1-2 駿府 今川館2
逢坂のしわの深い顔が、書簡を読み進みふっと緩んだ。
わかりやすく口角が持ち上がりかけて、思い返したように渋面を作る。
注意深くそれを観察して、「だよなぁ」と思いながら、濃い薬湯をすすった。
「おめでたいことではありますが……」
「そうだな、わざわざ急使で知らせてきたことが引っ掛かる」
気にするべきなのは、海野の嫡男か。あるいは、よりもよってまた双子だったという事か。
片方を嫡男の養子にする……というのなら、まだ予想のうちでは穏便なほうだ。
「二木は今どこにいたかな」
孫九郎は湯飲みを引き取りにきた弥太郎に問いかけた。
「掛川城にいらっしゃるのでは」
弥太郎は、通常運転の笑顔のままで、首を少しだけ傾ける。
父が対甲斐の国境から引き上げてきたのが五日ほど前だ。
恒例行事の侵攻は今年もまたやってきていて、朝比奈家だけでは手が回らない地域も出てきた。
幸いにも信濃は国内でドンパチやっているし、三河は井伊家がしっかり押さえつけている。伊豆も北条が江戸城奪取を優先させたので、しばらくは大きな衝突はないだろう。
つまりは父はまたも甲斐国境への配備だ。本当は信濃ににらみを利かせて欲しいのだが。
いや、申し訳ないが使い勝手が良すぎるのだ。つい右へ左へと動かしてしまう。
だがその分疲弊も多いから、休みはしっかりと取ってもらうようにしている。
「二木がどうかしましたか?」
逢坂が不思議そうな口調で問うてきた。
二年前の件で、福島家は信濃と縁づいてしまった。
むしろ引っ掻き回したというのが正解なのだが、源九郎叔父は英傑扱いで、たいそうもてはやされているらしい。
二木の情報操作と、都合が悪い事はすべて敵に擦り付けるスタイルが、見事花開いたというべきか。
「信濃に詳しいだろう」
「それはそうですが」
今となっては、源九郎叔父、いや海野新之助殿が随分と友好的に話をしてくれるので、大概の事情は把握している。
だが、孫九郎が知りたいのはもっと別の角度だ。
「……なりませんぞ」
ちらりと、可愛らしいに違いない赤ん坊を見に行きたいと思った瞬間、頭ごなしに叱られた。
「御屋形様ご自身がお出になられるなど」
「二木に行かせようかと思うたのだ」
もちろん、今川家当主がふらふら他国に出かけるわけにはいかない。
本音を言えば行きたい。だが厄介ごとの種になるわけにはいかないので行けない。
「兵を五百ほどつけて向かわせよう。赤子に難が及ぶようならいったん庇護したい」
行けないのなら来てもらえばいい。来れないのなら囲ってしまえばよい。
なんとも暴論だが、この場合は間違ってはいないだろう。
源九郎叔父の子なら孫九郎にとっての従弟だ。その身辺にきな臭いものがあるのなら、手を差し伸べてもいいはずだ。
「……そうですな」
逢坂が軽く顎を擦りながら頷いた。
「御屋形様からの祝いの品を届けるというのは? ……まだ生まれたてで祝いも気が早すぎますが」
この時代は幼児の生存率が低い。きちんと育つかどうかわからないから、大体は生まれてすぐにはお披露目などされない。
どんなに早くても百日、現代で言うところのお食い初めのあたりまで待ってからが一般的だと思う。
にもかかわらず、生まれた直後に知らせが来た。
やはり何かあるに違いない。
「御屋形様! 福島幸松にございますっ」
ふくふくとした乳の匂いのする赤ん坊を妄想していると、まっすぐ続く廊下の遠くからよく通る子供の声がした。
幸松は、孫九郎に代わって福島家嫡男になった。
出会った頃にはすでに孫九郎より身体が大きかったが、あれからもすくすくと成長し、すでにもう頭一つ分ほども背丈が抜かれてしまった。
孫九郎が小柄というのもあるが、それ以上に、この子の体格が良すぎるのだ。
明らかに福島家の血統だ、うらやましい。体つきだけではなく、その容貌も父に似すぎている。孫九郎がこうありたいと望む少年の姿だ。うらやましい。
せかせかと、やはり誰かを彷彿とさせる動きで部屋の前まで来て、その手前でいったん座る。
にこにこと満面の笑顔。また走って来たのだろう、頬が赤い。
「本日は御日柄もよく!」
うんうん。
「御尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じますっ!!」
きっと誰かが冗談で教えたに違いない大仰すぎる挨拶。
その元気はつらつな大声が響き渡るのは、奥殿ではもはや珍しいことではなかった。
「館内を走ってはなりませぬ!」
逢坂が遠慮なく叱りつける。
孫九郎が座る位置からは見えなかったのだが、長いまっすぐな廊下はさぞかし走りやすいのだろう。何度注意しても小走りがいつの間にか駆け足になってしまうようだ。
幸松の眉がへにょりと下がる。
そんな顔をされると、ついつい許してしまうのは孫九郎だけではないだろう。
「まあよい。怪我などはせぬようにな。女中が熱い白湯を運んでおるやもしれぬ」
走っていいと言ったわけじゃないぞ!
ふわっと笑顔になった少年に、しっかり釘だけは刺しておく。
幸松は行儀見習いという態で、今川館に出入りしている。
その名目でここに来る子供は多い。男女問わずだ。
だが多忙な孫九郎に、いちいちその全員の相手をする時間はなく、幸松への扱いは露骨に身びいきだった。
仕方がない。芯から弟だと思える唯一の子なのだ。
だがそれで増長させてはこの子にとっても、周囲にとってもよくない。
故に、会うのは週に一度ほどにしている。
幸松は、廊下に座ったまま深々と両手を前について一礼した。
所作を教えたのが誰かは知らないが、けっこうしっかり目に教え込まれている。
「掛川の父より、書簡を預かってまいりましたっ!」
この、いちいち語尾が弾むような喋り方が子供らしくて良い。
真似しようかと真面目に考えたが、今更そういうキャラでもないと思いなおす。
幸松は懐から書簡を取り出し、傍らの側付きに渡した。
見覚えのない顔だ。かつてこの子の側付きをしていた中にはいなかった。
その男が、受け取った書簡を孫九郎側の側付きに渡す。
父からの書簡だけではない、何でもリレー形式で運ばれてくるのは実に面倒だ。
だがそれが、孫九郎が今いる立場の「当たり前」だった。




