館1

 孫九郎の目の前には、鮮やかな紫色の桔梗が揺れている。

 差し出しているのは、まだ幼い女童めわらわだ。

 華やかな装いなのに、その両手は黒く汚れ、お付きの者たちが悲鳴をあげそうな顔をしている。

 桔梗は野草だ。寝殿造りの、細部にまで決まりごとのある庭には生えていない。

 こんな格好で、どこでむしってきたのだろう。

 いや語弊でもなんでもない。

 その女童の両手だけではなく、美しい織りの着物も泥で汚れている。

 真後ろにいる、おそらくは乳母なのだろう女性が、ムンクの叫びの姿勢のまま気を失った。

 それを見て「しまった」という表情をするあたり、悪い子ではないのだろう。

「……きれいな花だね」

 とりあえず、当たり障りなくそう言っておく。

 幼児とはいえ相手は女の子だ。無下にするわけにもいかず、差し出された桔梗を受け取ろうとして……

「御屋形様!」

 奥平の大声にビクリと肩を揺らした。

「何をなさっておいでですか!」

 声色は誤解を与えかねない厳しさだが、走り寄ってくるその表情は必死だ。

 回廊の遠い場所からすり足で小走りに接近してきた男に、女童は怯えた様に身を引いた。


 さぼっていたわけではない。厠に行った帰りだ。

 井戸に向かう途中で呼び止められて、可愛らしい贈り物を差し出されている最中ではあるが。

「そのほうらも何をしておる! また御屋形様にそのような」

 護衛たちが困ったように顔を見合わせ、肩をすくめる。

 奥平の言いたいことはわかる。

 だが相手は幼い女童だ。しかも差し出しているのは野草だ。

 女童には女性のお付きがおらず、しかもいつものようにアピールの激しい「どこぞの姫君」ではなかった。

「よいではないか」

 孫九郎にしてみても、こんなに幼い子に強く言って聞かせる必要は感じない。

 むしろ責められるべきなのは、許可のない者をこの庭に通した警備担当だろう。

 にっこりと笑顔を浮かべて桔梗を受け取ると、若干怯えた様子だった女童の表情がぱっと明るくなった。

「どちらの姫君か存じませぬが、ここへの立ち入りは禁止されております」

 奥平の声が苛立っているのは、連日ここへ侵入しようとする者が後を立たないからだろう。

 厄介なことに、多くは忍びなどの不審者ではなく……いや不審者なのかもしれないが、孫九郎に害を及ぼそうとしているわけではない。

 孫九郎は数えで十二歳になった。数えなので実際には十歳だが。

 感覚的にはまだ結婚には早すぎる年齢だが、孫九郎の立場としては、そろそろ妻をと言われる歳ではある。

 最近はそのデッドヒートが盛んで、国内の同世代の女子(の親)が余計な事を画策してくれている。

 そもそも今川館の本殿周辺に近づくことができるのは、限られた身分のものだけのはずなのに、こうやってふらふらと「迷い込む」者が二日に一組はいる。

 この桔梗の女童も、本人はわかっていないのだろうが乳母か誰かが確信犯なのだろう。

 だが、せっかくのおめかしの着物が泥で汚れ、差し出された桔梗も無理やりちぎったような不格好さ。

 孫九郎の目からは微笑ましく映るが、お見合いを期待している大人にしてみれば大失態だ。

 それにしても、こんなにまだ小さな子供に、正室ではなく側室になることを期待して行動させるのは、ちょっとどうかと思う。

 せめて正室が決まってから、あるいは子供が期待できる年齢の少女ならわからなくもないのだが。


「奥平、何か用事か?」

 追い払われてしおしおと下がる女性陣と、元気に手を振って来た道を駆けていく女童とを見送って、わざわざ探しに来た家宰に声を掛ける。

 それほど長く席を外したつもりはないので、なにかあったのだろう。

「はい。書簡が」

 書簡なら、日々大量にやり取りしている。

 つまり問題は内容か、あるいは差出人のほうか。

「信濃からです」

 まだ手を振っている女童を微笑ましく見送っていた孫九郎は、上げかけていた手を降ろして、思いのほか深刻そうなその顔を振り返った。

「叔父上か?」

「いえ、新之助殿からです」

 新之助殿というのは、三河の戦いで援軍を率いていた若い男で、海野家当主の甥だ。

 あれから二年たつが、今川家の安定とは真逆に、信濃は荒れている。

 公にはなっていないが、父がやらかした事も事だし、趨勢には気を付けていた。

 何よりも、海野家に婿入りした源九郎叔父が心配だった。

 海野家の次女へ婿に入り、海野の姓になったわけだが、あそこには嫡男がいる。

 てっきり跡継ぎがいないものだと思っていたが違った。

 嫡男は病弱で寝込むことが多く、戦働きができるような御人ではないらしい。婚姻しているが子はなく、次代についてが悩みの種だったとか。

 源九郎叔父は単純に一族の武力強化の為だけではなく、海野家の後継者を設けるという役割をも期待されていた。

 ……あまり穏やかな感じがしないだろう?

 孫九郎もそれが心配で、叔父ともだが新之助殿とも頻繁に書簡のやり取りをしていた。

 頻繁といっても、こういう時代のことだから、おおよそふた月に一度ぐらいのペースだ。

 ……先の連絡は半月前だった。

 奥平が、ただ事ではないと気を利かせたのも頷ける。


 勝千代が階を上がり回廊に立つまで、奥平は片膝をついて控えていた。

 気回しの男奥平は、普段は引き連れている配下を置いてきていた。書簡の内容が良くない可能性を考えたのだろう。

 勝千代は立ったまま書簡を受け取った。

 常にも増して丁寧な封書だった。

 ……いや、悪い話と決まったわけではない。信濃での小競り合いはずっと続いているが、大きな戦になる前兆は今のところなく、叔父も無難に戦勝を重ねていると聞く。

 上下に折られた封書を開くと、墨の匂いがした。

「……急使が来たのか?」

「忍びではないでしょうか。一応は武家のいでたちをしていたそうですが」

 書かれてそれほど日数が経っていないその書面は、時候の挨拶から始まっていた。

 良くない知らせならそんな事から書かないはずだ。

 一通り末尾まで読み終えて、孫九郎は長い息を吐いた。

「御屋形様?」

 その安堵の表情を読み取ったのだろう、奥平も肩から力を抜いている。

「逢坂を呼べ」

 よかった。

 知らず浮かんでいた笑みで、声が浮き立つ。

「叔父に子が生まれたらしい」

 しかも双子の男児だそうだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 勝千代ちゃんってば親父譲りのイケメンだし、女子供に優しいし(中の人は生前愛妻家)、勇知に馳せる名門今川家の現当主で(嫡男とかじゃなくもうお家を継いだ当主!!)トンでもないスペックですよね。 …
[良い点] 時を開けず、またお勝様(孫九郎様)のお話を読むことができ、とてもうれしいです! [気になる点] 出だしの、小さく活発なお姫様がとても可愛くて、推しが増えてしまいました! お屋形様の体が強く…
[気になる点] 御屋形様、井戸には辿り着けたんだろうか…w
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