序-1:妹を追いかけて
梅雨が始まってすぐのころだった。ぽつり、ぽつりと降る雨のしずくを眺めながら、ひとりぼんやりといつもの路線バスに乗っていた。
いつもと違うのは、そのバスがいつもとは逆方向へと山道を登っていたことだろうか。
どうして、逆方向のバスへ乗ったのか? その理由は自分でもわからない。
心の中にぽっかり空いてしまった穴を埋めようとでも感じたのだろう、ただどこか遠くへ行ってしまいたい気分だった。
――ご乗車ありがとうございました。まもなく終点、古屋敷に到着いたします。車内に、お忘れ物の無いよう……
行く先もまとまらぬまま、どうやらバスは終点へ着いてしまったようだった。
運賃を支払い仕方なくバスを降りると、目の前に古ぼけた人の気配のない神社があった。
いや、バス停の近くには、その神社しか見当たらなかった。そのまま折り返しのバスに乗っても良かったけれど、どうせ目的地も何もないからと、吸い込まれるように鳥居をくぐった。
冷静に考えれば人のない場所にバス停などある訳もない。ましてや、終点のバス停など。
それはバスという乗り物が、人を乗せて走るための乗り物であるという当たり前のことを考えれば、自ずから明らかになることだ。
少し歩けば、集落か何かがあるに違いない。だけれども、そんなことに気づけるほど頭が回っていなかったのだろう。
それとも――運命だったのだろうか?
鳥居をくぐった先で、白い人影を見かけた。それは――
「真理? どうしてこんなところに!」
そこにいたのは――七週間前に亡くなったはずの妹だった。
妹の死因は、交通事故だった。
無茶な運転をする車が文字通り空を飛び、私たちの乗っていたバスにぶつかって、大爆発したのだ。
妹は、不幸にもバスの燃料タンクの真上に座っていた。即死だった。
身内の人間を亡くすというのは、思っていたよりも心に傷を負わせるものだった。
かろうじて生き延びた、生き延びてしまった私は、一か月の入院生活の中で、ひたすら自分を責め続けていた。バスの燃料タンクの位置くらい予め把握しておけば――意味のない自問自答も数えられないほどした。
退院してからも、数日は自宅を出る気力すらわかなかった。
そんな中で、亡くなったと思っていた妹を見つけてしまった。
幻? いや、それでもいい。追いかけなきゃ。
「帰ろう、真理。母さんも父さんも待ってる」
「いかなきゃ、いかなきゃ」
何かにとり憑かれているように呟きながら、斜面をものともせず登っていく妹を追いかけて、追いかけて、ひたすらに追いかけた。
なだらかな斜面で距離を縮められたかと思えば、急な斜面で引き離される。
そして錆びた鉄柵に囲まれた祠の前で、やっと妹に追いつき手を取った。
いや、取ろうとした。取ることができなかった。
私の手は妹の手をすり抜け、そして妹の方に目をやると――
――真理の体が、鉄柵をすり抜けていた。
「どうして? いかなきゃ、いけないのに」
驚いた顔で妹がそう呟くのと、彼女の左手が祠についたのは、ほぼ同時だった。
刹那。目の前が、真っ白になった。
とっさに目をつむった。目が見えなくても、何度も、妹の手を掴もうとした。
そして、あと少しで目を開くことができそうになったその時。
ギュッと、なにかを冷たいものを掴んだ感触がした。と同時に、得体も知れない浮遊感に襲われ、そして手をしっかりと握り返された。
「真理! 帰ろう」
けれども、返事が帰ってくることは無かった。いや、実際には帰ってきたのかもしれない。しかしそれを私が知ることは不可能であった。
何も見えない。
何も聞こえない。
……だけれども、少しじめじめしていて、心地がいい。
きっと、バチが当たったんだ。
神社の裏山などという、神聖な場所を踏み荒らしてしまったのだから。いくら、追いかけていたとはいえ。
……追いかけた? 何を? いや、誰を?
そうだ、真理! 妹を探さなくちゃ。
……駄目だ、見えない。何も見えない。
一つでもいい、情報を、情報が欲しい!
視覚がダメなら、聴覚は……駄目だ。
ならば、嗅覚は?
――感じた。上からだ。
ほんのわずかな、甘い香り。
でも、いい。せっかく掴みかけた身内の大切な情報を、逃すわけにはいかない。
だけれども……どうやって、上へ移動するんだろう?
背伸びをする。届かない。なら、なにか引っかかるものを……
ん? 背伸び? 体は、動く。ならば!
周りは、どうなっている? 確かめられる!
そうして私は、自分の周りがどうなっているのかなんとなくではあるが把握することができた。
岩山。どうやら私は岩山に閉じ込められてしまったらしい。そりゃあ、何も見えない訳だ。
そしてもう一つ。こっちも認めたくない。けれども、認めなきゃいけない。
私の体は、人間ではなくなっていた。




